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Akashic Records~Edgar~  作者: 誠
◆煙の塔〜少年と泉〜
55/156

54.後悔しなければわからない

 庭の銀杏の葉が座敷に入り込み、畳の上に舞い落ちる。その真上では、ガトーが深々と頭を下げていた。


「面を上げよ、ガトー」


 ガトーがゆっくりと頭をあげると、座敷に一人の少女が入って来た。長い裾を引きずりながら、上座に向かって歩く。左耳の後方にまとめた髪は髪留めから先は黒く、根元から髪留めまでは白い。着物を着崩して露出した右肩は、東の国特有の黄色を帯びた柔らかな艶を放っている。そして、その目はこの国の山を思わせる深い緑色をしていた。少女は分厚い座布団に腰を下ろすと、肘掛けに体重をかけてガトーを見下ろした。


「お久しぶりです。ヤヒコ様」

「元気そうだな。クリストフはどうした。一緒では無いのか」


 何も知らない様子のヤヒコ。ガトーは笑顔を崩さず少し黙り、言った。


「母は多忙でして、俺が代わりに参りました」

「ほう、代わりに。して、その用とは」


 ヤヒコが聞くと、ガトーは再び頭を下げた。


「まずは、この度女王になられましたこと、心よりお祝い申し上げます」


 ガトーの言葉に、ヤヒコは顔色を変えた。


「ヤヒコ様……いえ、イトサマ。これからも母子共々、神に使える身として」


 その瞬間、ヤヒコは後ろに飾っていた刀を掴んだ。そして、ガトーの首めがけて刀を抜いた。ガトーは頭を伏せたまま、畳を叩いた。すると、畳は宙に浮いてまっ二つに切れた。まっ二つに割れた銀杏の葉が、ひらひらと舞い散る。畳が音を立てて落ちると、ガトーの姿はそこに無かった。


「一国の女王が図星をつかれたからとそんなにいきり立っては、国の行く末も目に見えますね」


 ヤヒコの後ろに立ち、その首に槍を突きつけるガトー。ヤヒコは刀を下ろし、言った。


「…貴様、それが母の友人に対する態度か」

「友人? ご冗談を。王位を継いだ途端に刺客を送り込むご友人など、母にはおりません」

「なんのことだ。私は王位など継いでおらぬ!」


 ヤヒコがそう言うと、ガトーの槍の先に青い火がついた。火は槍の切っ先をどろどろと溶かしてゆく。ガトーは槍を捨てて上座に上がる。そして、後ろに飾られた刀を手にした。すると、何かが手にあたって落ちた。ガトーがふとそれを見ると、黒い木箱が転がっていた。その中から顔を出していたのは、


「…烏天狗の、面」


 ヤヒコはゆっくりと振り返り、ガトーを睨む。


「現女王の母は、今病の床に伏しておる。いつ死んでもおかしくない。それを、貴様はめでたいなどと……」


 ガトーは横目にヤヒコを見た。その目は怒りで満ちている。


「その上、刺客だと?! ふざけるな!」


 ヤヒコが叫ぶと、ガトーの身体に青い火がついた。そして、騒ぎを聞きつけた家の者達が次々に部屋へ駆け込んでくる。ガトーは火に包まれたまま、ヤヒコを見つめる。ヤヒコは刀を握ったまま、ガトーに歩み寄る。


「貴様ら親子は心まで山賊に成り下がったようだな……もう神に仕える必要もない。消えろ」


 ヤヒコはガトーに刀を振るった。すると、ガトーはそれを鞘に納まったままの刀で受けた。その瞬間、ガトーを包んでいた炎は吹き飛び、畳を焦がした。


「…それはそれは、大変失礼なことを」


 ガトーがヤヒコの刀を払いのけ、後方に大きく飛躍した。ヤヒコはよろけてその場に座り込む。


「ヤヒコ様!」

「その者をとらえろ!」


 ガトーに向かって刀を向ける家臣達。ヤヒコはきつくガトーを睨む。すると、ガトーは冷たくヤヒコを見据えて、言った。


「…エドガー様、ご逝去」


 家臣が一斉に、ガトーに襲いかかる。


「やめろ!」


 ヤヒコの叫びが、座敷に響いた。秋風が縁側から吹き抜け、銀杏の葉をさらってゆく。ヤヒコは、驚いた表情でガトーを見つめていた。


「…本当、なのか」

「はい」

「では、西では鍵をめぐって……」

「……」


 ヤヒコは俯き、黙り込む。ガトーはヤヒコに背を向けた。


「行方知れずになった業輪を追っている最中、ヤヒコ様が女王になられたことを匂わせる東の刺客が西に現れたのです。業輪と、母と……一人の男を狙って」

「……」

「先程の祝辞に悪意はございませんでした。どうか、お許しください」


 ガトーはそう言うと、縁側から庭へ飛び出した。


「追え!」

「追わずともよい!」


 ガトーを追おうとした家臣に、ヤヒコが叫んだ。ガトーは塀を飛び越え、去って行った。


「ヤヒコ様」

「…よい。話が食い違っただけのこと。あれは先を急ぐ身だ。行かせてやれ」


 ヤヒコは立ち上がり、刀を戻した。そして、転がっている烏天狗の面を手にした。


「…ただの食い違いなのだろうか」


 ヤヒコは面を睨み、叫んだ。


「表裏一体の世は近い! 鬼がこの島を統べる時が……すぐそこまできている!」


 家臣達は感嘆の声を上げた。ヤヒコは振り返り、言った。


「業輪を探せ! あれがなければ、統べる世も失せる! 西に出向いて、探し出すのだ!」


 ヤヒコの命を受けて慌ただしくなる屋敷。ヤヒコは、じっと面を見つめたまま立ち尽くしていた。


「…クリストフ。世界の結末が……迫っているのだな」


 少女の呟きはただじんわりと、座敷に染み渡る。







「ガトーさん!」


 屋敷の裏の山。そこに、山賊達は息を潜めていた。ガトーは草木をかきわけ、笑顔で登ってくる。


「その火傷どうしたんですか!」


 山賊の一人がガトーの肩に目を留めた。肌がただれて血が出ている。


「これくらい、なんともありませんよ。あなた達を巻き込まずに済んで助かった」

「そんな、何かあったなら呼んでくれれば」

「いえ、ちょっと計算が狂ってしまったので。これでいいのです」


 ガトーは優しく微笑んで、山賊の肩を叩いた。


「さあ、大陸へ戻りますよ。残った者達も心配しているでしょうしね。早く戻って、リノア奪還の準備をしなければ」


 ガトーがそう言うと、山賊達は歓声を上げた。士気高まる山賊達を見て笑うガトー。そして、小さく呟く。


「…世界の結末も、迫ってますからね」









ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー









「ちょっと! それは違う!」

「なんでだよ! ちゃんと蕾だろ?!」

「違う! ちゃんと見て! 白くて黄色い筋が入った蕾だってば!」


 泉が湧き、花が咲き乱れる塔の最上階。白い花が咲いている花壇の前にしゃがみ込むフィオールと、その隣で怒鳴るダンテ。泉の縁に座って、ぼけっとそれを眺めるカイザ。隣には足をパタパタさせながら薬を飲むシドがいた。


「…あいつら、何やってるんだ?」

「傷に効くお薬の材料探してるんだよ。カイザも飲んでた、あの白い玉の」

「あー、あれか」

「あれ凄いんだよー。切り傷がみるみる塞がってくの。僕も作れたらいいのに」


 シドは泉の水をカップで掬った。


「フィオールよりお前の方が見込みあるんじゃないのか?」

「駄目だって。僕の力は魔力じゃないから」

「そうか、残念だな」

「フィオールに作ってもらうー」


 シドはカップの中の水を飲んだ。


「違うって言ってるでしょ! 君は惚れ薬が作りたいの?!」

「んなもん作るか! 俺には必要ねーんだよ! 第一、俺がこんなお花持ってること事態がおかしくないか?! 面白くないか?!」


 カイザは二人を見つめて、言った。


「…あいつら、いっつもこうなのか?」

「うん。うるさい」


 へらっと笑うシド。シドは泉に手を突っ込み、クッキーが詰まった袋を取り出した。それを見て、カイザは固まった。何事もなかったかのように袋を開けてクッキーを頬張るシド。シドははっとして、カイザを見上げた。


「食べる?」

「いや、いいんだけど……それ、泉から出てきたよな」

「うん」


 カイザは恐る恐る手を泉に突っ込んだ。すると、手に何かがあたった。それを掴み出してみると、水浸しのクッキーがあった。


「…なんで」

「ちゃんと袋入りをお願いしなきゃ駄目だよー」

「なんでお前も俺の失敗がわかるんだ」


 シドはカイザの問いに答えずに、泉から袋入りのクッキーを取り出した。そして、それをカイザに手渡した。


「本当に思い描いた物を出すんだな。この泉」

「うん。でも、生き物とか、この泉より大きいものは駄目みたい。あと、あのお薬も」

「薬も?」

「なんでだっけ……魔力でその本質が変わった物はこの世の物と認められてないから泉は生み出せない……みたいなことを言ってた気がする。よくわかんない。魔法は駄目だって」

「…へぇ」


 カイザは前に向き直ってクッキーの袋を開けた。


「煙草でもいっぱい出しておこうかな。街で買い溜めしなくて済む」

「僕もクッキーもらっていこう」

「どうりでお前ら、しょっちゅうここで遊んでるわけだ」


 カイザが食べたクッキーは、甘すぎないチーズ風味の、田舎を思わせる味がした。シドが初めて食べたのは、こういう味だったのだろうか……と、ふと思った。


「…お前、俺と出会う前の話とかしないよな」

「聞きたい?」


 シドは小さく首を傾げた。


「……」


 聞きたい、わけではない。だいたい想像がつく。しかし、気にならないわけでもない。どちらかというと、聞いていいのか悪いのかがわからないのだ。カイザが言葉は模索していると、シドが言った。


「兄さん……ホワイトジャックにいたサイが、僕を拾ったんだ」


 シドは、自分から話をし始めた。カイザがシドを見ると、真っすぐ前を向くシドの口元は、少し緩んでいた。


「拾ったというか、渡されたらしいんだ。知らない男の人に。お前の弟だー、って」

「知らない、男か」

「うん。僕は赤ちゃんだったからそのあたりはよくわからないんだけど。サイはなんとなく僕を弟だって信じて疑わなかったらしいよ。実際、顔とかも似てたしね。ホワイトジャックでも兄弟だって認められて、そこそこ楽しく暮らしてたよ」


 楽しく。カイザはその張り付いたような笑顔を見つめていた。


「でもね、僕がある仕事の最中に……初めて翼が出たんだ。自分でもびっくりした。そしたら、もうホワイトジャックでも悪魔だなんだって騒ぎになって……殺されそうになった。逃げ回ってたんだけど、サイに捕まっちゃって……あの国の憲兵に引き渡されたんだ。それで、あの塔の中」


 カイザは、ふっと視線を落とした。



ーー見つけたら殺す。それだけだーー



 サイは、何故シドをその時に殺さず国に引き渡したりしたのだろう。


「あとは、カイザも知ってのとおりだよ」


 カイザを見上げ、微笑むシド。包帯で見えないが、その目は……泣いているのではないかと、カイザは思った。


「シド、本当に辛いときは辛いって言っていいんだからな」

「…?」

「…まあ、いいや」

「サイのこと?」


 どうして、シドはこうも心を見透かすのか。カイザは黙り込む。なんとなく、サイはシドを殺したくないのではないか、と思ったのだ。自分がシドの兄だと言って弟を取り返そうとしていたサイ。弟とは殺し合う関係だと冷めた瞳で語るサイ。どちらも、本当の彼であるように思えた。シドは、小さく笑って言った。


「サイのことは、いいんだ。僕たちはそういう運命だから」

「殺し合う、運命だったとでも言うのか」

「ううん。これからもそうだよ」


 シドの幼くも、穏やかな声。微笑んで、前を向くシド。


「…サイは生きてる。僕が死ぬか、僕があの首を刎ねるまではね」


 目が合ったなら戦わねばならぬ運命とは、一体どんな運命だというのか。カイザには、命のやり取りでしか血の繋がりを実感できない哀れな兄弟にしか見えない。それは、二人にしかわからないことで、カイザが言及することでもない。むしろ、入り込めない何かが、二人にはある。兄の首を刎ねると笑いながら言うシド。カイザはそれをただ、見つめるばかりだった。シドはカイザの思いを察するが、カイザにはシドの考えがまるで読めない。その笑顔が本物なのか、本当、このままでいいと思っているのか。そんなカイザの思慮を突っぱねるように、比翼の鳥は、互いに蹴落とすことだけを望む。









ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー








 まだ何も知らなかった頃。


「こんにちわ」

「…いらっしゃいませ」


 読んでいた本を閉じて、椅子から立ち上がる。店頭には優しく笑う女性が一人、立っていた。


「ここ、老舗のいいお店だと伺いまして」

「そんな。古いだけの小さな工房ですよ」


 女性は店内を見渡して、小さく笑う。入り口から入り込む光を反射する鏡。その光を吸い込んで棚の上をキラキラと輝かせる小さなレンズ達。


「素敵ね。まるで宝石箱の中にいるようだわ」

「ただのレンズをそこまで褒めていただけるなんて、嬉しい限りです」


 女性の隣に並んで、一本の眼鏡を手に取る。淡い赤色で細いフレームのそれを、女性にかけた。


「よくお似合いだ」

「……」


 女性は鏡を覗き込み、恥ずかしそうに笑う。


「ありがとう」


 レンズの向こうで潤む茶色い瞳。曇りを知らないレンズはその輝きを惜しむ事無く眩く放つ。初めての客、というだけだったこの女性に心を奪われるなど……オズマはこの時、全く気付かずにいた。沢山の人間を見て、沢山の人間を不幸にして、沢山の人間に幻滅してきた彼は、どうして彼女に執着してしまったのかはわからない。どうして、彼女の微笑みがこんなにも胸を締め付けるのかさえわからない。


「主人が帰ってこないのよ」

「……」


 眼鏡の歪みを直すオズマの手が止まった。


「ベリオットに嫁いで暫くたったけれど。どうして男の人は、浮気するのかしらね」

「…皆が浮気性とは、限りません」


 女性は棚の眼鏡を試着して、鏡を覗き込む。


「私の魅力が足りないのかしら。そうだとしたら、仕方の無いことかもしれないわね」

「浮気に仕方の無いことなんて、ないです」


 ぽたぽたと、レンズに垂れる雫。それは女性の視界を歪ませてゆく。


「…あら、眼鏡拭きはどこに」


 涙を拭って笑いながら、カウンターに歩み寄る女性。


「あ、これね。本当にごめんなさいね。お店の品を汚してしまって……これ、いただいていくわ」


 眼鏡拭きに伸ばした女性の手を、オズマは掴んだ。女性は驚いた表情でオズマを見る。


「…汚れてなど、いませんよ」


 オズマは女性は引き寄せ、唇を重ねた。女性の赤くなった目が、さらに潤んで涙が溢れた。オズマは女性が持っていた眼鏡を取り上げ、カウンターに置いた。そして、きつく抱きしめながら口づけを交わす。穏やかに、嗚咽する女性を慰めるように。オズマが女性をカウンターに寝かせ、上に覆いかぶさる形になると、店内の明かりがふっと消えた。月明かりを反射するレンズと、女性の潤んだ瞳だけが暗闇に光る。見つめ合い、オズマは眼鏡をはずした。


「俺じゃ、駄目ですか」

「…オズマ、」

「帰ってこない旦那より、俺の方が……」


 涙を流す女性を見下ろすオズマ。そこまで言いかけて、止めた。どう、この人を幸せにできるというのか。正体を明かしたなら、この恋は終わる。受け入れられたとて、悪魔の自分がこの女性の死に添い遂げることなど……できない。愛しい人の死をこの目にして、自分一人生きていかねばならないのだ。一緒に老いることも、一緒に生活してゆくことも……人間のようになど、できない。


「…オズマ」


 固まっていると、女性が涙声で言った。


「私を、愛してくれるの?」

「……」

「私は、愛される女なの?」


 オズマは、顔をゆっくりと近づけた。もう、止まらなかったのだ。この想いさえ受け止めてもらえるのなら、この時さえ、過ごせたのなら……それで、よかった。一瞬のような、恋でも。









ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー









「ルージュさあ、嫁と娘がいるんでしょ? 帰らなくていいの?」


 暖炉の火が部屋を温かに包む部屋。カイザ達が寝ていたベッドも片付けられ、随分と広くなった。その中央に置かれたテーブルに、オズマとルージュとクリストフは座っている。


「そのことなら、クリストフ様ともお話しました。もう暫くは皆さんのお手伝いをさせていただくことにいたしましたので」

「…ふーん」


 薔薇の棘を取り除くルージュ。オズマは魔術書に視線を落とした。


「なんだ、不倫相手に会いたくなったのか?」


 煙管を手に、クリストフがにやにやと笑う。オズマは、あー、と気の抜ける声を出して、言った。


「そういうわけじゃないけど」

「人様の恋路にちょっかいは出したくないけどな、不倫は止めといた方がいいぞ? 百害あって一利なし……ん? いや、一利しかない」


 オズマはふと視線を上げて、クリストフを見た。


「何、一利あるんじゃないか」

「まあな」


 クリストフは煙を吐き出し、言った。


「一時の充足感」


 オズマは、再び視線を魔術書に向ける。しかしその目は、文字を追っていない。ただ、紙を見つめる。


「想いを貫いた達成感、一緒にいる時の幸福感。そういうので勝手に盛り上がるのは結構だがな、周りは迷惑なもんなんだよ。男女のもつれ程、理屈が通じなくて面倒なものはないからな。好きだのどうだので世の中通用しないんだ」

「…人間に固執する聖母様が、よく人の事をそこまで言えたもんだ」

「あたしはいいんだよ。あいつと死ぬから」

「端的だなあ。ガトー君もいるのに」

「ガトーはガトーの人生がある。あいつももうガキじゃないからな」


 クリストフはルージュが整えた薔薇を手に取った。


「それにしても、カイザは死体、ルージュは領主の娘、オズマは人妻で、フィオールは一児の母……お前ら普通の恋愛はできねぇのか」

「だから、クリストフさんが言わないでよ」


 オズマの言葉に、ルージュも苦笑いしている。オズマは溜息をついて、言った。


「…俺たちが普通じゃないんだから、仕方無いだろう」

「それもそうだな」


 クリストフは薔薇をテーブルに投げやり、鼻で笑った。


「シドにはどんな相手ができるんだか」

「まだ早いですよ」

「将来の話だ」


 ルージュとクリストフの話を耳に、オズマはぼそりと呟いた。


「将来を夢見る事ができる未来が、あればいいけどね」


 すると、オズマの鼻に薔薇が押し付けられた。驚いて顔を上げると、眉を顰めるルージュがいた。


「何弱気なことを言ってるんですか。開けぬ夜はありません。過ぎぬ嵐はありません。必ず、道は開けるのですよ」

「そのために今奔走してるんだろうが。あたしの苦労を無駄にしてたまるか」


 クリストフが生意気そうに笑う。ルージュも、ふっと笑った。


「あたしが業輪を手にした暁には、お前と不倫相手の輝かしい未来が待ってるかもしれないぞ?」

「…さっきは百害あって一利しかないって言ってたくせに」

「それでも理屈が通じない面倒なお前らは、一時の夢にも縋るんだろう? 未来がなくちゃ、夢も見れない」


 夢。長い時間の中で見る、罪深い一時の夢。それを見る事を、この聖母は許すというのか。


「人の一生は短い。好きなように生きて、後悔なり満足なりして死ねばいいんだ。お前らもな」


 クリストフはそう言うと、その強気な笑みをオズマに向けた。聖母の忠告を聞けば、これでよかったのだと自分を納得させることもできよう。しかし、それでも夢のような一瞬にこの想いは滾るのだ。後悔することになるとわかっていても。オズマは小さく笑い、俯いた。そして、ベリオットの最愛の人を想い決意する。結ばれることがなくても、時間が許す限り愛し抜こうと。悪魔である自分には本当に一瞬のような恋になるだろう。それでも、この一瞬を大事にしたい。そう、考えていた。薔薇の匂いがする、一室で。

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