51.子供心に辛いのは
普通の家族だった。戦火に巻き込まれることもなく、平和な時間が満たす毎日。父と母の笑顔が、すぐそこにある。そんな、何も考えずとも育つことができた……ダンテ、7歳の冬。
「我々の魔術を狙って帝国が攻めてくる」
北の一族を仕切る女族長が言った。
「水晶の告だ。魔女狩りを称して帝国に寝返った男達が一族を滅ぼす!」
この瞬間、一族の悲劇は幕を開く。族長の告を聞こうと広場に集まっていた魔女の一人が、隣の魔術師を殺した。パニックになった雪が降る広場で、魔女は叫んだのだ。
「これは男と女、どちらが生き残るかが問われている! 帝国に寝返る男か、一族を守る女か!」
すると、そこで男女が互いの顔を見つめ合う。男達は首を横に振るが、族長の言葉を信じてやまない一族だ。女達は男に対しての憎悪が湧き上がる。そこに、族長が低い声で言った。
「…一族存亡の危機を免れるため、魔女狩りならぬ魔術師狩りを命ずる。家族、恋人、友人……女以外は、一人残らず排除せよ」
そして、広場は戦場と化す。
「勘付かれたか、逃げるぞ!」
「あなた……」
「大丈夫だ。帝国まで逃げきれれば」
荷物をまとめて逃げ出す夫婦。病弱な少年はそれを、ベッドの上からじっと見ていた。すると、女は少年を抱き上げ、男の手を握って家から飛び出した。雪道を箒に乗って駆ける二人。女は胸に抱く少年に微笑んだ。
「ネロ、大丈夫だからね」
少年はこの時なんとなくわかっていた。自分の両親が、一族を掻き乱した張本人であると。
「危ない!」
男が女を突き飛ばした。後から牙を剥いた蛇が伸びてきていた。男は杖の先から黒い煙を出して蛇の目を眩ませる。
「追手だ! 俺が食い止める! お前達は行け!」
「でも!」
「行くんだ!」
黒い煙を抜けて、女は箒を走らせる。少年は母の肩越しに後ろを見つめていた。煙に映る、蛇に噛みつかれて藻掻く父の影を。その煙の中から、蛇が一匹飛び出してきて女の肩に噛みついた。女は顔を歪ませて杖を手にした。少年は蛇の頭にそっと触れる。すると、蛇は血と内臓を撒き散らして破裂した。呆然とする女。少年は、じっと後ろを見ていた。蛇に巻つかれる父親の影を、見えなくなるまで……蛇の血で顔を汚しながら。
森の中で足を休める二人。母は、少年を抱き締めたまま死んだ。蛇は毒を持っていたのだ。少年は母の小さくなる鼓動を聞きながら泣いていた。
「…何の用だ」
少年が顔を上げると、そこには見知らぬ男がいた。
「お前だろ、俺を呼んだのは」
男は紫に光る目で少年を見下ろしていた。
「用があるなら早くしてくれないか。俺も忙しいんだ」
「…助けて、」
「……」
「母さんを助けてよ!」
男は冷ややかな視線を母親に向け、言った。
「…俺は人の命を助けるとか、そういうことはできない」
少年は悲しそうに俯く。
「何も知らずに俺を呼び出したのか……」
男はしゃがみ込んで少年を見つめた。
「陣も生贄もない……か。何があった。その内容によっちゃあ、他の奴を呼んで来てやるぞ」
「……」
少年はたどたどしく、身に起きたことを語る。それを聞いて、男は小さく笑った。
「それで、俺が呼ばれたわけか。はみ出し者ははみ出し者の世話をしろと」
男は少年を抱き上げ、言った。
「いいでしょう。あなたをマスターと認めます」
少年は目をパチクリさせて男を見つめる。男は仮面を取り、言った。
「オズマと申します。ヴァピュラ……と言った方がわかりやすいでしょうか」
「…獅子公ヴァピュラ」
「そうです」
オズマはニッコリと笑う。少年は涙目になって、オズマに抱きついた。
「…僕は、ネロ」
「ネロ。その身は私がお守りいたします」
こうして、悪魔と少年は出会う。悪魔が指を鳴らすと、動かなくなった母親の周りに土が盛られ、死体を覆う。そしてその上には、綺麗な彫刻が成された墓石が現れた。それを見て、少年は嗚咽する。
「追われているのでしたら、まずは身を隠す場所が必要でしょう」
そう言ってオズマが向かったのは、森の奥の小さな家。そこら一帯だけ雪は積っておらず、まるで春。
「婆さん! ソフィー婆さん!」
扉の前でオズマが叫ぶと、中から人が出てきた。驚いた顔をした、優しそうな初老の女性。
「あら、オズマ」
「久しぶり」
「どうしたの? この子」
女性は少年を見つめる。少年は、じっと俯いたまま。
「この方はネロ。俺のマスターだよ」
「…え?! あなたの?! あなた、人と契約なんかしないってあれ程言って……」
「まず上がらせてくれないか。久々に地上に出て疲れた」
中に入って、オズマはこの経緯を女性に話した。
「…そう。可哀想に」
「俺が匿おうにも、子育てはしたことがないのでね」
「そうねぇ、物作りしか取り柄がないものねぇ」
オズマが女性を睨む。女性は俯く少年に言った。
「私はソフィー。元、北の魔女よ」
「……」
「ここにいれば大丈夫だからね」
彼女の優しい微笑みに、少年はまた泣きそうになる。そして、オズマにしがみついた。
「あなた懐かれてるじゃない」
「……」
オズマは溜息をついて少年を見下ろす。この時、オズマはただ少年の境遇に同情していただけだった。自分と同じ、一族から追われるという境遇に。
「…オズマ」
「……」
「一応、提案があるのだけれど」
ソフィーの提案とは、ネロを女の格好で育てることだった。男としての自覚はそのままに、格好だけでも魔女達の目を惑わせるようにした方がいいとのこと。ソフィーの家は北の外れとはいえ、一族の縄張りに近い。戦乱の南方に下るよりはいいと考えたオズマだったが、ひょんなことで少年の存在が知られてしまうかもしれない。オズマは、その提案を飲んだ。そして三人の暮らしは始まった。
二人は共に暮らしてゆくうちに打ち解けてゆく。病もよくなり、少年は外で遊ぶようになった。よく笑い、話し、ソフィーの教えもあって魔術師としても大きく成長していた。そんな、ある日のこと。
「ネロ様、何をしてらっしゃるのですか?」
薪を運ぶオズマがちらっとしゃがみ込む少年を覗き込む。
「お墓参りに持ってく花」
少年は花束を手に立ち上がる。その姿はまさに少女。麗しく、瑞々しい。オズマは薪を置いて、微笑む。
「確か去年は白い花でしたね」
「うん。今年は赤にした」
少年はニッコリと笑う。
「でしたら俺も一緒に……」
「オズマ、買い出し行ってくれる?」
オズマの言葉を遮り、ソフィーが窓から叫んだ。
「だって。オズマが帰る頃には僕も帰ってるから」
「…そう、ですか。わかりました。お気をつけて」
オズマは踵を翻し、家に向かう。少年も、箒を手に森の中へと走って行った。
「あら、ネロは?」
窓の外から見ていたソフィーが聞くと、オズマは窓から中を覗き込んで言った。
「墓参り」
「そう、もうそんな時期」
「…やっぱり俺も行った方がよかったかな」
「あなたが行っても足手纏いになるだけかもね」
ソフィーの得意気な物言いに、オズマは首を傾げる。
「あなた、あの子が今何を勉強してるか知らないでしょ」
「家事押し付けられてばかりだからな」
ソフィーははぐらかすように笑い、言った。
「魔獣召喚よ」
オズマはつまみ食いしていた果物を詰まらせ、咳き込む。
「…待て、魔獣は悪魔が換装するもので召喚なんか」
「だから換装した悪魔を呼び出すのよ。自分の僕としてね」
「聞いた事もない」
「そりゃそうよ。私が編み出したんだもの」
オズマは買い出しのメモを書くソフィーを、驚いた表情で見つめる。
「あなただって気付いてたんでしょ? 気付いていてあの子をマスターに選んだ。違う?」
「……」
「生まれつき強い力を持ち、それを器用に使いこなす。あの子は一流の素質を持ってるわ」
「…公爵の俺を無意識に召喚したくらいだ。とんでもない力の持ち主だとはわかっていたさ」
オズマは手を伸ばしてコップを手に取り、水を注ぐ。けほけほと小さく咳をするオズマに、ソフィーはメモを渡した。
「魔術書を引けば何でもできるようになったし、私が教えてあげられるのはここまでみたい」
「だからって、魔獣召喚は……呼び出される方がしんどい」
メモを受け取って嫌そうな顔をするオズマ。それを見て、ソフィーは笑う。
「大丈夫よ。悪魔の負担も減らすように工夫はしてあるから」
「さすが伝説の魔女様」
オズマがそう言うと、ソフィーはニッコリと微笑んだ。
「…こんな綺麗なお墓だもの。お花があればもっと綺麗だよね、母さん」
少年は悲しそうに微笑み、花束を置く。あれから3年。長い長い、3年間。雪の中、少年は墓石を見つめていた。
「僕、いっぱい勉強してるんだ。世界一の魔法使いになったら……母さんと父さんのこと、生き返らせてあげるからね」
少年は、二人が生き返ることを夢見ていた。いつかまた、三人で笑い合える日がくると。それこそ、魔法のような夢。
「見つけたぞ。裏切り者」
少年が振り返ると、そこには族長とそれに率いられた魔女達がいた。逃げようとする少年の足に、蛇が噛み付く。少年は雪に倒れ込んだ。
「女の格好をしようと無駄だ。母親に似たその瞳の色でわかる」
少年は蛇に噛まれた足を見る。その時、少年の頭を古い記憶が過った。母親の肩に噛み付く蛇、母親の、冷たい死顔。
「お前を匿っていたのはソフィーだな。言え。あの女は何処にいる」
魔女の一人が、少年に手を伸ばす。すると、少年は形相を変えて叫んだ。魔女の手が、あの日の蛇の頭のように破裂する。魔女達が慌て蓋めく中、族長が杖をつくとその手の裾から大量の蛇が這い出て少年に襲いかかった。少年は立ち上がり、足で雪の上に陣を描く。そして、蛇に噛まれた足を中央に置き、血を滲ませる。
「我が血に応えてその姿を獣に変えよ!」
少年に襲いかかる蛇達は、陣に触れて消し飛んだ。陣は、紫に光る。
「魔獣召喚! 獅子公ヴァピュラ!」
陣から溢れ出す紫色の煙。魔女達は驚きのあまり後退りする。
「魔獣召喚?!」
族長が驚愕の声を上げる。
「…っ!」
「どうした! 兄さん!」
山を下った小さな街。そこに、オズマはいた。オズマは苦しそうに胸を抑え、俯く。
「…これは、」
オズマが激しく血を吐き出した瞬間、その足元に陣が現れてオズマを飲み込んでいった。驚く店主の目の前には、地面に転がる紙袋とメモ、そして、べっとりと広がるオズマの血があった。
ぶつぶつと呪文を唱える少年の後ろに、ぐったりと俯くオズマが現れた。そのシャツは、血に汚れている。
「まさか、本当に……?!」
魔女の一部が逃げ出そうとしていた、その時。オズマは空を仰ぎ、大量の血を吐き出した。苦しみに歪むその瞳は、黄緑色に光る。そして、血は煙となってオズマを包み、大きな獅子となった。獅子は魔女達を威嚇し、唸り声を上げている。少年は荒く息をして、血を吐いた。血で汚れた手を見つめ、呟く。
「オズマ……あいつら、殺して」
獅子は魔女達を睨みつける。
「殺して!」
少年が叫ぶと、獅子は魔女達に襲いかかった。薙ぎ払い、噛み砕き……雪を赤く染めてゆく。それを少年は、意識が途切れそうになる中でじっと、涙ながらに見つめていた。自分の両親が悪いことはわかっていた。わかっていたが、やばり、両親を殺めた魔女達が…憎かった。墓石に魔女の腕が飛んできた。石にぶつかり、赤い花の上に落ちる。
「術者さえ、いなくなれば!」
族長を守っていた魔女の一人が少年に杖を向けた。すると、墓石に落ちた腕が浮いて少年へと飛び出す。少年は、それ気付いていないばかりか、ばったりと、その場に倒れ込んでしまった。獅子は少年に忍び寄る腕を前足で踏みつける。
「今だ!」
魔女が叫んだその時、気絶した少年に魔女達が一斉に杖を向けた。空に現れる大きな黒い雲。それは渦を巻いて大きな口を開けた。糸を引いて、牙を光らせるそれは長い下を持ち、まるで蛇の口だ。
「撃て!」
魔女の叫びと共に、魔女達の杖の先から黒い光が飛び出して蛇の口へ集まり輪になった。ぐるぐると回るその輪に、蛇は黒い炎を吐き出す。それは輪を通って細く、速くなり、少年と獅子に襲いかかった。獅子は口から紫の煙を吐き出す。すると、煙は少年と獅子を包み込む球になった。黒い炎が煙にぶつかった瞬間、球は鏡になって炎を勢いよく跳ね返した。跳ね返った炎は雲を裂き、空の向こうへ散り散りになる。
「魔獣、ヴァピュラ……」
魔女が瞬きもせずに見つめていると、鏡は割れ、獅子が現れた。そこに、少年の姿はない。
「?! ネロが、ネロが消えたぞ!」
「探せ!」
慌て出す魔女達に、獅子は再び、その牙を向ける。
気が付くと、手には綺麗な瓶があった。七色に光り、中の透明な液体は滑らかに揺らぐ。足元にはそれはまた見事な水瓶があった。すっと手が差し出された。そこには、金の盃。そこに持っていた瓶の液体を流し込むと、手はふっと消えた。目の前にはぼんやりと、笑顔で誰かと話をする異国の女が見える。向こうには、ベッドに横たわって顔が見えない褐色の肌の女。その向こうには……小さな、ベンチ。それに一人の女が背を向けて腰掛けている。
「……」
黒い髪が靡き、その白い首が見え隠れする。それをじっと見つめていると、女が、振り返った。その真っ黒な瞳に、少年は目を奪われる。女は優しく微笑み、また、前を向いた。
「やめなさい! あなた達!」
族長が振り返ると、そこにはソフィーがいた。獅子はソフィーの方に走り出し、大きく口を開いた。
「しっかりなさい! オズマ!」
ソフィーが杖でその頬を叩くと、獅子は木の方へ吹っ飛び、激突した。上からばさばさと雪が落ちると、紫色の煙がその下から湧き上がる。そして、雪の中からのっそりとオズマが顔を出した。
「…一体、何が」
オズマは目の前の光景を見て、事を察した。そして、ソフィーに向かって問いかける。
「ソフィー! ネロ様は!」
「……」
ソフィーは族長を睨み、言った。
「ネロはどうしたのです」
「知らぬ。どこぞの獅子が食ったのではないか」
族長の言葉に、オズマは顔を顰める。しかし、ソフィーがオズマを見て言った。
「それはあり得無ません。召喚された魔獣は術者に逆らえませんから。最も、魔獣の方に理性が無くなるのも考えものですが」
「そんな危険な術をあんな子供に……子供ならばまだしも、男に教えるなど!」
「私はもう北の魔女ではありませんので」
「だがあの子供は北の逃亡者だ!」
族長とソフィーが睨み合っていると、墓石に一筋の光が降り注いだ。その光に、ふっと少年が現れた。墓石に寄りかかって座る少年はぼうっとしており、目は虚ろだ。
「ネロ様!」
オズマが少年の名を呼ぶと、少年ははっと顔を上げた。
「…オズマ」
駆け寄ってくるオズマの血で汚れたシャツを見て、少年は涙ぐむ。
「ご、ごめ…オズマ、」
「よいのです。この身がどうなろうと、主が無事ならば……」
微笑むオズマに縋りつき、少年は涙を流す。
「ソフィー、その子供はもらっていく」
族長が言うと、オズマは目を鋭く吊り上げて振り返る。少年も、不安気にオズマの服を握り締めた。
「許しません」
強く、ソフィーは言い放った。
「これは掟なのだ!」
族長に杖を向けられ、ソフィーもその杖を族長に向ける。
「両方、鎮まれ」
穏やかで、涼やかな声がした。全員が空を見上げると、光の中から一羽の青い鳥が降りてきた。鳥は怯える少年の肩に止まった。
「私は風の精霊、シアラ」
鳥の囁きに、魔女達は慌てて跪く。ソフィーとオズマも、その場に跪いた。少年も、墓石の上で膝を折ろうとしていた。
「少年、あなたが跪く必要はございません。あなたはたった今、神の寵愛を受けられたのですから」
少年は動きを止めて、鳥を見た。その場にいた者達もも思わず首を上げる。
「今日からはダンテ、とお名乗りください」
「……」
「風の精霊より、心ばかりの祝福と忠誠の意を込めて……この名を贈らせていただきます」
鳥はそう言うと、少年の膝の上に降りて咥えていた鍵を落とした。
「これは、神よりの贈り物にございます」
「神様…からの」
少年は、盃を持つ手を思い出した。
「はい。一つは愛の証である心の景色が見える目。そしてもう一つは、あなた様のための一室にございます。しかし、それは業輪を手にしなければ開けません」
「…この鍵は」
「天界への扉を開く鍵にございます。そして、業輪を手にせし時、特別な一室を開く鍵ともなります。どうか大事にされますよう」
鳥は羽を開き、数度羽ばたかせる。
「業輪が回ってきた時、また参ります。それまでどうかお健やかに」
鳥はそう言うと空高く飛び去った。少年は金に光る鍵を手に、空を見上げる。その目を地上に戻すと、跪く魔女達と、一緒に暮らしてきた二人がいた。
「ネロ……いえ、ダンテ様」
オズマが、俯いたまま言った。
「神のご寵愛を受けられし事を心よりお祝い申し上げます」
「…オズマ!」
少年は跪くオズマに泣きながら飛びついた。
「ごめん! ごめんね! 僕……!」
少年は、神の寵愛を受けたことなどそっちのけで、彼を傷つけてしまったことに心を痛めていた。その様子に、オズマの口は呆れたように緩んでしまう。
「…いいって、言ったでしょ?ダンテさん」
少年は鍵とオズマの服を握り締め、泣いた。こうして、神の酌童ダンテは誕生した。血と涙が混じり合う、雪の中で。