39.自己嫌悪が視界を曇らせ足を竦ませる
冷たく広がる暗闇の中。何も見えない、聞こえない。時折、遠くで光が見えるが追いかけてもすぐ消えてしまう。
「部屋に入ろうにも、こうも広いと」
「部屋はこの闇以上に広いからね。そのうちのどれかに彼らはいる」
炎に乗って闇の中移動するルージュとオズマ。ここまで会話も交わさず一向に3人を探していた。
「最初に見つけられるのはカイザ君かな。彼がいたのは四凶の中でも特殊な奴の部屋でね。混沌の層の門番みたいな奴さ」
「門番など、この混沌で機能しているのですか?」
「殆どしていないよ。でも、あいつは侵入者くらいわかる。気が向いたら様子を見るくらいはしているようだし、俺やダンテさんにもある程度友好的だ」
「…友好的でしょうね。あなた方には」
ルージュは背を向けたまま、不満気に言った。オズマは小さく溜息をついた。面倒臭そうな顔をしている。
「トウコツは話の解る奴だよ。俺の計画はシド君とフィオール君もトウコツの部屋へ連れてきて、カイザ君と合流。それから皆で上層へ戻る、といった感じだけど。どう?」
ルージュは少し黙って、わかりました、とだけ返事をした。オズマはまた溜息をついた。
「…もう、気づいているんだろう?」
「ええ。下層への入口を見てすぐに」
素っ気なく答えるルージュ。オズマはその背中を見つめる。
「俺だからいいけど、ダンテさんにその態度はよしてくれよ」
「あのお方は特別です。あなたなどと一緒にしないでいただきたい」
「ま、一緒なんかじゃないけどさ」
オズマはルージュの背中からふと視線を外した。すると、その視線の先に小さな光が見えた。それは次第に大きくなる。近付いてきているようだ。
「…噂をすれば」
オズマの呟きに、ルージュは振り返る。
「久しぶりだね、オズマ」
「やあ、トウコツ」
光は二人と並行して飛びながらオズマに挨拶を交わす。
「侵入者って、そこの妖精のことだったんだね。ダンテは一緒じゃないのかい?」
「ああ。魔界に用があって来たわけじゃあないから」
ルージュは眉を顰めて光を見る。
「へぇ。もしかして、あの4人に用事かな?」
「ああ。面倒だけど、探しにきたんだ」
「御苦労様。一人なら俺の部屋にいるよ。あとの3人は知らない。今は何処かの部屋に入っているようだ」
「そう。じゃあ後でそちらへ向かうよ」
「…そのことなんだけど、」
光の声が低くなった。オズマもその様子に、目が鋭くなる。
「他の連中を探すのを手伝うから、カイザは俺にくれないか?」
ルージュは賤しい物を見るような目で光を見つめた。オズマも眉を顰めて言った。
「駄目だ。さっき4人と言ったね。サイだったらくれてやるよ」
「いや、カイザがいいんだ」
「駄目だと言っているだろう。聞き分けのない奴だな」
オズマが睨むと、光は速度を緩めた。ルージュもそれに合わせて移動していたが、ついには闇の中で止まってしまった。
「…彼は、初めて出会った同じ境遇の人なんだ」
「同じなんかじゃない。死体しか愛せないお前と、愛する人が死体の彼。全く違うだろ」
「でも、死体を愛している。それだけでいいんだ。俺は、彼とあの部屋にいたい。鏡に写る自分の姿を見たいんだ」
光は目にも止まらぬ速さで遠くへ飛んで行った。
「まずい! 追って!」
オズマに言われ、ルージュは炎を操り光を追う。
「カイザ君、相当気に入られてしまったようだな」
「話の解る奴と言っていたのは何処の誰です」
「あいつの部屋に落ちたのがカイザ君でなければこうはならなかったよ」
先も見えない暗闇で、光が小さくなってしまわぬよう追いかける。しかし、一向に追いつく気配はない。
「トウコツ! 待て!」
「来ないでくれ!」
光が眩く輝いた。目が眩み、二人は思わず目を瞑る。そして、勢いよく壁に激突した。
「痛ーっ!」
思い切り壁に上半身を突っ込むオズマ。炎が消えて床に転がり落ちるルージュ。
「…っ、ここは」
頭を抑え、ルージュは辺りを見回した。鎧が並ぶ、赤い絨毯が敷かれた華やかな部屋。ルージュは帽子をかぶり直しながら立ち上がる。
「どこなんです、ここは」
ジタバタと暴れるオズマの下半身をじっと見つめるルージュ。オズマが突っ込んだ穴の周りからは煙が立ち上っている。
「ぬ、抜けない!」
ルージュはその顔に似合わぬ舌打ちをして仕込杖を抜いた。そして、また杖に剣先を収めた。その瞬間、壁に亀裂が入り、ガラガラと崩れ始めた。
「…もうちょっと優しく助けてよ」
崩れた壁から這い出てオズマは溜息をついた。ルージュはしれっとして穴の向こうを見た。
「向こうも同じ部屋ですか」
「トウコツの奴……トウテツの縄張りに俺たちを飛ばしたようだ」
眼鏡の罅の様子を見ながらオズマが言った。
「でも、なんとか部屋には入れた。あとは」
「探し出すだけですね」
眼鏡をかけたオズマは、壁の穴を通って隣の部屋へ。ルージュも辺りを警戒しながら後に続く。部屋から部屋へ、次々に渡り歩く二人。装飾品以外何一つ家具らしいものすら見当たらない、不気味で生活感のない部屋が並ぶ。そんな人が住んでいる様子もない迷路のような場所。
「対極に立つ神に仕えし駒が二つ」
少女の声がした。二人が振り返ると、豪華な部屋が一変して薄暗い石の壁が広がっていた。蝋燭の火に照らされて艶めく、湿っぽい壁。その向こう、似つかわしくない金の椅子に少女は座っていた。
「うっわぁ……ここでお出ましか」
「……」
オズマは額を抑えて俯き、小さく首を横に振る。その隣で、ルージュは固まっていた。そこに座っていたのは紛れもなく、娘のサラだった。しかし、それもまた混沌が織りなす幻覚であるとわかっていた。わかってはいたが……
「東西南北、何処の守人だ?」
舌を抜かれて話せずにいた娘が雄弁に言葉を並べる様子に、喜びを感じずにはいられなかった。
「俺は北。この人は西」
オズマが答えると、少女は悲しげに笑った。
「北の者は声を、西の者は舌を置いてゆけ」
「毎度毎度、面倒なんだよなぁ……」
ペンチを手に、少女へ歩み寄るオズマ。それを見たルージュは、オズマの肩を強く掴んだ。
「…何?」
「あなたこそ、何をしようというのです」
「……」
ルージュの様子に、オズマは少し考えて、言った。
「あいつがとってる姿、君の知り合い?」
ルージュは視線を落とし、口を噤む。オズマはペンチをパチパチと鳴らした。
「あのね、あいつは暗闇に湧くキキョウだ。混沌そのものでもあり、その一部とも言える。ああして心を抉るようなことをして人を飲み込む」
「わかってます! わかって、ますが」
ルージュは少しだけ顔をあげ、無表情の少女を見た。
「偽物だろうと、娘の傷つく姿は見たくないんです」
「…そんなんでよく混沌に足を踏み入れようと思ったね」
オズマがそう言うと、ルージュはオズマを睨んだ。しかし、何も言えない。全くもって、その通りだ。カイザらを救わねば、聖母の命に背くことになる。妖精として、神に仕える身として、それはしてはならないこと。自分には、人間を愛するばかりに妖精として欠けているところがあることを自覚していた。感情など、務めを果たすに邪魔でしかないというのに……それでも、娘の姿を目の前にすると足が竦むのだ。
「俺達はそれぞれの使命を果たすためだけにこの世に生まれる。使命を果たすに、生きることに感情論は要らない。秩序と混沌の境の住人はそういうもんでしょ?」
「……」
「わかったら、その手を放してくれるかな」
「…私がやります」
「そう? よく狙ってね。仕留め損ねると面倒だから」
ルージュはオズマを下がらせて仕込み杖を抜いた。そして、ごくりと唾を飲み込んで少女に近づく。見れば見るほど、そっくりだ。
「西の守人よ、その舌を置いてゆけ」
ルージュは深く息を吐いて、剣を振り上げた。
「…オズマ、」
気がつくと、目の前の娘は何処へやら。見知らぬ女が切なげにオズマを見つめていた。
「怖いわ。助けて」
ルージュが振り返ると、オズマは腕組をして冷やかに女を見つめ、言った。
「いいよー、一思いにやっちゃっても」
「…この方は、」
「俺の想い人」
ルージュの剣を持つ手が、震える。女ははらはらと涙を流してオズマを見つめている。そんな女を見下ろしながら、ルージュは剣を握る手に、力を込めた。偽物の娘に分別つかない自分が情けない。偽物とはいえ助けを求める恋人をあんな冷たい目で見るオズマが腹立たしい。
「…私は妖精です」
「知ってるよ」
オズマの心無い返事を背中に聞き、ルージュは自分に向かって言い聞かせた。
「許しも何も、請いません。神に仕えるためだけにこの世に生を受けたのです」
「…律儀だねぇ」
オズマの嘲笑めいた言葉など、もう耳に入っていない。ルージュは、目を見開いて剣を振り下ろした。噴き出す血の一滴たりとも、見逃さまいと。こんな気持ちでは、混沌に飲まれてしまってもおかしくない。そう、自分を責め立てて。
あれは…シド? 隣にいるのは、サイか。
二人を横目に、落下してゆくフィオール。長いこと落ちている。フワフワとした感覚が背中を包み、落ちていることすら忘れかけていた。あっと言う間に向かい合う兄弟を過ぎ去り、二人を見上げながら硝子と共に落ちゆく。ただ、ただ、下へ。考える力など、もうない。いや、放棄していた。
「ようこそ、フィオール君」
気がつくと、そこは豪華な食卓。細長いテーブルに、煌めくシャンデリア。美しい装飾品が並ぶ室内に、貴族風の男が一人。
「……」
「おやおや、言葉まで無くしてしまったのか。」
話したくなかった。
「人が人として生きるに言葉は必須だ。君は人を辞めるつもりか?」
フィオールは虚ろな視線で長いテーブルをなぞり、遠く真正面の席に腰掛けた男を見た。男の整った顔立ちはカイザを、その不敵な笑みはクリストフを彷彿とさせる。
「俺は、人なんかじゃない」
「……」
「化け物だ」
フィオールの力無い言葉に、男は笑った。
「そういった人の域から外れた者を東では、鬼、というそうだ」
男は真っ直ぐにフィオールを見つめる。
「鬼……」
フィオールは蘭丸の仮面を思い浮かべた。
「弟を手にかけたことを思い出して自らを否定した先には何がある。その不安定な心で何を求める」
男が指を鳴らすと、フィオールの目の前に大きな皿が置かれた。白い手の先を見ようと顔を上げたが、誰もいない。狐につままれたような気分で、ぼうっと蓋をされた豪華な皿を見つめた。
「本当に君は、人としての自分を捨てられるかな」
男は席を立ってフィオールに歩み寄り、蓋の取手に手をかける。
「一時の絶望で考えることを放棄しても、感情だけは否応無しに沸き上がる。これを見ても君は、平然とフォークを手にできるかな」
ゆっくりと開かれた、皿の上。フィオールの重たい瞼が、大きく見開かれた。
「金が埋まる褐色の少女を、綺麗に盛り付けたんだ」
目を薄っすらと開いたクリストフの首が皿の真ん中に置かれ、その周りには薄切りにされた肉が並べられている。飾り付けに置かれた金の装飾品をした手や足、綺麗に艶めくドレッシング。フィオールはじっと、それを見つめている。
「…あれ、反応が薄いな。人どころか動物としての機能すら失ったのか。うん……じゃあ、もう一品。神をも嫉妬させる美男のプレートでも」
フィオールは表情を固まらせたまま、その腕を男の胸に突き刺した。白いクロスに滴る血。男の背から突き出したフィオールの腕はヒクヒクと痙攣している。男は腹から血を流しながら、にやりと笑う。
「それでこそ鬼だ。何も考えずに怒りに身を任せろ。それでこそ、本来の君だ」
男は蓋の裏をフィオールに向けた。フィオールは横目にそれを見て、青ざめる。銀の蓋に写る自分。返り血を浴びた顔。瞳孔が開いて生気の感じられない曇った瞳。白かった髪が真っ黒に染まり、それこそ、異国の化け物。フィオールは絶叫して席から立った。椅子は音を立てて荒々しく倒れる。フィオールは力いっぱい蓋ごと男を殴り飛ばした。そのまま馬乗りになり、ヘラヘラと笑う男を殴り続ける。そして、最後にはその頭を握り潰した。指に刺さる砕けた骨。指の間からはみ出す脳髄と、眼球。肩で息をして、フィオールはフラフラと立ち上がる。そして、テーブルのクリストフを見た。
「…クリストフ、」
これは、現実か。自分が彼女をこの道へ巻き込んでしまったのか。生きるために他人を犠牲にしてきた自分は、彼女をも犠牲にしてしまったというのか。
フィオールは小さく唸りながらその首を抱き締める。フィオールの黒髪が柔らかに逆立ち、身体からは炎が燃え上がった。クロスや燭台、シャンデリアまでもを包み込んでゆく。爛れ始める首を胸に、フィオールは無表情で天井を仰いだ。
友のために他人を、女のために過去の恋人を、自分のために、弟をこの手にかけた。罪を重ねて道を歩むうちに、振り返った遠くの血を薔薇と見まごう。その身を炎にさらして懺悔した。犠牲にしてきた人々、自分の過去、今の仲間に。声にならない、炎の懺悔。