58.少女でもあり母でもある
「ん。」
「あ! 業輪!」
ダンテは金色の輪を受け取り、嬉しそうに微笑んだ。そして、それを手にくるくると回る。光に当ててみたり、テーブルで転がしてみたり。待ちわびていたそれは、少年の無邪気な笑顔を金色に映す。
「……」
立ち尽くしてダンテを見つめるクリストフ。その表情は、暗い。
「どうした。部屋を開いたのだろう? もっと嬉しそうにしたらどうだ」
椅子に座って扇を緩く仰ぎながらそう言うヤヒコだが、クリストフとは目を合わそうとせずに無表情でダンテを見つめたまま。クリストフはそこにある椅子に腰掛けた。
「…そこは神の席だぞ」
ヤヒコが冷ややかに諭すが、クリストフはダンテが嬉しそうに握る業輪を見つめて問う。
「あれはなんだ」
「…精霊から聞かなかったのか? 世界の業を、世界の秩序を守る力に昇華する輪だと。我らの身体を通してな」
「……」
黙り込むクリストフ。自分が聞きたかったのは、そんなことではない。しかし、本当は何が言いたいのかもわからない。どこか、業輪の存在について納得できずにいるところがあるのは確かなのだ。それが……言葉にならない。ヤヒコは扇を畳み、小さく息を吐いた。
「…我々は粒子を介して繋がっている」
クリストフはヤヒコを見た。ヤヒコは何処を見るわけでもなく、テーブルに視線を落としている。
「意識や身体も別個であるようで、違う。大地と、水と、大気。さらにはその向こうまで。時間という流れも大きな水槽で波打つ水に変わりなく、我々もその中の魚と変わりない。一つなのだ」
「…なんだ。哲学は嫌いだ」
「水が淀めば水槽は曇り魚は死ぬ。その淀みを清めるために、4匹の魚が選ばれたのだ」
「…4匹だけが犠牲になれば済む話だとでも?」
「最初に言ったはずだ。別個であるようで、違うと」
クリストフは溜息をついて頬杖をついた。ちらっと視線を上げると、ベンチには3度目に見るあの後ろ姿。風でも吹いているのか、黒い髪はさらさらと靡いている。
「自分だけが苦しいわけじゃないと言いたいのか」
「…もうよい。そなたにはそれで限界のようだ」
ヤヒコの諦めたような物言いに、クリストフは眉を顰める。横目で見ると、ヤヒコは涼しい顔をしてミハエルを見つめていた。
「…あれはいいなぁ」
「あれ?」
「エドガーだ」
「…ああ、わかる気がする」
クリストフは再びミハエルを見た。そこにいるのかいないのか、消えそうな程に穏やかで静か。それでいて何処か、見ているだけでも温かいのだ。
「身体に、蛇の鱗が現れただろう」
ヤヒコがぼそりと呟いた。クリストフは思わず左腕を抑える。
「あれは慰痕、というらしいな」
「精霊から聞いた。業を司る蛇があたし達の身体の中で暴れ回った跡だろう」
「暴れ回っているのは何故かわかるか」
「…?」
クリストフがヤヒコを見ると、ヤヒコは小さく笑った。
「その蛇も痛みに悶えているのだ、腕を抑えて踞る我らと同様に」
「…そうなのか?」
「さあ、私の想像だ」
「あんな苦しみを味わってよくそんな和やかな想像ができるな」
「面白いだろう?」
ヤヒコは扇で口を隠してくすくすと笑う。そして、はあ、と息をつくと静かに言った。
「そなたと同じだ。私も、あの痛みが怖い」
クリストフの眉間の皺が緩む。ヤヒコは薄く笑ったまま。
「星と宇宙と一つであって私の痛みも決して私だけのものではないはずなのに……時間にしてみたら、私が布団の中で怯える時間も星の上ではたった一瞬のことだというのに。それでも、恐ろしいさ」
「……」
「だからこそ、そんな慰みの想像をしてしまったのだ」
自嘲するように言葉を並べるヤヒコ。クリストフは鼻で笑って、言った。
「一つといえど別個で生きてるんだ、当たり前だろう」
「…そうだな。そなたはそういう女だ」
褒められているような、貶されているような。しかし、悪い気はしない。クリストフは溜息をついてベンチを見た。
真っ白な世界で、彼女は一体何を見ているのだろう。それとも、何も見ていないのだろうか。その黒い瞳には一体何が映っていて、何を考えているのか……静かな後ろ姿を見つめ、それをじっくりと考えているだけで心は夕凪のように穏やかになる。わかるはずもないのに考え、そして、行き着く。もしかしたら、自分と同じことを考えているのだろうか、と。すると、彼女と繋がったような気持ちになるのだ。まるで、世界と一つになれたような気がするのだ。自分という何かがじわりと身体を透けて、空気や彼女の発する何かに滲んでゆくような……そんな気が。
これが、3度目の宴。帝国とクロムウェル家の抗争も終わり、大陸が統べられたばかりの頃。
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泉が開かれた一室。円になった石造りの床に、ダンテとフィオールが陣を描いていた。
「…ダンテさん、やっぱり俺が描きましょうか?」
「何も二人だけでやらずとも」
心配そうに見つめるオズマとルージュ。ダンテは声を荒げて言った。
「駄目! 甘やかしてたらこの弟子、いつまでも使い物にならないじゃん! ただでさえ馬鹿なのに!」
「なんだと! 馬鹿ならそこにいるヤブ医者一人で充分だ!」
魔術書を投げ出して滑石を後ろで棒立ちしていたグレンに指すフィオール。グレンは驚き、情けなく目尻を垂れさせる。
「ヤ、ヤブじゃないっす……」
「先生! 先生は本物の医者ですよ! 世界一です!」
「そ、そうですよ! 医者で将軍なんて、か、かぁっこいいなぁ……!」
落胆するグレンを口々に慰める助手達。グレンは肩をすぼめて俯いている。
「これクリストフで、これがオズマ。で、これがフィオール!」
「へぇー……何が?」
花壇の方ではカイザとシドが談笑していた。しゃがみ込んで色とりどりの花を指差すシド。カイザが聞くと、シドは一輪の青い花を手にとり、言った。
「似合う匂いがするお花。これ、カイザにぴったり」
シドは笑顔で、その花をカイザに渡した。カイザはそれを受け取り、ありがとう、と言って微笑んだ。シドは嬉しそうに花壇に向き直る。
「お花に一つづつ言葉があるんだって。ルージュが教えてくれたんだ」
「花言葉ってやつか。ルージュは物知りだな」
「うん。いろいろ教えてくれる。カイザのお花は、"神の祝福"だって」
シドの言葉が一瞬、カイザの時を止めた。深い青。酔うほどに香る、高貴な匂い。
「……」
祝福なんて、された覚えもない。唯一この世に生まれてよかったと思えたのは…今ここにある出会いだけ。神の祝福なんて、いらなかった。黙り込むカイザに、シドは首を傾げる。
「…カイザ?」
「シド、」
シドの身体が突然浮いた。カイザが振り返ると、シドを抱き上げて立ち尽くすクリストフがいた。カイザは立ち上がり、無表情でじっとシドを見つめる少女を不思議そうに見た。
「クリストフ? 何?」
シドも不思議そうだ。少女は少し黙り込み、眉を顰めて舌打ちをした。
「こんなクソガキでも離れるとなると……」
ぼそぼそとクリストフが呟くと、フィオールが陣を描きながら言った。
「素直に寂しいって言えよ!」
「うるせぇ。さっさと描け」
クリストフはそう言ってシドを下ろし、陣の方へと歩き出した。シドはまだ何がなんだかわかっておらず、ぽかんとしている。カイザは小さく笑い、シドの頭に手を置いた。そして、二人は泉へと歩み寄りその縁に腰掛けた。
「…まだできないのか?」
煙草を一本取り出し、カイザが聞いた。すると、ダンテとフィオールが同時に顔を上げてカイザを睨む。驚いてくわえようとしていた煙草を落としそうになるカイザ。
「黙って待ってろ!」
「フィオールだよ! フィオールが悪いんだよ! ヨルダだったらこんな……!」
ダンテは言葉を詰まらせ、固まった。
「ヨルダ?! 誰だそいつ!」
「ダンテの弟子、だったか。そういえば、そいつどうしたんだ?」
クリストフが聞くと、ダンテは顔を歪ませ、ぽろぽろと涙を流した。フィオールとクリストフはぎょっとして互いを指差す。
「師匠を泣かすなよ」
「なっ……クリストフが変なこと聞いたんじゃねぇのか?!」
オズマは溜息をついてしゃがみ込み、ダンテを宥めた。ルージュもハンカチでその涙を拭く。
「…思い出させないでよ、ヨルダの事」
「いや、ダンテが勝手に」
「ヨルダは破門したんだ。 」
フィオールの言葉を遮り、オズマが言った。すると、俯いていたグレンが顔を上げた。
「ヨルダって、召還師ヨルダっすか?! 俺、一回だけ会ったっす。自分は英雄ダンテの婚約者だって言ってたんで、今度の集会でちゃかしてやろうかと」
ダンテはオズマに抱きつき、声を上げて泣き出した。グレンはぎょっとして自分を指差す。助手達も無言でグレンを指差していた。
「…何かあったのか」
恐る恐るカイザが聞くと、オズマは鼻で小さく笑った……が、目が笑っていない。遠い目をして、オズマは低く言った。
「あのアマ、ダンテさんを手篭めにしようとしたんだよ。弟子として信頼していた分、ダンテさんも隙だらけだったからね。見つけた時は本当に殺してやろうかと思ったよ」
ぐずるダンテの頭を撫でるオズマ。カイザ達は言葉を失い、呆然とダンテを見つめた。
「…え、英雄ダンテは確かに男前っすからねぇ。長身銀髪の美青年! 飛びつきたくもなるっすよ!」
グレンが苦笑いをして言った。すると、オズマは深く深く溜息をついた。
「魔法で成長した姿じゃない。このままのダンテさんを襲ってたんだよ、あの痴女は」
カイザは青ざめてシドを抱き締めた。シドは訳がわかっていなかったが、とりあえず抱き締め返した。
「世の中わからないよ。まあ、恋愛は人それぞれだとは思うけどさ……こんな小さい子供にトラウマ植え付けるなんて、もはや恋愛じゃなくて外道の所業だからね。地獄に堕ちればいいんだよあの変態女」
捲し立てるように早口でぶつぶつ呟くオズマ。その目は遠く、死んでいる。ヨルダはダンテどころかオズマにまでトラウマを植え付けているようだ。
「…シド君も、気を付けなよ?」
「何が?」
首を傾げるシドを力強く抱き締めてカイザが叫んだ。
「お前は俺が守る!」
「前も聞いたー」
ヘラヘラと笑うシド。そんなシドを抱き締めるカイザの顔は真っ青だ。オズマはカイザをじっと見つめていた。そして、ぼんやりしているフィオールに聞いた。
「…カイザ君、やけに怯えてるんだけど」
「あ、ああ。こいつも11の時娼婦に……」
「言うなー!」
カイザがフィオールに飛びつき、口を手で塞いだ。クリストフは額を抑えて首を小さく横に振った。その隣で、ルージュはもう話についていけず、唖然としていた。
「そうか、だからそんな死んだ魚みたいな目に」
一人納得しているオズマ。
「カイザ……今度から小遣い上げてやる」
クリストフが涙声でそう言うと、カイザはフィオールを睨んだ。
「お前のせいだぞ」
「…なんか、ごめん」
カイザはフィオールを殴り飛ばした。
ダンテも泣き止み、結局オズマとルージュも手伝い陣は描かれた。フィオールが広げる魔術書を覗き込み、陣と見比べてオズマが頷く。
「ダンテさん、大丈夫です」
ダンテは陣から離れ、それを隈無く確認する。
「全く。描くのは遅いわ師匠を泣かせるわ……フィオールも破門しようかな」
フィオールは魔術書越しにダンテを睨んだ。
「さて……行く人、荷物持って陣に入って」
ダンテが言うと、カイザは布に包んだミハエルと荷物を抱え、陣の中に入った。肩に蜥蜴の姿をとったルージュを乗せてシドもその後に続く。グレン達もあたふたと落ち着きなく駆け込んだ。オズマは陣の中心に大きな壷を置き、言った。
「呪文唱えたら目的地に着くまで絶対に息をしちゃ駄目だよ」
「長いのか?」
カイザが不安気に聞くと、オズマは少し黙り、にっこりと笑った。
「そうでもないよ」
その笑顔が余計不安になるカイザ。
「カイザ」
クリストフが腰に手を当て、カイザに歩み寄った。
「本当にエドガーも連れて行くのか」
「…ずっと、こうして歩いてきたからな」
「…わかった」
クリストフは小さく頷き、カイザを真っすぐに見た。
「最後に、もう一度。ゼノフを出たらシアトリアムで待て。ガトーとそこで合流してからパリスへ向かう。いいな」
「ああ、大丈夫だ」
クリストフはふっと笑うとシドの頭を撫で、言った。
「ちゃんと見えるようにしてもらえよ」
「うん!」
「ま、任せてくださいっす!」
吃りながらもグレンがそう言うと、クリストフは、頼む、とだけ言って微笑んだ。
「じゃあ、またシアトリアムでな」
「ああ」
カイザの肩を叩き、フィオールは離れた。それと共に、クリストフも後ろ歩きで陣を出た。
「ルージュ、エスコート頼むよー」
オズマが言うと、ルージュは尻尾を振って見せた。オズマはそれを確認し、静かに言った。
「行けます」
「よーし。じゃあフィオール、いってみよう」
腕組みをしたダンテは高らかに言った。フィオールは魔術書を開き、陣に手を置いた。
「雪に埋もれし花の屍よ、黒き大海となりて望む場所へと船を導け……」
フィオールが呟くと、陣は白く光り、壷の中から黒い液体が踊るように溢れ始めた。それは半球状にカイザ達を包み、蠢く。
「開門!」
その瞬間、液体は光る陣へと流れ込んだ。飛び散った液体も床を這って光の中へ入り込む。全て、陣の中心に消えた時。一瞬強く光ったかと思うと、そこには空の壷と黒くなった陣だけが残った。
「…成功……か?」
フィオールが首を傾げる。ダンテがその背後から、陣を見下ろす。
「うん、惜しい!」
「「何?!」」
フィオールが勢いよく振り返り、クリストフもダンテを見た。オズマはケラケラと笑っている。
「途中までは良かったんだけどねー、力んじゃったのかな。最後の最後、陣に行き通った魔力が燃えちゃってたよ」
「おい! あいつらは無事なんだろうな!」
クリストフが笑うオズマの胸ぐらを掴んだ。フィオールは頭を抱えて踞っている。
「そんな心配しなくても死にはしないよ。ルージュもいるんだし」
「何はともあれ術は成功はしたんだ、そう落ち込むことはないよ」
ダンテがフィオールの肩を叩いた。俯いていたフィオールは顔を上げ、すっくと立ち上がった。
「お前らがそう言うなら大丈夫だろ。俺もやればできるんだな」
「小火出しちゃったけどねー。ちょっと見直したよ」
何やら円満な雰囲気の二人を目を丸くして見つめる。クリストフは力なくオズマを放した。
「本当に……大丈夫なんだろうな」
「だから、大丈夫って言ってるじゃない」
不安そうなクリストフににっこりと笑って見せるオズマ。その笑顔はやはり説得力がないのか、クリストフはふいっとそっぽを向いた。しかし、向いた方には呑気に笑い合う師弟が。クリストフは小さく溜息をついた。
「…心配してるあたしが、馬鹿みたいだ」
この不安、聖母ならではといえる。子が離れると心配で仕方無い。大丈夫とわかっていても、そうなってしまうものだ。少女はまだ自分のシドやカイザへの仲間意識がどれ程のものであるか量りかねていたようだ。二人が息子のような存在にもなりつつあることに、気付いていない。