41.闇に透けて黒い雨粒になる
「地震か?」
サイは立ち上がり、暗闇を見つめる。何もない、遠近感もない二人だけの暗がりは確かに揺れている。
「シド、大丈夫だからな。俺が守ってやる」
倒れ込むシドに手を差し伸べるサイ。シドは、伏せったままその手を払った。
「触るな」
少し震える声は、低く響いた。サイは悲しそうにシドを見つめる。その右手には、赤い瞳が埋まる眼球が二つ。
「何故だ。俺はお前の兄だぞ」
「見えないよ。真っ暗で、何も見えないんだ」
「だから俺がお前の手を引く。帰ろう」
「見えないって言ってるだろ! 僕の求めるのはその手じゃない!」
顔を上げたシドの目は、深い空洞になっていた。涙のように流れる血。シドは手で顔を抑え、荒く息をして叫んだ。
「そんな、僕の目を奪った冷たい手で触るな!」
「…シド、」
「殺せ! こんな僕は、カイザにも必要とされない……早く、殺せよ!」
サイの悲しげな目が、鋭く、冷たくなった。サイの片翼から羽が抜け落ち、闇の中を弧を描いて旋回する。それは幾つもの円となって二人を包んだ。
「そうだ、俺はお前が憎かった。殺したくて、仕方なかった……」
サイの瞳が青く光る。
「殺せ!」
シドが叫ぶと、羽はピタリと動きを止めた。そして鋭い刃となってシドに向かって飛んできた。シドは血が伝う唇を緩ませ、鼻で笑った。その時、落雷のような轟音が響き渡った。何も見えないシドでも、強い突風と落雷の近さを音で感じる。何が起きたかわからず、手を探り探りに伸ばしてみた。すると、その手を握る、誰かの手。温かい、覚えのある感触。
「シド、迎えに来たぞ」
暗闇で響く、優しい声。シドの唇が、震える。
「カイザ……」
血と共に涙が溢れた。力強く握る手に、シドも弱弱しく応える。
「カイザか。何しに来た」
落雷を回避したサイは、少し遠くからカイザを睨む。カイザはしゃがみ込んでシドの手を握ったまま、サイを見た。
「シドの目を返せ」
「お前こそシドを返せ。この盗人が」
サイの足元から白い煙が湧きあがる。それはもやもやとサイの周りを覆い、失われた左腕の手首の部分を形作った。その手首は腰に差した剣を抜いた。サイが剣を振るうと、辺りの煙がその風圧で飛び交い、無数の斬撃となってカイザに襲いかかる。カイザは逆手に持っていたブラックメリーを足元に刺した。すると、ブラックメリーの紋章が光となってカイザとシドの下に現れた。そして、その縁に何処からともなく雷が落ちる。それは光の壁となってサイの斬撃を吹き飛ばす。
「シド、ちょっと待ってろよ?」
「カイザ…僕、」
「何も心配するな。また、すぐに来るよ」
何も見えない。しかし、カイザが微笑んでいるようにシドは感じた。涙ながらに、カイザの手を放した。カイザは立ち上がり、ブラックメリーをくるりと回して持ち直した。そしてその刃を、サイに向ける。
「そこをどけ。でなければ殺す」
サイも剣を構えてカイザを睨む。
「どけられないな。俺はこいつの保護者なんだ」
「保護者? そんなもの要らない。シドの兄がこの俺なんだからな」
サイの片翼がはためくと、勢いよくカイザに突っ込んできた。後方に飛ばされるように押されながらも、カイザはその刃をナイフで受け止める。そして、目の前の青い瞳を睨んで言った。
「弟の目を抉る兄が何処にいる」
「シドのためにしたことだ。お前に何がわかる」
サイは剣を振るい、カイザを吹き飛ばした。翼がはためき、抜け落ちた羽が刃となってカイザを追撃する。カイザは吹き飛ばされながらも飛んでくる羽をナイフで斬り落とす。体制を立て直して着地したカイザの目に、膨大な数の白い羽が闇に浮かぶ様が飛び込んできた。黒に点々と輝くそれは、まさしく星空。
「シドは、俺の物だ」
サイがそう言うと、瞳が青く、強く光った。すると、浮かんでいた羽が一斉にカイザに襲いかかってきた。光の尾を引き、流星のように流れ込んでくる。カイザはそれを睨みつけ、ナイフを握る手に力を込めた。ナイフの刃が、パチパチと、バチバチと音を立てて光を帯びる。カイザはそれを前方に向けて大きく振るった。その瞬間、大きな光の刃が羽を吹き飛ばした。それはサイへと一直線に飛んでゆく。サイが間一髪で飛び上がり、それを避けると、どこかにぶつかったのかサイの後方で大きな爆発が起き、暗闇は光で覆われた。それと共にガラスが割れるような音が響き、足元が崩れる。
主を失った部屋はガラガラと音をたてて再び何もない混沌に溶ける。サイはその破片を足場に飛び移る。サイが踏んだ破片は水泡のように破裂した。サイは落ちかけたシドのもとへ向かい、力なく底へ吸い込まれそうになるシドに手を差し伸べた。すると、シドが思いもよらぬ方向へ飛び上がった。
「シドは渡さない」
「…カイザ、」
サイの目にスローモーションで映るそれは、ワイヤーで手繰り寄せたであろうシドを抱きしめて落下するカイザの姿。その手には、両端が三又に分かれた長い槍。光を帯び、カイザが握る柄の中心はブラックメリーの面影を残す。サイはそれを見て、呟く。
「…やはり、それを持つべきはお前じゃない」
そして、カイザを追ってサイも落ちてゆく。
家具がガタガタと倒れ、棚からは薬品や道具が落ちてくる。椅子から滑り落ちそうになるミハエルを、クリストフは抱きあげた。
「ダンテ! なんだこの揺れは!」
「し、知らないよぉ!」
ダンテはクリストフに抱きつき、人差し指を立てて小さく振り、傾いた家具や落ちそうになっていた道具を元の場所に戻す。
「おい、水晶の間に戻るぞ!」
「え!? 待ってよ!」
ダンテは床に手をつき、呪文を唱えた。すると、物が部屋に張り付いたかのように動かなくなった。その表面はガラスケースのように艶めいている。部屋の保護が済んで、ダンテは水晶の間へと駆けて行った。
目の前が光で白一色に染まる。あまりの眩しさに目を瞑った。地響きの中で一つの轟音が響き、光はゆっくりと色を薄める。瞼の裏がチカチカするが、次第に暗くなるのを確認して、薄らを目を開けた。
「ぶっ……!」
開けた瞬間、大きな波に襲われ水中に巻き込まれた。オズマは眼鏡を抑えながらフィオールの手首を掴んでいる。水中を見渡し、ルージュを探す。暗い水の中で、白いタキシードがクラゲのように揺らいでいるのが見えた。オズマはフィオールの手を引きながらルージュのもとへ泳いでゆき、彼を抱えて水面に顔を出した。
「ルージュ、大丈夫?」
オズマが呼びかけると、ルージュはげほげほと咳をして虚ろな目でオズマを見た。
「す、すみません……水は苦手なんです。あなたと違って」
「俺だって得意なわけじゃないよ」
オズマはルージュにフィオールを渡し、ポケットから錐を取り出して自分の手に刺した。甲を貫通し、血が溢れだす。
「何を!」
「とにかく船がいるでしょ。痛いからあまりこの術は使いたくないんだけどね」
オズマはアーマーの金具を一つ取って血が溢れる掌の傷の上に乗せた。そして、言った。
「我が血に応えよ、大海に浮かぶ鋼の揺り籠」
金具は紫色の炎を出して燃え上がる。オズマはそれを水中に落とした。すると、下から大きな物体が上がってきた。波に揺られて体制を崩すルージュをオズマが支える。物体は三人を乗せて水上に姿を現した。豪華な装飾がついた鋼の船。横たわるフィオールの近くで膝をつき、息を整えるルージュ。オズマはその背中を擦って言った。
「大丈夫? 火は使える?」
「大丈夫です。問題ありません」
「それならよかった。どうやら、目標を見つけたようだからね」
オズマは視線を上方に向けた。ルージュがその視線を辿ると、そこには今にも落ちそうになっているカイザとシド、それを狙うサイがいた。ルージュは慌てて立ち上がろうとしたが、よろめいて再び膝をついてしまう。
「休んでなよ。俺が行くから」
「しかし」
「動けるようになったら援護頼むよ。なんせ、相手は自称天使なんだからね」
穏やかに微笑みながらカイザ達を見上げるオズマの横顔。
「それに……この後大仕事もしなきゃならないし」
「…わかりました」
ルージュがそう言うと、オズマの黒い瞳が、紫色に光った。
クリストフが目覚めた部屋。水晶の間に逸早く辿り着いたクリストフは自分が寝ていたベッドにミハエルを寝かせていた。そこにダンテも駆け込み、水晶に手を翳した。水晶は怪しく光り、下層の様子を映し出す。クリストフはダンテの後ろからそれを覗きこんだ。
「なんだこれ」
「海……だよね」
そこに映っていたのは、暗闇でたゆる大量の、いや、膨大な量の水。その少し上空には三角錐を成す光の筋。燃え盛る炎の球、光の球、煙の塊を繋いでいるが、炎と煙の間の一辺が欠けて完璧な三角形にはなっていない。正三角形というよりは二等辺三角形に並んだそれらから、もうひとつ、光の球の対角に何かがあったのではないかと連想させる。ダンテははっとして表情を険しくし、翳していた手を正面で広げてみせた。映し出されたのは、光の対角、海の真上。
「カイザ! シド!」
落ちかけている二人を見て、クリストフが叫ぶ。すると、シドを抱き締めるカイザの腕を掴む黒い人影が現れた。
「…誰だ、あいつ」
「オズマだよ」
「は?! オ、オズマ?!」
クリストフは目を見開いて映像を見つめた。そこにいるオズマはまるで別人。人間ではなかった。黒い短髪は肩まで伸びて、眼鏡は黒い仮面に、いつもの作業着が黒いジュストコールが映える西洋衣装に変わっている。袖口や靴の踵からは紫色の火が灯り、オズマは石突にも火が揺らいでいる傘を手にふわふわと宙に浮いていた。
「あいつ……悪魔だったのか」
「魔界でも爵位を持つエリートだよ。知らないで一緒にいたの?」
「…なんで悪魔がこっちの世界で普通に生活してるんだ。ありえないだろう」
「……」
ダンテは少し黙り、オズマを見つめながら言った。
「今はそれどころじゃない。誰の仕業かわからないけど混沌が拓かれてる。このままだとみんな死んじゃうよ」
「わかってる! だが混沌を拓くなんて荒技、あいつくらいしかできないだろ!」
クリストフがそう言うと、ダンテはむっとして言った。
「神様をあいつとか言わないでよ」
「事実あいつしかできないことだろうが!」
「…そうだけど」
ダンテは諦めたように溜息をつき、クリストフを見た。
「海、大地、大気が生まれ、太陽が生まれた瞬間…塔が崩壊を始めた直後。そこにしか、チャンスはない」
「チャンス?」
「秩序のもとに生まれた新世界を閉じるんだ。オズマもルージュも……わかってるんじゃないかな」
「どういうことだよ。」
ダンテの目は、真剣に、真っ直ぐにクリストフを捕える。
「僕の術ならこの程度の規模の新世界は閉じれる。でも、それをするためには生贄が必要なんだ。人間じゃなくて、神の使いの」
クリストフの表情が固まった。
「ルージュとオズマを生贄にしても成功するかわからない。でも、やらないと僕達が死ぬだけじゃなくて世界の均衡も崩れる」
「……」
ダンテとクリストフは、無言で視線を交える。互いの胸の内の葛藤が、瞳を通して行き交う。
「カイザ君、無事みたいで何よりだよ」
「その声、オズマなのか?」
カイザはにっこりと笑うオズマを見つめる。
「フィオール君も無事だから。安心してね」
カイザが下を見ると、一隻の船があった。そこに、心配そうにしているルージュと倒れているフィオールの姿が。
「君達も船で休んでてくれるかな」
オズマはカイザに傘を差し出した。カイザはオズマの手を掴み、言った。
「俺は闘う」
「空も飛べないのに無茶言わないでよ」
「…サイはシドの両目を持ってる」
「目を?」
オズマはサイを見た。翼をはためかせるサイの右手は、緩く握られている。
「俺は、あれを取り戻さなくてはならないんだ!」
カイザの真剣な眼差しに、オズマは溜息をついた。そして、傘をシドに握らせた。
「シド君、頑張って握っててね」
「いかせない」
サイが切りかかって来た。オズマがペンチでそれを受けようとする。しかし、サイの剣をカイザの槍が吹き飛ばした。三又の切先に絡まり、サイの手元を離れた剣は海へと落ちてゆく。続けざまにオズマはサイに向けて手を翳して紫色の炎を出した。サイはそれを避けて後退する。その隙にオズマが傘を掴む手を放すとシドに握らせた傘は速度を上げ、船の方へ飛んでいった。オズマはそれを見届けるとカイザの手首を引いて持ち上げ、その足に触れた。すると、カイザのブーツの踵に紫色の火が灯った。
「はい。これで飛べるよ」
オズマはへらへらといつものように笑って、手を放す。カイザは足元を見て不思議そうにしている。
「時間が無いから、さっさと片付けようねー」
「…ありがとう、オズマ」
カイザは視線を上げて、サイを見た。
「本当に、邪魔者ばかりだな」
サイは腰に帯びていたもう一本の剣を抜き、溜息混じりに言った。オズマはそれを横目に鼻で笑う。
「あのね、人の物ばかりを奪おうとする君の邪魔をしない人なんて、この世にいないよ」
「…死体を切り刻んでいた男も言っていたな。世界は俺の意に逆らって動いていると」
「あー、キュウキのことかな。たまには良いこというじゃないか。あいつ」
オズマは厭味ったらしく笑う。しかし、サイの表情は何の変化も見せない。
「とにかく、シド君のお兄さんだかなんだか知らないけど、海の藻屑になってもらうよ?」
「悪魔如きにできるわけがないだろう」
二人の瞳が光った。その瞬間、サイは白い煙の球に、オズマとカイザは紫色の炎の球に包まれ、二つは激しくぶつかり合った。眩く光るそれは辺りの破片を吹き飛ばした。破片は破裂して水となり、雨のように降り注ぐ。そして、海になった。