5.善意と悪意の計りは壊れやすい
東の国からやってきた一人の旅人がいた。彼は諸国行脚し、伝説を語り広めた。雲の上にて気まぐれに開かれる宴に男の名を冠する四人の美女が招かれた、と。
北の魔女ダンテ、煙の塔に住まうその愛らしさをもって神の酌童を担う。溢れる愛が目に見えるようにと、心が見える目を授かる。
東の女王ヤヒコ、国を統べるその知力をもって神の声を聞く。穏やかな愛の囁きが聞こえるようにと、未来を聴く耳を授かる。
南の聖母クリストフ、人々に畏れられるその力をもって神と快楽を共有する。激しい愛をその身で感じられるようにと、思いのままに動く手足を授かる。
西の巫女エドガー、俗世を捨てたその清き美しさをもって神に癒しを与える。切ない愛をその心に留めておけるようにと、永遠に朽ちぬ身体を授かる。
地上へ降りる際、四人はそれぞれ鍵を賜る。その鍵は天の宴を開く。そして、四人に一つの鍵を賜る。それは美女達のために神が用意した一室へ繋がっている。
純粋なダンテが開けば思い描くものを湧き出す泉がある部屋へ出る。気高きヤヒコが開けば世界の真実を語る花が咲く部屋へ出る。寛大なクリストフが開けば富を絶やさぬ宝石が眠る部屋へ出る。
しかし、謙虚なエドガーの望みだけは神であれど察することができず、望みに叶う部屋を用意できなかった。そこで、望みができた時いつでもそれを手にできるよう、彼女の部屋には望みを一つだけ叶える木が植えられた。
美女の一人が死せる時、鍵を巡りて世は乱れる。世界の秩序は崩壊し、終結したらば裏と表が一つに溶け合う。
伝説を語る旅人は正体も明らかにならぬままに行方をくらました。
「これが、伝説の内容だ」
黒い石造りの客室で、フィオールが資料を読み明かした。カイザは目を泳がせている。
窓際で茶を飲みながら二人はテーブルを挟んで向かい合っていた。
「俺が何でここへ来たのか、だけどな」
フィオールは資料をテーブルに置いて茶が入ったカップを手にした。
「マザーが伝説のクリストフなのかを確かめるためだ」
「マザーが?」
アイダの酒場で聞いた伝説にクリストフの名があったことにカイザは気付いていた。しかし、それがリノア鉱山のマザーであるとは心にも思っていなかった。伝説自体、信じきれずにいたのだから当然と言えば当然だ。そんな困惑しているカイザに、フィオールはカップを見つめたまま頷いた。
「80歳の婆さんで、醜い金の亡者だって聞いた。美女だなんて話は……」
「噂だろ。俺達は実際に見たわけじゃない。この世でマザーの姿を目にしたことがあるのは、お前が一緒にいた二人だけなんだからな」
「ローザとガトーか」
フィオールは茶を飲んでからやっと視線を上げ、カイザを見た。
「それより、お前が背負ってた死体……エドガーなんだろ?」
伝説が本当なら、きっとミハエルはそのエドガーという人物にあたるのだろう。腐らない身体、墓石の名前、思い出の鍵……怖いくらいに当てはまる。それでもまだ信じられずにいたのは、本当は信じたくなかったからなのだ。ミハエルが誰かに愛され、それに応えていたなんて。引っ掛かっていた不安が、現実としてカイザに迫ろうとしていた。カイザは、口を一文字にして黙り込んでしまう。
「…答えられないか」
答えたくなかっただけだ。カイザはアイダ一の情報屋フィオールが提示する情報から、目を背けた。
「まあいい。マザーと話せば全て明らかになるはずだ」
「…何で根拠もない昔話のことなんて調べてるんだよ」
「……」
フィオールは再び俯いた。
「…まさか、ミハエルを見てエドガーだと確信したから……鍵を狙ってるのか?」
カイザの言葉に、フィオールは顔を上げた。カイザは眉をひそめて睨みつけている。
「望みを一つだけ叶える木がある部屋に繋がる鍵……それ、狙ってるのか」
「違う!」
フィオールは声を荒げてテーブルを叩いた。カイザは表情も変えずに、睨んだままだ。フィオールは握った拳を震わせて、舌打ちをした。
「鍵には興味ない。ただ……」
フィオールは寝床に横たわるミハエルを見た。遠くから見れば、ますます眠っているようにしか見えない安らかな寝顔。カイザの疑いの眼差しに、フィオールは悲しそうな顔をして俯いた。
「お前のためだよ」
フィオールは額を抑えて溜息をついた。
「ギール……お前のマスターにも頼まれてたんだ。カイザに何かあったら、力になるように」
フィオールの手は、やはり震えている。カイザは彼の気持ちがわからない。いや、これまでも他人の気持ちを知ろうとしたことなどない。唯一理解したいと思えた相手がミハエルだった。幼少から仲良くしていたとはいえ、カイザにとってフィオールは盗賊の一団となんら変わりない、悪意の駆け引き相手でしかなかった。フィオールにとっては、違ったのだけれど。
「…俺には、弟がいたんだ」
震えが止み、声は落ち着きを取り戻す。
「賢くて、素直ないい弟だったよ」
「…死んだのか」
人の気持ちに鈍感なカイザだが、痛みには敏感だ。俯くフィオールを見つめる最中、脳裏を疑いと哀れみが交差する。
「殺された。俺に恨みを持つ奴に目をつけられたらしくてな」
フィオールは涙目で薄く笑った。
「弟一人守れない無力な自分を恨んだよ。そんな俺に、ギールが話を持ちかけてきたんだ。クロムウェル家からさらってきた餓鬼によくしてやってくれ、ってな。盗賊のマスターに言われて仕方なしに会ってみれば……死んだ弟と同い年の生意気そうな餓鬼ときた」
「…弟と俺を重ねているのか」
「悪いかよ。お前の成長を見るのが楽しみになって、お前が危険に晒されれば心配になって」
フィオールは自嘲するような笑みを浮かべる。カイザは、自分を弟のように思ってくれていたことを嬉しくも思ったが……やはり、心のどこかでは彼を疑っていた。今は心配してくれていても、いつか、裏切られるのではないか、と。
「お前が盗賊に追われているくらいなら、別によかった。身を隠すなら俺のツテでなんとでもなるからな。でも、エドガーに関わるっていうなら話は別だ。混乱をもたらす美女……そんなのにお前を関わらせたくないんだが」
フィオールは俯いたまま、カイザを見た。
「その様子からして、死体を手放す気はないんだろ?」
カイザはフィオールの眼差しを、しっかりと受け止めて頷いた。
「そうだろうと思って、根拠のない昔話でも一応調べておいたんだ。確か、墓荒らしを探している……だったか」
「……」
何と言っていいかわからず困っているカイザを、フィオールは容赦なく見つめる。
「何故だ」
「……」
「何故墓荒らしを探している」
「……」
「お前は、その死体とどう関係があるんだ」
伝説、鍵、混沌……どれもカイザにとってはどうでもよかった。彼はただミハエルのために、盗まれた宝物を探しているだけだったのだから。
「…やむを得ない理由があるなら俺だって力になる。そのために俺はお前を追ってきたんだ。だから話してくれないか」
フィオールの真剣な眼差しは、切望する弱々しい眼差しに変わった。カイザは、重たい口を開いた。
「伝説なんて、まだ信じられない。彼女がエドガーだろうがなんだろうがどうでもいいんだ、そんなこと。ただ……俺は、盗まれた宝物を探しているだけだ」
突き付けられるエドガーとミハエルの共通点に、カイザはまだ強がっていた。しかしそれは、真偽がどうあれ目的は果たそうとする開き直りにも似た覚悟の表れだったのだ。
「ミハエルの死を悼む人々が彼女のためだけに埋めた宝物を……取り戻したいだけなんだ」
カイザは、目の前のカップに視線を落とした。そこには言葉に詰まる情けない顔をした自分が映っている。
苦しかった。ミハエルのこともそうだが、フィオールの善意さえ素直に受けられないことが苦しくて、胸が痛かった。嬉しいのに、心がそれを抑制してしまう。そんな自分が弟と重ねられて優しくされてきたことにも、申し訳なく思えてならない。フィオールの眼差しが、心苦しかった。
「失礼します」
扉の向こうからガトーの声がした。フィオールは少し慌て気味に返事をする。ガトーは部屋に入り、軽く頭を下げた。
「謁見の御用意が整いました」
「おー! さすがローザとガトー!」
フィオールは素早く立ち上がり、カイザの腕を引いた。カイザが見上げたフィオールは、いつものように笑っていた。
「怪しげな死体から手を引いて欲しいのは山々だけどな、お前が突き進むってんなら俺も付き合ってやるよ」
「…フィオール」
「ほら、情けない顔するな! まずはマザーから情報収集だ」
さっきまで泣きそうな顔をしてカイザを見つめていたはずなのに、今度は急かすようにカイザの腕を引くフィオール。
「…盗まれた宝物を見つけたら、必ず手を引く」
「わかったよ」
幼少の頃、暗く荒んだカイザにいつも明るく笑いかけてくれていたフィオール。その頃は彼の優しさにも、存在の大きさにも気付けなかった。
「ありがとう」
心苦しさに苛まれながらも、やっと口にできた感謝の言葉。フィオールに聞こえたかさえ怪しい声量だったが、確かに彼は感じていたのだ。人の善意と、優しさを。
二人はガトーに案内され、白い屋敷に足を踏み入れていた。平屋ののっぺりとした外観とは違い中は薄暗く、薄い石で作られた行灯が連なり異様な空気を醸し出していた。そんな屋敷の奥にある地下へ続く階段を下る。広く、長い、終わりも見えない階段を一向に。
カイザもフィオールも何やら落ち着かない様子だ。何故なら、中は見渡す限り女、女、女……わかっていたこととはいえ、男ばかりに囲まれて生活してきた二人には未知の世界だ。
「ほ、本当に女ばかりで……なんか怖いな」
耐えきれず、フィオールが思っていたことをポロリと口に出した。ガトーは穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ここは本来、マザーの身の回りの世話をする侍女達だけが集められた男子禁制の聖域ですから。彼女達にしてみたら男のあなた方のほうが物珍しいと思いますよ」
「じゃあお前はもしかして……」
カイザの驚く声に、ガトーは首を傾げる。カイザはガトーの首飾りだけが輝く上半身を凝視した。しかし、そこにはカイザが思っているようなものは見当たらない。
「…俺は出入りが許されてるってだけで、男です。女ではありません」
「そ、そうだよな」
「何考えてんだよ、お前」
フィオールがカイザの頭を小突いた。ガトーは肩を震わせてクスクスと笑っている。
穏やかで物腰柔らかな口調とは不釣り合いな、スラリと伸びた身長に筋肉質な上半身。行灯に照らされた褐色の広くたくましい背中は、男の色気で艶めいている。こんな奴が女だったら、自分は男をやめたくなる……そう、カイザは考えていた。
「ガトーが女だったら、俺は男やめるね」
フィオールも同じことを考えていた。
暫く歩いていると、階段が終わり広い場所へ出た。そこには大きな扉以外、何も見当たらない。
「ここは、俺だけが立ちいることを許された一室」
ガトーはその扉をゆっくりと開く。
「奥宮です」
薄暗く、広い室内には香の煙が立ち込めている。その向こうの御簾には、人影が揺らめいていた。怪しげな雰囲気の部屋の前で、二人は立ち尽くす。
「あれが、マザー・クリストフ……」
フィオールが小さく呟いて目の前の影を改めて認識する。カイザはゴクリと唾を飲み込み、影を見据えていた。
「どうぞ、お入りください」
ガトーに促され、二人は部屋に足を踏み入れた。緊張気味に奥へ進み、御簾の前に並べられた台座に腰をかける。カイザはミハエルをおろし、隣に座らせた。
「…おい、カイザ。お前聞きたいことあんだろ」
フィオールが小声で話しかけた。カイザはフィオールを横目に睨んだ。
「フィオールだって……」
「お前が先に聞けよ!」
二人が言い争っていると、御簾の向こうから笑い声がした。二人はピタリと言い合いを止め、笑って震える影を見つめた。
「どっちだっていいだろ、待つのは嫌いなんだ」
ゆっくりと、褐色の細い指が御簾を捲り上げる。艶かしく台座に伸びる足、曲線美を描くくびれた腰、首飾りが谷間に埋まる豊かな胸、そして……
「…は?」
御簾が上がりきり、フィオールはガトーを見た。ガトーはにっこりと笑っている。カイザは開いた口が塞がらない。
「あたしが、マザー・クリストフだ」
芯の強い漆黒の髪に、強気そうに吊り上がる黄金色の瞳をした目。
「ローザが、マザー?」
フィオールが震える指で台座に座るローザを指差す。少女は驚く二人を楽しそうに見つめて扇を広げた。
「さて……手土産の封を、破ろうか」




