36.女子供は獲物になりやすい
「お邪魔します」
恐る恐る、扉を開く。そこは今まで通ってきた部屋とは違い、なんというか……普通だ。しかし、シドが見たことのないものばかり並んでいる。妙な黒い硝子を張った大きな箱や、風を吹き出しながら唸る窓際の機械。そこにいるかのようなリアルな人物が描かれた鮮やかな表紙の薄い本。少年は目を見開いて、それをパラパラと開いてみる。
「何してる」
急に声をかけられて、少年は驚いた。振り向きざまに鎌を振るうが、後ろには誰もいない。
「そうか、外から来たのか」
慌てて前に向き直ると、何時の間にやらベッドに座りながら煙草を吸う男がいた。シドは本を投げ捨てて扉の前まで下がり、距離を取る。
「誰、おじさん」
「人の部屋に無断で入っておきながら、失礼な奴だな」
男は溜息をつきながら煙草をねじ消し、投げ捨てられた本を手に取った。
「あーあ、数少ない雑誌が」
「雑誌?」
シドが首を傾げると、男は雑誌を捲りながら言った。
「お前達の世界でいう、ロストスペルの一つだな。写真とか、紙質とか」
「ロストスペルなの?」
構えていた鎌を下げて、シドは雑誌を見つめる。
「そこのテレビもエアコンも、ロストスペルだ」
首を傾げるシドを見て、男はテレビの電源をつけた。突然の音と映像に驚くシド。
「…箱の中に、人がいる」
「いないよ。ただの映像だ。ずーっと昔のな。この雑誌の表紙もそうだ」
「すごい……」
「そうか?」
シドは引きつけられるようにテレビに近づき、食い入るようにそれを見つめた。男はそんなシドを無表情で見つめる。
「欲しいか? それ。やるぞ?」
男がそう言うと、シドは一瞬嬉しそうに振り返る。しかし、ふっとその表情を曇らせて俯いた。
「…欲しいけど、いらない。こんな大きなもの、旅の邪魔になるだけだし」
「そうか、ならこの雑誌はどうだ?」
男はペラペラと雑誌をシドに見せた。
「いらない。使い方もわからないし、僕の人生に必要なさそうだ」
テレビに背を向け、シドは立ち上がる。すると、男は雑誌をテーブルに置いて小さく笑った。
「それが、美女達が守る世界での考え方なんだな」
男の言葉の意味など、シドが知るはずもない。シドは不思議そうに男を見つめる。
「ロストスペルで溢れた世界は、物で満たされていた。食器を洗う機械、音楽を鳴らす機械……人の手を使わずとも生活できたのさ。それが、贅沢というものだった」
「だったら人なんてこの世に必要ないじゃない。みんな死ねばいいのに」
「死んだよ。火の雨が降り注ぎ、世界は節目を迎えた」
男は立ち上がり、シドに歩み寄る。
「人が自分勝手な私利私欲を肥やすと共に傷ついた星を癒すため、あの女達は選ばれた。そして、発展の抑制を世界に強いた。歴史を繰り返さないために、維持することを選んだ。だからロストスペルは違法なんだ」
「へぇー。よくわからないや」
「それでも、人の欲など止まるはずもない」
男はシドの目の前に立ち止まり、少年を見下ろした。シドは何の色も示さぬ顔で男を見上げた。
「抑制されるからこそ至福の時間は濃さを増す。俺はここに来てやっと、それに気づいた」
男が手を伸ばすとシドはなんの躊躇いもなく鎌を振るった。男の掌から肘までが横にぱっかりと割れて、血が溢れる。人とは思えぬ量が吹き出し、掌以外、男の姿はシドから見えなくなった。赤く染まる視界の中でシドは後ろ手に扉のノブを動かす。
「…!」
「逃がさない」
固く閉まったノブ。男の低い声が響くと、血が止まった。それは、時間すらも止まったかのようだ。しかし、シドに降りかかった返り血はその白い頬を伝い、床に零れ落ちた。男の掌が軋む歯車のように回り始めた。そして、中指が六時を示した時、赤い血が溢れていた傷口から白い血が噴き出し始めた。いや、それは血なのだろうか。みるみる部屋を染め上げ、かつて見た白い部屋に塗り替えてゆく。シドが握るノブも煙のように消えて、ただの壁になった。
「…さあ、俺のクローゼットで遊ぼうか。坊や」
溢れ出る白い何かが途切れて、男の姿が露わになる。その手も、ぴったりと引きつけ合うようにくっついて元通りになった。しかし、シドが見ていたのは男の向こうに並ぶ、クローゼットの中身だった。
「…趣味悪」
少年がぼそりと呟くと、男は鼻で笑って見せた。シドの目を奪うそれは、木の棚に並ぶ色とりどりの髑髏だった。
「坊やには、何色が似合うかな」
男が喉元で笑う。シドは、鎌の引鉄を引いて鎖を伸ばした。
「僕が言うのも難だけど、おじさん頭おかしいよ?」
「何が正常で何が異常かなんて、この混沌では関係ない」
男がそう言うと、骨の折れるような音を立てながら男の身体が変形してゆく。それと共に立ち込める悪臭に、シドは思わず鼻を抑えて顔を顰めた。
「獲物と狩人の関係が、この部屋で崩れるはずもないのだからな」
見上げる程に大きな黒い毛むくじゃらの蜘蛛。その手足は嫌に青白く、人の手の形をしていた。毛の間から漏れる吐息は、まさに死臭がする。
「人間なわけ……なかったか」
鼻を抑えるシドの目が、赤く光る。