63.罪は消えぬが
マスターの故郷。マスターが生まれ、救った集落。そんな場所に、マスターを殺してしまった自分が行ってもいいのだろうか。森の中を歩きながら、カイザは考えていた。
暫く歩くと、高い塀の立つ街の入り口までやってきた。鉄の門のアーチは崩れているが、柱にはかつて扉がついていたと思われる大きな金具がついている。向こうにはもう一つ同じような門があり、さらに向こうには高さは城、広さは街一つに相当する大きさのごつごつしい建物が一つだけあった。
「まるで要塞ですね」
ルージュが言うと、カイザもぼそりと呟いた。
「これが……街、なのか?」
「街だ。昔、街全体が要塞となって戦い、国で唯一迫害から生き残った街よ。この門も昔はでっかい扉がついてたんだ」
迫害されたことを嘆くどころか、ボロボロの門を誇らしげに見上げるおやっさん。
「英雄ギールが残した、自由の街なんだよ」
門を見つめるカイザの目が、じわじわと潤む。
「…カイザ?」
シドが聞くと、カイザははっと我に返り、言った。
「…やっぱり、俺は」
ルージュは悲しげに俯くカイザを見て、その肩に手を置いた。
「踏み出しなさい」
「……」
「それでも生きると決めたのならば、この街に足を踏み入れて……英雄の生き様を感じなさい」
カイザは弱気に潤む目でルージュを見つめ、視線を落とした。そして、小さく頷く。シドはカイザを心配そうに見上げてその手を握った。
三人のやり取りを不思議そうに見ていたおやっさんに、ルージュは微笑みかけた。
「行きましょう」
「…おう、」
おやっさんはその朗らかな笑顔をカイザ達に向け、歩き出した。カイザも、重たい足取りでその後に続く。門を一つ、二つ、建物の扉を潜る度、カイザの心臓がドクドクと激しくなる。
「ようこそ、ゼノフへ!」
おやっさんの言葉にカイザは顔を上げた。
「何これ、すごい!」
見えていないはずだというのに、シドが感嘆の声を上げている。それもそのはず。カイザも上を見上げて、固まってしまう程なのだから。
「どうだ、帝国の宮殿とまではいかなくとも、なかなかのもんだろ」
広く入り組んだ一階にはこれといって何もないが、中心には大きな噴水があった。そこから吹き抜けになっており、階段や通路が複雑に行き交っているのが見える。ざわざわと人が通り、賑やかだ。そこには何やら太い縄で吊られた大きな箱も幾つかあり、人がそれに乗り降りする度に上下へ動く。何層にもなった生活空間もまた、一階のように入り組んでいて迷路のよう。あまりにも構造が複雑なため、光を入れるための窓も歪で不規則に点々としている。まるで、怪物の体内にでもいるかのような……大きく不気味で、威圧感のある街。
「はあ……これは侵略も難しそうです」
「そうだろ? 今だって誰が攻め込んでこようと負ける気がしねぇなぁ」
おやっさんは街の軽い説明をしながらカイザ達を噴水の近くまで案内した。
「一階は何もないが、二階から三つの棟に別れてる。左腕棟は農牧、右腕棟は職人、真ん中の指骨塔には俺らのような商人が巣食ってる」
おやっさんは噴水の前にある彫刻の前で立ち止まった。カイザはそれを見て、固まった。
「この街を設計したギールの彫刻だ。街が救われた時、あいつはここでじっとこうしてたんだ。救ったのはあいつのはずなのに。なんか、面白いだろ?」
おやっさんは笑いながら、彫刻の肩を叩いた。それは、等身大のマスター。若くて少し痩せているが、その雰囲気はまさにマスターだ。傷ついた鎧と破れたマントを纏い、腰には立派な剣を差している。それはどう見ても、騎士だった。噴水に向かって跪き、両手を組んで俯いている。祈っているようにも、感謝しているようにも見える。左腕と、右腕のちょうど中心で指が絡み合うこの姿勢が街の棟の呼び名を由来しているようだ。
「……」
カイザはフラフラと彫刻の後ろに歩み寄る。そして、祈りを捧ぐその右肩に、手を置いた。
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「…カイザ、」
9つかそこらの頃。雨が降る森にカイザはいた。右足は脛の中心から明後日の方を向き、殴られた顔は傷だらけで血が出ている。そんな少年を見下ろすマスターとフラン、そして、数人の盗賊。
「迎えに来たぞ」
「……」
マスターはカイザの前にしゃがみ込む。カイザは肩で息をして、何も答えない。その手には盗んできたと思われる金装飾に赤い宝石が埋め込まれた燭台と、血塗れのナイフが握られていた。
「馬鹿が。無理そうなら退けばよかったんだ」
「…ちゃんと、盗ってきました」
苦しげにもカイザが呟く。マスターは溜息をついて、カイザに背中を向けた。
「ほら、おぶされ」
「マスター、それなら俺が……」
フランがそう言いかけると、マスターはすっと手を挙げて言葉を遮った。
「帰るぞ」
「……」
ナイフを握る手が、震える。こいつは背中を向けている。やれる、今なら。しかし、そんなことをしたら今度こそ……殺される。その背中の向こうにチラチラと見える自分の無惨な死体。
「早くしろ」
カイザは泣きそうになりながら、足を引きずってその背中に乗りかかった。マスターはカイザを負ぶって立ち上がり、雨の中を歩き出す。
誰も、何も喋らない。雨が木々の葉を打つ音を耳に、カイザは泣いていた。死んでもいいと思うから、殴られようが切りつけられようが獲物に向かっていけるのに……生き延びると、この命が惜しくなって目の前の男が殺せない。そんな心情を幼いカイザが自覚できるはずもなく。カイザは自分自身のことがわからなくて、泣いていた。
「…カイザ、」
マスターが、静かに言った。
「…お前は確かに盗賊として成長はしたが、まだガキだ。無駄に血を流すような深追いはするな」
「……」
「わかったな」
カイザは男の後頭部を睨む。自分が幼く、弱い事が悔しかった。冷たい雨の中で、この憎たらしい大きな背中が温かく感じることさえ……腹立たしかった。小さな手でマスターの肩を握りながら、カイザは泣き続けた。
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「…お、俺、」
肩に置いた手を慌てて放し、その手で口を覆うカイザ。その目からは静かに涙が流れている。おやっさんは驚いてかける言葉に困っている。頭を掻いてうろうろし始めた。
「俺は本当に……なんてこと!」
何度も、何度も後悔してきた。怒りに身を任せてしまった愚かな自分を、呪ってきた。死にたくなる程の胸の痛みを堪えながらここまできたが……やはり、罪が重過ぎる。
カイザは膝を折って俯いた。彫刻のマントにポタポタと涙が落ちて染みになる。シドは辛そうな顔でカイザの背中にしがみついた。カイザとマスターの事情を知るはずもない少年は、カイザの言い知れぬ悲しみにいても立ってもいられなかったのだ。ルージュはそれを、悲しげに見つめる。
「ギールを神様かなんかと間違ってんのか知らねぇが……ほら、見ろ」
おやっさんは彫刻の左脇にある石碑を指差した。嗚咽を堪えながらカイザはそれに視線を移す。そして……目を見開いて、じっとそれを見つめた。
ーー生きろ……カイ……ーー
カイザは手で目を覆い、再び嗚咽する。そこには、こう書かれていた。
"ギール・パールマンはゼノフを迫害した者とこれから自分を死に至らしめる者を許す。そして、その者達のために祈ろう。ゼノフ防衛を祝して。"
「帝国騎士だったギールは暴動の責任をその身に背負って死刑になった。これはゼノフを発つ直前の言葉だ」
おやっさんはあたふたしながら、カイザに言って聞かせた。
「あんたが何をやらかしたかは知らねぇが……自分を殺す執行人のために祈るような奴だ! あんたのことだって、ギールなら許してくれるって!」
カイザは弱々しく頷き、涙を流しながら目の前の彫刻を見つめた。じっと目を瞑って、祈りを捧ぐ若きマスター。懺悔と感謝が入り混じる中で、マスターへの尊敬の念とブラックメリーを受け取ったという誇りが沸き上がる。おやっさんが困ったようにルージュを見ると、ルージュはふっと穏やかに笑った。カイザの背中にしがみついているシドも、安心しているかのように微笑んでいる。
噴水の水が弾く音。涼やかな空気の波。行き交う人々の真下にある、どこか清らかな雰囲気に包まれたこの場所で……カイザはやっと、ギール・パールマンという人間を理解する。