60.少年の心遣いにも気付かぬまま
爆音にも似た銃声。男の手には、先から細い煙をあげる厳つい擲弾筒。人の腕程の長さがあるそれを、男は銃把を握って片手で軽々と持つ。扉は煙を上げてひん曲がり、その口を開いている。男は、擲弾筒を背中にかけて歩き出した。グレンは男を追って、走り出す。
「グレン!」
カイザの呼び声に振り返ると、フレンとクレアが鉤爪を振り上げて迫っていた。剣を構えようとしたグレンは勢いよく突き飛ばれて倒れ込む。素早く立ち上がり、顔を上げると、フレンの鉤爪をブラックメリーで受けるカイザと、鎖鎌にクレアの鉤爪を絡ませるシドがいた。
「カイザ! シド! いくらなんでも無理っすよ、そいつらは!」
「…混沌の化物よりはマシだろう」
カイザはぼそりと呟いて鉤爪を振り払った。フレンは大きく飛び上がり、距離をとる。シドは柄を分離させてクレアを鉤爪が絡んだ鎌ごと投げた。クレアは壁に足で着地した。シドは分銅の柄を振って、鎌を引き戻す。空を舞う白い鎖は、青い光で煌きながら柄の中に巻き取られてゆく。カイザは横目にグレンを見て、言った。
「行け。軍の大将同士、ケリつけてこい」
フレンとクレアが笑いながら互いに歩み寄り、言った。
「素敵なお友達ですこと。お兄様と同じで、馬鹿ですわね」
「ボロ雑巾みたいになっても知らないよ?」
カイザは二人に向き直り、ナイフを構えた。シドもニコニコと鎌の柄を接合し、少し低い体勢をとった。
「早くしろ! 守りたい物は自分で守れ!」
カイザが叫ぶと、グレンはぐっと言葉を飲み込んで扉へと走る。
「…あ、ちょっと待て」
グレンが振り返ると、カイザは背中を向けたまま、静かに言った。
「お前の弟と妹……結構つかえるようだから生かしておける自信はないぞ。俺も、シドも」
曲がった扉に手をかけ、グレンは口元だけで笑った。
「勘当された俺に、家族なんてないっす。そいつらは……敵っすよ」
「…そうか」
グレンはそう言って、扉を跨いだ。ランプがついた、薄暗い書斎。ズラリと本がぎゅうぎゅうと詰まった棚が並ぶ、黴臭い一室。その奥の広くなった空間のポツンと置かれたデスクの前に、男はいた。男はデスクに置かれたカルテや帳簿を見ている。グレンが歩み寄りながら、壁に並べて飾られたメスを十数本、カラカラとその手におさめる。
「見事だな」
男はぼそりと言った。グレンは何も答えず、手にしたメスを片手の指に挟み込み、残りを白衣の内側にしまう。
「これが、ロストスペルの可能性か」
「その資料は古いっす。今じゃ的確な診断に、組織培養や移植もできるっす」
「見事だ。ゴミ同然だと思っていた息子も、ロストスペルがあればそれなりに使えるようだな」
グレンは立ち止まり、男を睨む。男はカルテと帳簿をデスクに置いて、振り返った。
「いや、禁断の術に手を染めねば病魔と戦えない、ということか。やはりゴミだな」
「なんと言われようと、俺はあんたらを医者とは認めないっす」
「奇遇だな。俺もお前達のようなゴミの集まりを医者とは認めない」
男は背中に手を伸ばし、両手に擲弾筒を持った。
「汚いメスを使い回して汚い患者を切り刻むお前らに、聖なる医術を語る資格はない」
「金で患者を選ぶ商売の、どこが聖なる医術なんすか?」
指にメスを挟み込んだ両手の甲を男に向けるグレン。
「馬鹿に話しても、無駄なこと」
男が両手の擲弾筒をグレンに向けると、グレンは長い白衣を靡かせて大きく踏み込み、走り出した。
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名家に生まれた一人の少年がいた。少年はベッドに横たわる母を見下ろして、言った。
「父様は、世界一のお医者さんなんですよね」
「……」
「なんで母様は、いつまで経ってもよくならないのですか?」
並んで母を見下ろす父は、少年の頭を撫でた。
「お前も医者になればわかるさ、グレン」
この時、幼いグレンは父のわかるさ、という言葉を"治療法がわかるさ"と解釈していた。少年は昔から、どこかずれていた。しかし、医者としての才能だけは血となってその身にしかと受け継がれていた。
「父様!」
父の下で医学を学んできた少年は、立派な医師になっていた。
「なんでナルガ卿の手術を断ったんすか! すぐにでも手術をしないと命に関わるっす!」
「…あの家はもう長くない。宮廷からも見放されてる」
「それで断ったんすか! それでも医者っすか!」
「お前は馬鹿か。王室医長官の私が医者でなければ、この世に医者などいない」
この言葉も、父を越えれば自分が正しいと認めてもらえる、と解釈していた。大きくなってもやはり、ずれていた。
「…なんで、月の真珠を使わなかったんすか」
棺を見下ろして、グレンは涙声で言った。
「あれを使えば、母様の病は治ったはずっす! 父様は母様のために、あれを手に入れたんじゃないんすか!」
「……」
「父様!」
「…あれを使えるのは、ロストスペルだけだ」
「使えばよかったんすよ! 母様のためなら、そのくらい!」
「ロストスペルは違法だ。それに、使用したとて成功する確率は低い」
「…だから、諦めたんすか」
「……」
「父様が技術を出し惜しんだから、母様は。死んだらもう、戻らないんすよ!?」
「そうだ、戻らない。諦めろ」
「……」
「…馬鹿なお前には、わからないんだ」
父とグレンは、この時より本格的に敵対してゆく。グレンは父の目を盗んでロストスペルを研究し、街に下りては病人に無償の治療を施した。目を盗んだといっても、民たちのグレンに対する溢れんばかりの感謝が隠しきれるはずもなく。
「本当に、お前は見事な失敗作だ」
「……」
「メス一本、注射器一本、薬一包。幾らすると思ってるんだ? お前は善意のつもりだろうがな、その善行の資源はどこからでている。テレジア家だろ。金が尽きれば医者としても首が回らなくなる。そしたら民どころか貴族や王室の人間も救えなくなる」
「……」
「中途半端な立場で中途半端に情けをかけるお前のような奴を、偽善者というんだ」
「……」
「…出て行け。テレジア家を火の車にされても困る。お前のような自己満足の偽善に酔った危ない奴を家には置いておけない」
「……」
「出て行け。」
何一つ、言い返せなかった。話がわからなかったのではない。父の言葉がぐさぐさと胸に刺さる程、よく理解できたからだ。しかし、納得はできなかった。
グレンは家を出た。小さな医療鞄と、月の真珠をその手に。
父の言い分もわかる。自分が間違っているとも思えない。ならば一体、何が間違っているというのか。考えて、考えて……歩いているうちに、小さな医療鞄が大規模な医療機関へと変貌していた。革命を謳う、大きな鐘楼に。
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「…シド、女を頼む」
「えー、僕が目見えないから弱い方と当たらせるの?」
カイザの静かな言葉に、シドは大きな声で文句を言った。カイザは横目にシドを睨む。すると、女はクスクスと笑った。
「聞いた? フレン。僕ったら、わたくしをか弱い女として見てくれるみたい。嬉しいわねぇ」
「嫁の貰い手ができそうじゃないか、クレア」
兄妹は楽しそうに笑う。
「おい、そんな熊手女にシドはやらないぞ」
カイザがそう言うと、クレアは眉を顰めた。
「…熊手?」
「嫁き遅れた血生臭い女なんていらない」
シドが不満気にそう言うと、クレアの目が釣り上がり、二人を鋭く睨みつけた。フレンは隣で腹を抱えて笑っている。
「フレン?」
「ごめんごめん。ちょっと、面白くて」
クレアは熊手……いや、鉤爪を構えて言った。
「貴方達、女性に対して失礼ですわよ。鼻から脳髄引っ掻き出されたいんですの?」
「脳髄引っ掻き出す奴が女性なわけないじゃん」
「クリストフでもそんなえげつないことはしない」
フレンが大声で笑い出すと、扉の方から先程と同じ大きな銃声がした。カイザとシドははっと振り返った……その時、クレアはシドの懐に飛び込んだ。あまりの速さに動けないカイザ。クレアは鉤爪を突き出した。勢いのままに壁に押しやられるシド。二人は機材に突っ込み、割れた硝子から溢れる青い滝の向こうに消えた。
「シド!」
「君の相手は僕なんだろう?」
気がつくと、フレンの鉤爪が鼻の先に迫っていた。カイザは紙一重で避けて続け様に振りかざされた鉤爪をナイフで弾いた。そして、下からの蹴りを飛び上がって避け、宙返りして距離を取る。
「速いな」
「君もなかなか身軽じゃないか。テレジア家の施術も受けてないのに僕の爪を避けきるなんて。でもね」
フレンは再びカイザに斬りかかる。カイザは後退りながら鉤爪を弾く。速い連撃をナイフ一本では防ぎきれずにアーマーで受ける。しかし、
「甘い!」
フレンの回し蹴りを首に受け、硝子の円柱に叩きつけられるカイザ。硝子の中で気泡が揺らめく。ゆっくりと身体を起こし、首を抑えてけほけほと咳き込んだ。そんなカイザを見て、フレンは笑いながら言った。
「勝てるわけないんだよ、武器の数はおろか、速さまで僕に劣る君が」
「……」
カイザがフレンを睨むと、フレンはカイザの顔を見て表情を固まらせた。
「君、よく見たら綺麗な顔してるね。彫刻みたいだ」
「……」
「どういう手術をしたんだい?」
不思議そうにカイザを見つめるフレン。カイザは首を抑えたまま眉を顰めて立ち上がっり、フレンの方へと歩み寄る。
「純正だ。身体改造してるお前らと違ってな」
フレンはふっと笑った。
「へぇー……じゃあ君の顔、僕がもらおうかな」
フレンは床を蹴り、カイザに突っ込む。カイザはナイフとアーマーで鉤爪を凌ぐが、フレンの力に押されて硝子の柱に追い詰められた。
「僕の勝ちだ!」
青く光る銀の鉤爪が、カイザの頭めがけて振り下ろされた。
「…危ない危ない、」
滝から飛び出し、びしょ濡れの服を絞るシド。その背後からは、濡れた髪を鉤爪で掻き上げるクレアが歩み寄っていた。シドは振り向き、アーマーを外して濡れた羽織と上着を脱ぎ捨てた。露わになる褪せた赤色の薄い服に、尖った耳。シドは腕捲りをしながら呟いた。
「これならちょっとは軽いかな。寒いけど」
「貴方、小さいのに随分と戦い慣れしているのね」
「んー、まあねー」
シドはアーマーをはめる。が、濡れた素肌に中の下受けが突っかかって上手く入らない。
「目も見えないのでしょう? 怖くはないんですの?」
「んー……まあ、ね」
無理矢理腕を突っ込み、曲げたり伸ばしたりして調子を確かめるシド。クレアは腰に手を当て、笑った。
「準備はできまして? 僕?」
シドは、いいよー、と言って鎖を伸ばし、鎌を構えた。その瞬間、クレアはシドに斬りかかった。感覚を研ぎ澄まして避けるが、青い液体の匂いが僅かに感度を鈍らせる。そのせいで、紙一重で避けているつもりが、爪が服や肌を掠めてしまう。
「…もう!」
思った通りにいかないことに苛立ったシドは振り下ろされた鉤爪に鎖を絡ませ、両側へ強く引っ張った。すると、鉤爪は砕けた。驚いたクレアは後退し、折れた爪を見つめた。
「貴方、本当に見えてらっしゃらないの?」
「目玉ないもん」
シドは濡れた包帯を上げて見せた。クレアはそれを見つめ、怪しく口を緩ませる。
「…そう。見えないから、何も怖くないのね。上の地獄も聞いてる分にはただのお祭りですものねぇ」
「…地獄?」
「だったら、見えない恐怖をわたくしが教えてさしあげますわよ?」
何も見えない暗闇の中。目の前にあったクレアの気配が消えた。
「視覚じゃないなら、何であなたはわたくしを捉えるのかしら」
声がした方へ振り返る。が、気配がない。
「やっぱり、耳?」
反対から声がした。振り返るが、やはり気配はない。シドは首を傾げて周囲の匂いを嗅ぐ。
「鼻もいいのね」
シドははっと振り返る。いる。シドは身を捩ってかわそうとした。しかし、ザクっという音が間近にして、耳に痛みが走る。熱を持ち、どくどくと温かいものが耳から首へと垂れ流れる。
「鋭いのは聴覚と嗅覚だけではないようですわね。まるで獣だわ」
少し遠くにクレアの気配を捉えながら、シドは耳に触れた。軟骨の辺りがざっくりと縦に切れているが、まだ繋がっているようだ。
「…音と匂いはどうとでもなるけど、なんで気配まで変わったの? どうやったの?」
シドが聞くと、クレアはクスクスと笑った。
「一流の戦士ならできて当然。己の殺気を抑えるくらい造作のないこと」
「……」
殺気。この空間で犇く黒く、熱く、濃い気配。こんなものでなくとも、シドはそれまで煙の塔ではそれとなく人物を区別することができた。それは何故だったか……シドは今更になって考えていた。そもそも、殺気以外の何を感じ取っていたのだろう、と。
「…地獄がどうのって言ってたよね?」
「ええ。貴方は見えないから知らない、と。それがどうかしまして?」
シドは黒く淀めくそれをヒシヒシと身体に感じ、クレアという熱気を改めて感覚に刻みつける。そして、ふと笑った。
「いや? ただ、あんなのが地獄だと思ってるなら……笑えるな、と思って」
シドは鎌をクレアに向け、言った。
「僕が本当の地獄を教えてあげるよ。世間知らずなお姉さんに」
その時、シドの足元から黒い煙が溢れ出した。背中からは黒い翼がめりめりと音をたてて生え、白い八重歯が鋭く尖る。そして、包帯に二つの赤い光がぼんやりと透けた。それを見たクレアは眉を顰め、後退りした。
「貴方、貴方は!」
シドはニヤリと笑って口元に人差し指と中指を当てた。すると、足元から立ち上る煙がクレアに向かって伸びる。クレアは苦い顔をしながらも触手のように蠢く煙を掻い潜り、鉤爪を構えてシドへと駆け寄る。そして、目の前まで飛び込んで爪を振り上げた。
「みーつけた」
赤い光が、クレアを捉える。クレアが一瞬怯むと、その足に黒い煙が巻きつく。シドの鼻先まで迫っていた鉤爪は煙に吊るし上げられるクレアと共に引っ込んだ。クレアは円柱の中程に足を巻きつけられ、宙吊りにされた。
「最初からこうすればよかったなあ。耳が割れちゃった」
シドの足元の煙は伸びて、耳をいじる少年を持ち上げる。シドとクレアの視線が、並んだ。
「…わたくしを騙しましたわね」
「何が?」
「見えているんでしょう?! 本当は!」
シドはニコニコと笑いながら、言った。
「見えてないってば。まあ、見えてたらお姉さん、一瞬で死ねただろうけどね」
シドは鎌を振り下げ、クレアの耳を落とした。クレアは耳を抑えて悲鳴をあげる。
「こんなので泣かないでよ。地獄ってね、こんなもんじゃないよ」
クレアは小さく首を横に振る。
「僕ね、両目を抉り出されたんだ。結構痛かったよ? 地獄ってそんなもんでもないけど……やってみる?」
シドが首を傾げると、クレアは震える声で呟いた。
「…あ、悪魔」
シドは小さく笑い、手をクレアに伸ばした。クレアはビクッとして目を瞑る。すると、シドは手を引っ込めて鎌を握った。両手で持つ鎌の先に煙が集まり、大きな黒い刃になった。シドはそれを振り上げ、言った。
「…見えないから、知らずに済む」
クレアがそっと目を開けようとした。薄っすらと入り込む、青い光。次の瞬間、その光がぶっつりと途絶えた。
「…自分が死んだこともね」
砕け散った円柱。罅割れた壁に広がる、真っ赤な血。そして、その真下にぐしゃりと落ちる、首のない身体。黒い翼と黒い刃が煙のように消え、シドは床に着地した。そして、死体の側で立ち尽くす。
「地獄なんてね、見ない方がいいんだよ」
何も見えていないはずなのに、シドはクレアの死体の方を向いていた。死体から僅かに発せられる、恐怖を帯びた気配。それはどんどん薄くなり、冷たくなる。今自分は、どうやってこれを感じとっているのだろう。シドは消えかけの気配を目の前に、考えてみた。考えてみたところで、結局わからないのだが。