38.交錯する思いはいずれ
腐臭漂う部屋の中、大蜘蛛と睨み合うシド。
「おじさん、悪魔?」
「元は人間だ」
白い手が勢いよくシドに伸びる。駆け出すシド。手がぶつかって壊れた床からは白い煙が立ち上がる。関節が無いかのようにぬるぬると蠢きながらシドを追う腕、腕、腕。軽やかに逃げるシドだが、様子がおかしい。顔を歪ませて、時折よろめいている。
「捕まえたぞ?」
よろめいたシドに、大きな掌が轟音をたてて覆いかぶさった。
「俺は魔族や堕天使なんてお利口さんとは違う、人が化け物に成り下がった下等な存在だ。毒気を放ち、存在や生命そのものが曖昧。お前も、そんな俺と一つになるんだ」
蜘蛛の篭った声がしたかと思うと、シドを覆う手が突然バラバラに吹き飛んだ。散らばる肉片と血の雨の間から出てきたのは、黒い煙を纏った片翼のシド。肩で息をしながら、赤い瞳で大蜘蛛を睨んでいる。
「…お前こそ、悪魔だったのか?」
シドは唇に中指と人差し指を当てて、言った。
「もう、時間がない。一気に終わらせる!」
シドが蜘蛛に向ってその手を向けた。足元から黒い煙が立ち上り、シドを包み込む。その球は一瞬にして大きくなって蜘蛛すらも包み込んだ。
「ここで死ぬわけにはいかないんだよ……僕は!」
白い部屋で渦巻く黒い球が、激しく爆発した。散り散りになる黒い煙と共に血が霧のように舞い上がる。白い壁には罅が入り、生臭さがその場を包む。蜘蛛がいたところには何もない。跡形もなく散ったようだ。シドは荒く息をして座り込んだ。
「…はあ、力……使い過ぎた」
頭を抑えるシド。その赤い瞳は、黒になったり、赤になったりと不安定に点滅する。
「そうか、堕天使か」
聞き覚えのある声に、シドは俯いたまま眉を顰めた。
「面倒な身体だな。月の光を力にしてその目に溜めているんだろ?」
「…生きてたんだ」
顔を上げたシドの目の前には、フワフワとした霧状の血の中で立っている男がいた。ポケットに手を突っ込んで、じっとシドを見つめている。
「俺はこれくらいでは死なない。最後の力を込めたんだろうが、残念だったな」
「…死ねばいいのに」
頭から血を流す傷だらけの男は、シドに歩み寄った。
「俺の毒気に当てられた上、力ももう無いようだな。諦めろ。受け入れることで楽になることもある」
「…嫌、だ」
シドはその場に倒れ込んでしまった。虚ろな点滅する瞳。片翼からも、黒い煙が出ている。シドは、震える唇で力なく呟いた。
「…カイザ」
誰に聞こえるわけでもない、小さな声で。
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ある晩のこと。カイザは寝付けずにいた。窓から差し込む月明かりに照らされるミハエルを横目に、じっとベッドに横たわったまま。動くか、いや、そんなはずもない。このままずっと、ミハエルは……
「カイザ、起きてる?」
扉の向こうから弱々しい声がした。カイザは身体を起こした。
「…起きてるよ。どうした、シド」
カイザが言葉を返すと、悲しそうな顔をしたシドが申し訳なさそうに部屋に入ってきた。
「…眠れないんだ」
「何だ、遊び足りないか」
「そうじゃなくて。寝るのが怖い」
その言葉の意味を、カイザは容易に察することができた。死に対して鈍感なようで敏感な少年が、かつて命を狙われていたことを思えば……カイザも、他人事には思えない。
「そうか」
「眠いのに、怖くて目を瞑れない」
枕を抱きしめる少年に、カイザは手招きをした。
「じゃあ、一緒に寝よう」
「でも……」
「俺もちょうど寝つけなかったんだ。ほら、こっち来いよ」
布団を広げ、カイザはベッドをポンポン叩いてシドを招いた。シドはおずおずと布団に入り、持ってきていた枕を並べた。
「安心しろ。寝ている間にシドを狙う奴がきたら追っ払ってやるから」
「本当? 勝てる?」
一体誰に狙われているんだ……そう思ったがカイザは一先ず、たぶん、とだけ答えた。シドは何処か不安そうだ。カイザはそれを横目に、小さく笑う。
「大丈夫。俺は死ぬわけにはいかないんだ。お前もな」
「何で?」
「何でって、もっといっぱい遊びたくないのか?」
「遊びたい。カイザと一緒にいたい。盗賊になりたい」
「だろ? 俺だってそうだよ。だから自分もお前も、守り抜くよ」
カイザは天井を向いて目を瞑ったままに微笑む。それを見て、シドは安堵感に包まれ、嬉しそうに笑う。二人はまだ気付いていない。それが、生への欲求であることに。
「おやすみ、シド」
「おやすみ……」
月が傾き、細く部屋を照らし出す。二つの穏やかな寝顔と、一つの安らかな寝顔。静かに、静かに、夜は更ける。
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「……」
「…どうした?」
「シド、」
ベッドに横たわるミハエルに伸ばしかけた手を引っ込ませて、カイザはキョロキョロと辺りを見渡した。
「フィオール、クリストフ……ミハエル! 俺は、何でここに、」
「ミハエルならそこにいるじゃないか」
「これはミハエルじゃない!」
カイザは男の手を振り払い、出口へと駆け出す。しかし、鍵がかかっているのか扉は開かない。
「…何を思い出したかは知らないけれど、ここからは出れないよ」
「俺は行かなければならないんだ! 出せ!」
「無茶言うなよ」
男は煙のように消えた。ベッドに残された、ミハエルの形を成す死体をカイザは見つめた。
「ここからは出られない。おとなしくここにいてくれよ?」
「おい! 何処へ行く!」
「侵入者だ。俺はそっちを見に行くよ。せいぜい頭でも冷やして自分の愛を見つめ直すことだ」
声は遠くなり、聞こえなくなった。カイザは舌打ちをして扉に向き直る。鍵穴はある。開かないはずがないのだ。カイザは腰から道具を取り出して穴に差し込んだ。
「…なんだ、これ」
道具を伝う、何かが絡まり付くような感覚。慌てて引き抜くと、道具の先にするりと煙がまとわりついてきた。得体の知れない何かが錠をかける扉。鍵穴の中で蠢く物が、不気味に思えてならなかった。
「…煙の塔か」
何やら頭がぼんやりとしていたが、やっとハッキリしてきた。サイの襲撃で竜巻に飲み込まれたこと。その竜巻の中で煙の塔を見たこと。それからの記憶がない。皆無事なのか、それだけが心配でならなかった。
「早く、扉を開かなければ」
カイザは道具をしまい、ギバーに手をかけた。奥深くまでを探って繊細な作業ができる上等な道具。しかし、仕組みも何もわからない鍵に通用する自信はなかった。それでもカイザは、鍵穴にギバーの先を通す。奥へ、奥へ。何かが絡みついて先端がブレるが、奥へ、奥へと、出口を求めて手探りに進む。
「……」
カイザはギバーの先を引っ込めて鍵穴から離した。何もなかった。縦にも横にも無限に広がる鍵の中。そこはまさしく、秩序に逆らって錠がかかった混沌であった。
「…くそ、」
カイザはその場に座り込み、頭を抱えた。先程の男といい、ベッドの死体といい、ここは元いた場所とは全く異なった世界だ。カイザは近くの斧を掴んで立ち上がる。そして、思いきり斧を扉に振り下ろした。
壁が罅割れ、そこから煙が湧き出してきた。
「なっ、なんだ」
男は苦しそうに顔を歪ませて血が滴る頭を抑えた。倒れ込んだまま、シドはゆっくりと頭を上げる。男が呻きながらよろめいている。少年は、光を失いかけた目を見開いて煙の先を見つめた。
「……」
罅が部屋中に広がり、硝子のように砕け散った。煙の向こうの暗闇に揺らぐ人影。それにシドと男の視線が集中する。
「悪いなシド。期待を外したようで」
「…兄さ……」
白い髪に青い瞳のサイを見て、シドは言葉を噤んだ。
「…サイ、」
「助けにきた兄を呼び捨てにするとは、随分と生意気になったものだな」
サイは剣を抜いて、苦しむ男に歩み寄る。
「お前、よくも」
頭から血を流すばかりか、口からも血を吐き、形相を変えてサイを睨む男。サイはその冷ややかな視線を男に向けた。
「引きこもりの陰気な蜘蛛を外に出してやろうと、部屋を壊してやるつもりが……まさか、この部屋自体がお前の本体だったなんてな」
鼻で笑い、後退りする男に近寄るサイ。
「そりゃあ、中でどんだけ暴れられてもけろっとしていられるわけだ」
サイは横目にシドを見下ろす。シドは悔しそうにサイを睨んだ。すると、男が血を撒き散らして叫んだ。床に落ちた血は黒い蜘蛛になって二人に這い寄る。そして、男の身体が再び変形し始めた。
「お前達、頭蓋骨を抜き取るくらいで済むと思うな!」
「…うるさい虫ケラだ」
シドが力の入らない手足でなんとか立ち上がろうとしていると、白い煙に包まれた。
「なんのつもりだ! サイ!」
「……」
同じように煙に包まれたサイの背中は、何も答えない。
「それは通用しない! もがいたところで……」
「あー、うるさい」
サイがだるそうに呟き、剣を振るった。剣先から放たれた白い光は、部屋の中を飛び交い、壁を傷つける。
「虫を黙らせるにはどれをやればいいんだか」
サイの視線は、棚から落ちた青い髑髏に留まる。それに気づいた男は無数の腕をサイに向けて伸ばした。しかし、それはサイを包む白い煙に遮られる。
「あれか」
「違う! あれは」
「馬鹿か、お前は」
サイの剣先が、髑髏へと放たれる。それは一瞬にして髑髏を二つに割った。そして、青い砂となって崩れた部屋の天井から闇へと消える。
「自覚なくとも、それが命の糧であることもあるんだ。どんなに自分が否定しようともな」
「…そんな、」
大蜘蛛は真ん中から左右に離れ、ドロドロと溶けてゆく。
「ここは混沌なのだろう? 命の有様も変われば、心の拠り所も変わる。しかしそれは全て、誰かの心が成す思いの形」
ドロドロの黒い液は、床を満たして壁にまで上り始める。
「心を写す、鏡だ」
闇に溶けた一室。遠近感も湧かない、広がる暗がりの中。サイの煙で囲まれたところだけが白く光っていた。
「…虫を黙らせることができたようだな」
「なんだよ……一体、」
床に突っ伏してシドが呟く。サイは振り返って動けずにいるシドを見下ろした。
「…殺せよ」
「……」
「僕のこと、殺したいんだろ! 殺せばいいじゃないか!」
震える声で叫ぶシド。その心は、実に矛盾したものでいっぱいだった。死にたくないのに殺して欲しい。殺してやりたいのに殺したくない。
ーー悪いなシド。期待を外したようでーー
確かに、期待外れではあった。だが、その姿を見た時……何故か嬉しくて堪らなかった。兄と呼びたくないのに、心の何処かで、懐かしんでいた。
「…シド、」
その時、闇の上方から勢いよく硝子の破片のようなものが降り注いできた。それは、二人のところで時を遅くしたかのように落ちる速度を緩める。硝子に写るのは、昔の二人の姿。
「お前をホワイトジャックから消そうとしたのは俺じゃない」
ゆっくりと顔を上げるシド。そこには、硝子の破片が散らばる闇に包まれたサイがいた。
「俺はお前のことを、たった一人の家族だと思っている」
「……」
「殺すはず、ないだろう?」
硝子は時を取り戻し、一気に闇の底へと落ちていった。シドは泣きそうな目で、サイを見つめる。サイはシドに歩み寄り、その目の前に膝を折った。そして、柔らかく笑った。
「…殺しはしない。その目をよこせ」
シドの表情が、固まる。
「月の力を溜めるその目を、俺によこせ」
「な…なんで、」
「悪魔の証が無くなれば、俺の弟は帰ってくる。そうだろ?」
「…何を、言って」
サイは笑顔でシドの目に手を伸ばす。シドの曇った視界は、ついに闇に溶けた。
サイもまた、混沌に飲まれていた。感情も、時間も、記憶さえも歪ませる世界。それは、暗闇で光る心の鏡が写し出す空虚な世界。シドは、その歪んだ笑顔の兄でさえ……懐かしく、思ってしまう。それもまた、この世界に飲まれているという悲しい心の有様なのだ。