37.死は償いのうちに入らない
「5年ぶりか、クリストフ。エドガーとダンテどうしておる?」
畳の匂いが立ち込める広い座敷。風鈴の音が響き、心地良い風が縁側から吹き抜ける。
「エドガーはあれから墓守になったらしい。ダンテは……知らん」
紅色が刺す硝子の湯呑に入った冷たい茶で喉を潤すクリストフ。それを、上座から緑色の瞳で見下ろす、一人の少女。
「そうか。皆、それぞれに歩み始めているのだな。で? そちは」
少女が聞くと、クリストフは湯呑を置いて顔を上げた。
「はるばる東までやって来たからには、何か話があるのだろう?」
「…お前が開いた一室にある真実を話す花とやらを、拝ませて欲しい」
嫌そうな顔をする少女に、クリストフは深々と頭を下げた。
「頼む、ヤヒコ」
ヤヒコと呼ばれた少女は小さく溜息をついて縁側の方を向いた。
「…相わかった。ローズウッド家令嬢の頼みを無下にもできぬ」
「すまない。感謝する」
「だが、お前の問に花は答えぬと最初に言っておこう」
クリストフが顔を上げヤヒコを見ると、少女は縁側を遠い目で見つめたまま、動かない。
「…恐らく、余が花に問うたことをそなたも知り得たいと考えておるのだろうからな」
「神の真意か」
「そんなことが聞きたかったのか。それは花でも答えまい」
少女は少し驚いたようにクリストフを見た。
「じゃあ、お前は何を聞いたんだ」
「……」
少女は再び縁側の方を向いた。その凛とした風情ある横顔は、少し大人びて見える。
「…世界の、結末だ」
見た目は14、5にしか見えないというのに艶と深みのある少女の声。滲むように、クリストフの耳に染み付いた。
「母様、」
開いた襖から座敷に飛び込んできたのは、褐色の肌をした幼い少年。少年はクリストフに抱きついた。
「ガトー、遊び相手はどうした?」
「……」
少年は黙り込む。すると、もう一人、座敷に駆けて来る人物が。長い黒髪を靡かせた長髪の男は、肩で息をして襖に手をかけている。
「申し訳、ございません。私では御子息のお相手にはつまらぬようで」
「お前が堅物だからだ、翡翠。ガトーの世話は和に命じたはずだが?」
ヤヒコが呆れたように言うと、翡翠は廊下に正座して息を整えながら答えた。
「それが、今日は大事な用があるそうで。急遽私が」
「あの馬鹿」
ヤヒコは眉を顰めて肘掛に寄りかかった。クリストフはガトーの頭を撫でながら申し訳なさそうに翡翠を見た。
「悪いな、面倒かけて」
「滅相もございません。私が至らぬばかりにお話の邪魔をしてしまい……情けない限りです」
翡翠が肩を落とすと、ヤヒコは茶菓子を手にガトーを見た。
「もうよい。翡翠なぞより、余の方が好きだろう?」
満面の笑みで茶菓子をひけらかすヤヒコ。ガトーは釣られるように、ヤヒコの膝に乗った。それを見て額を抑えるクリストフ。
「よしよし、南の子供も可愛らしいものだ」
膝の上で茶菓子を頬張るガトーを見て、ヤヒコは嬉しそうに微笑む。
「ヤヒコって子供好きだったっけ?」
「ええ。昔から子供や動物は大好きですから」
クリストフの問いかけに疲弊感漂う声で答える翡翠。ガトーを優しく見つめて、ヤヒコは言った。
「…クリストフは、誰よりも神に愛されているのだろうな」
「そんなわけあるか」
「実際、一つ多く宝を与えられたではないか」
クリストフは、夢中で菓子を食べているガトーを見た。
「余は愛の証と部屋しか与えられていないというのに、そなたは子宝まで。羨ましい限りだ」
「…そんな、いいものでもない。私は身体の成長がもう止まった。いつか、ガトーの方が大きくなって不釣り合いな親子になるだろう。そしたらもう、母なんて呼んでくれないかもしれない」
「何を言うか」
ガトーは茶菓子を手にヤヒコの膝から降りた。そして、クリストフに駆け寄り笑顔で茶菓子を差し出す。
「ほれ、この通り」
得意げに笑うヤヒコ。廊下では翡翠もにこやかに2人を見つめている。この時、クリストフは泣きそうな顔で考えていた。神の真意などより、聖母として知らねばならないことがあったと。
「…この先、世界はどうなるのだろう」
「さあ。我らが生きている限りは安泰だろう」
「不老とはいえ、終わることを約束された命だ。私がいなくなったら、ガトーはどうなる。世界は……どうなる」
クリストフはガトーを抱き締めた。小さな手から茶菓子が零れ落ちた。
「そればかりは……神のみぞ知る、と言ったところか」
頬杖をついて、じっと親子を見つめるヤヒコ。クリストフはガトーを抱き締めて俯くばかり。
花すら答えない、神すら答えない。先の見えない膨大な時間が、クリストフは恐ろしくて堪らなかった。それは、少女だけに限ったことではないのだが。
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怪しげな淡い水色の灯りが揺らめく一室。真っ黒な家具、真っ黒な壁。陰湿な空間で、クリストフは椅子に腰掛けるミハエルを見つめていた。サイに首を落とされ、服を失っていた彼女はダンテが用意したであろう法衣を着ている。少女は彼女の前で棒立ちし、じっとその穏やかな寝顔を見つめる。
「…終わらせるわけにはいかないよな、エドガー」
冷たい首筋を撫でながら、少女は呟いた。
「あ、いた」
扉の隙間からダンテが首を出した。
「…どうだ、あいつらの様子は」
「小さい子、見失っちゃった。何処かの部屋へ入ったみたい」
ダンテはクリストフの隣に歩み寄って、ミハエルを見下ろす。
「フィオールは」
「…まだ」
「……」
「ねぇ、聞きたいんだけど」
ダンテの幼い声が、クリストフの耳をつく。
「何で、エドガーは死んでるの?」
「……」
「…何で、死んでるのに魂は転生の輪に加わらずに眠ったままなの?」
「……」
「答えてよ」
無表情で淡々と放たれる言葉。クリストフの表情も、固まったまま。
「業輪はどうしたのさ」
「…そのことで、お前に話があって来たんだよ。下層に落とされた連中もな」
ダンテは辛そうに俯き、言った。
「…来たんだね、終末が」
「わからない」
「僕のせいだ」
「馬鹿言え」
クリストフは俯く少女の頭を荒々しく撫でた。
「業輪をほっぽり出して、革命なんて。僕が、僕が……」
「よせ。それを言い出したらキリがない。あたしもヤヒコも、同罪だ」
ミハエルの膝に顔を埋めて泣き出すダンテ。クリストフは唇を噛み締めて涙を堪える。
「エドガー……ごめん、ごめんね……もう使命を投げ出したりしない。僕、やりきるから……目を覚ましてよ」
「やめろ、ダンテ」
「もう会えないなんて、世界が終わっちゃうなんて、僕、嫌だよ」
「やめろって言ってんだろ!」
クリストフはすぐ横の壁を殴った。大きな音と共に、壁がガラガラと崩れる。埋まった腕を抜くと穴からは煙がもやもやと溢れて壁の穴を塞ぎ、瞬く間に修復した。ダンテは振り返る事なく突っ伏して泣いている。
「エドガーのことも業輪の行方も、まだ何もわかってないんだ!」
「そんなこと、もうどうでもいい! それより知りたいことがある! どうして僕達が選ばれたの?!」
ダンテは声を荒げて振り返る。小さな手は、ミハエルのスカートを握りしめたまま。
「何で?! どうして神様は世界の業を僕らに託したの?! どうせ世界を終わらせるなら、何で500年前にあのまま終わらせなかったのさ!」
部屋を木霊する、渇いた衝撃音。クリストフの右手が、ダンテの左頬を打った。ダンテは頬を抑えて硬直している。
「…あたし達は生かされている。何を背負わされたかなんて、関係ない。生きるために……抗うまでだ」
ダンテの顔がくしゃくしゃになり、銀色の瞳は涙でいっぱいになる。
「それしかできないんだよ。生き抜くことでしか、償えない。これもまた、業だ」
クリストフは少女の前にしゃがみ込み、辛そうな顔をして少女を見つめた。くりくりとした目。紅色に染まる赤い頬。滑らかな白い肌、フワフワした白い巻き毛。泣いている姿すら、ぎゅうと胸を締め付ける程に愛らしい。クリストフはダンテを抱きしめた。
ーーほれ、この通りーー
ヤヒコの屋敷で湧き上がった熱い感情が身体を巡る。世界はどうなる。結末とはなんだ。息子は、未来を生きる人々はどうなる。
「…今は、ルージュ達に任せることしかできないが。あいつらが帰ってきたら、あたし達でなんとかしよう」
「なんとかって、できるの?」
「ああ。きっと。いや……死んでも、守ってみせる」
クリストフの服を握るダンテの手に、ピクリと力が入る。そして、一瞬脱力したかと思うとさらに強く服を握りしめた。
生命にかえてでも、守り抜く。少女の静かに燃え上がる闘志はぐずる少女にも伝わっていた。自分が選ばれた意味も、業輪の意味も、もはやどうでもよくなっていた。自分を愛してくれる人がいる。自分が愛する人がいる。それだけで。