32.妖精は約束を破らない
屋敷のベッドの上。自分と同じ褐色の肌、黄金色の瞳、黒い髪。少女はその腕に抱く赤ん坊を眉を顰めて見つめていた。顔も声もぼんやりとしていたが、白いベッドの上で感じた恍惚だけ覚えていた。人とも思えぬあれが我が子の父親であることが、どうしても気にかかって仕方なかった。自分は何に見初められてしまったのか。この先、この赤ん坊を愛することができるのか。少女は考えていた。
「神の子のご誕生、そして、聖母のご誕生」
部屋の中で何処からともなく聞こえる声。少女が窓の方を見ると、閉めていたはずの窓が開かれていた。カーテンが風に靡き、灰色の空で黒い雲が揺れ動く。
「心より、お祝い申し上げます」
少女が前を向くと、そこには一匹の鹿がいた。角は無く、灰色の毛並みが美しい。円な瞳が、少女を真っすぐに見つめていた。
「…お前は、」
「私は土の精霊、リオラ」
リオラと名乗る鹿は、ベッドに座る少女の足下に鼻先をつけた。
「今日からはクリストフ、とお名乗りください」
「…はっ、聖騎士の名前じゃないか。第一、なんで男の名前なぞ……」
少女が鼻で笑うと、鹿は赤ん坊に鼻先を近づけた。
「お子のお名前は、ガトー」
「…ガトー?」
「古代サンクチュアリ語で、”聖剣”という意味でございます」
少女はじっと、赤ん坊を見つめた。
「土の精霊より、心ばかりの祝福と忠誠の意を込めて、この名を贈らせていただきます」
薄暗い部屋で深々と頭を垂れる鹿を目の前に、少女は固まってた。聖騎士の名を冠した聖母。聖剣の名を冠した神の子。あまりに神々しい名前と肩書きが、二人きりの孤独な長い旅の始まりを意味している。そう、少女は感じていた。使命感、はたまた絶望か。少女が赤ん坊を見つめる目は、嫌に冷たかった。
「…良い名だ」
鹿は頭を垂れて、その目を固く閉じていた。
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暖かい。何やら甘い匂いが鼻を突く。重たい瞼をゆっくり開くと、ぼやけた視界に大きな銀色の瞳が飛び込んできた。くりくりと、こちらを見下ろしている。
「目、覚めた?」
クリストフが勢いよく起き上がると、そこは、ベッドの上だった。灰色の煙のようにふわふわした壁に、薄暗い照明。怪しい植物や道具がごちゃごちゃと並ぶ棚に、水晶が置いてある丸テーブル。そして、銀の瞳をした幼い魔女。
「…ダンテ!」
クリストフはベッドから飛び降りて魔女の首を掴んだ。魔女は苦しそうに目を潤ませる。
「なっ、何何! 久しぶりの再会なのにー!」
「捕まえたぞツチノコ女!」
「何言ってるのー!」
ぎゃーぎゃーと二人が騒いでいると、部屋の扉が開いた。そこには、楽しそうに笑うオズマがいた。
「あ、おはよう。クリストフさん」
「フィオールは! カイザ達はどうなった!」
クリストフは荒々しくダンテを放した。ダンテはオズマにしがみついて泣きついた。
「彼らは知りませんよ。この階層にはいないようですが」
「探せ!」
ダンテはきっとクリストフを睨んだ。
「知らないよ! 僕は竜巻にクリストフとエドガーが巻き込まれてたから助けただけなのに!」
「他にもいただろ! 生意気そうな面した男と馬鹿面の男、それに、アホ面したガキ!」
クリストフがそう言うと、ダンテは首を傾げた。
「…いたような……いなかったような」
ダンテは水晶に駆け寄り、手をかざした。水晶は怪しく光りだす。クリストフは背後からその様子を覗き見た。
「…あ、いた」
クリストフはダンテの頭を掴んで脇に寄せると、ずいっと水晶に顔を寄せた。そこには、白い部屋でうろうろするシドがいた。
「シド!」
「あちゃー、下層にいるのか。45階くらいなら迎えに行けたのに」
オズマが頭をかきながら言った。クリストフは鋭い目つきでオズマを見上げる。
「行け」
「無茶言わないでよ。そこはもう混沌の層だからね。部屋と部屋がなんの法則性もなく入れ替わり立ち代わりに隣り合う。感覚や記憶すら、空間に歪まされてしまうんだよ。運良く四凶の部屋のどれかに出れたら上層にも上がれるんだけど」
「四凶?」
ダンテはクリストフの手から逃れ、再び水晶を覗いた。
「でもよく生きてたねぇ。普通、竜巻に飲み込まれたら地面に叩き付けられて死んじゃうのに」
「フィオールとカイザは!」
「えー……」
ダンテは面倒臭そうにかざしていた手を真正面に伸ばした、そして、ゆっくりとその手を左右に広げた。すると、目の前に何枚もの部屋の映像が映し出された。
「んー……あ、この人?」
一つの映像が大きくなる。そこにいたのは、見知らぬ部屋のベッドに横たわるカイザ。その隣には、見知らぬ女が寝ている。
「カイザ!」
「よかったよかった。カイザ君は運良くトウコツの部屋の落ちていたみたいだね」
オズマはにっこりと微笑んだ。
「トウコツ、四凶の部屋か! じゃあカイザはすぐにでも上層に上がれるんだな! フィオールは! フィオールは何処だ!」
「そんな急かさないでよー! 全く、人の家に来るなり怒鳴り散らして」
ダンテはぶつぶつ愚痴をこぼしながら水晶を操る。クリストフは落ち着きなく貧乏揺りをしてじっと見つめていた。
「冗談じゃないぞ……ここまできて、混沌にのまれるなんて!」
映像を睨むように見つめる少女を、瓶の中のルージュは存在を消すかのように黙って見つめていた。厄介なことになった。ルージュは意を決して、言った。
「私が下層へ参ります」
「…ん? あれ?!」
突然の男の声に、ダンテは慌てて振り返った。クリストフは腰から瓶を取り上げ、中のルージュを見た。そして、目を固く瞑って首を横に振った。
「お前、何してたんだよ!こんな 大変な時に!」
「クリストフ様があまりにも激しく動かれるので、頭を打って気絶してたんですよ」
少女は瓶を片手に複雑そうな表情をした。すると、ルージュは溜息をついて言った。
「…皆さんが心配でならないのでしょう。私が行きます」
「駄目だ。ニアからお前を預かっておきながらそんな危険なこと、させられない」
「私は妖精ですよ。言ってみれば、混沌と秩序の境の住人です。私でしたら、行けます」
「…お前が行くくらいなら、あたしが行く」
クリストフが静かにそう言うと、オズマが深く溜息をついて、言った。
「さすがのクリストフさんでも無理だ。仕方がないから、俺とそこの蜥蜴が行ってくるよ。ダンテさん、彼の封印を解いてあげてください」
「ちょっと! 下がどんなところかわかってるでしょ?! 自分で作っておいて言うのも難だけどね、行ったら戻ってこれないよ! ただでさえ3人落ちてるんだ、犠牲者を増やしてどうするの!」
ダンテが叫ぶと、オズマは横目にクリストフを見ながら言った。
「どうせ、あの3人が助からなければこちらの聖母は怒りに任せて塔ごと破壊しますよ。それなら助けに行って、全員死ぬか生きるかの賭けに出た方がいい」
「おい」
クリストフが睨むと、オズマはしれっとダンテを見て言った。
「とにかく、彼の封印を」
「…死にたければ、好きにしたら?!」
ダンテはクリストフから瓶を取り上げ、むくれっ面で封を見回した。
「これ、ヨルダの封印じゃん。相変わらず詰めが甘いなあ」
ダンテがそう言うと、瓶のコルクが小気味良い音を立ててポンっと開いた。あまりの呆気なさにクリストフが目を点にしていると、浮いたコルクが激しく燃え上がり、その火が瓶の中のルージュを包み込んだ。
「ルージュ!」
「近付いてはいけない!」
駆け寄ろうとするクリストフの肩をオズマが抑える。
「封印を解くと妖精と術者の命を焼き尽くす仕組みになってるのかぁ」
メラメラと炎に焼かれながら、ダンテは平気な顔をして瓶を眺めている。
「でも、やっぱり甘い。ソフィーおばさんのケーキより……甘い!」
ダンテは燃え盛る瓶を空に放り投げ、手をかざして呪文を唱える。
「仮初めの姿に縛られし真紅の蜥蜴よ。己が身を焦がす魔法の烈火を力に変えて、炎を統べし誠の姿を現せ」
放り投げられた瓶がちょうどダンテの目の前に落ちてきた時、瓶は大きな音をたてて割れた。炎が部屋中に散り、焦げたガラスが煙たい床に音もなく落ちる。
「火の妖精ルージュ。誠の姿にて、参上仕りました」
立ち尽くすクリストフが見つめる先には、ダンテに跪く紳士的な風貌の男の背中があった。白いタキシードに白い靴。赤い髪の頭には白い帽子があった。左腕には火の妖精達を統べる証のアーマー、右手には白い杖。その男はゆっくりと立ち上がり、振り返った。
「…ルージュか?」
クリストフの問いかけに、男は柔らかく口元で笑った。
「蜥蜴の姿で見るクリストフ様はあんなに大きくてらしたのに、この姿ではまるで少女のようです」
「…態度もでかくなってねぇか?」
蜥蜴の面影が残る、黒目がちな吊り目。その瞳はニアやサラと同じく真赤だ。肩や背中に残り火を纏いながら、帽子を軽くつまんでルージュはニッコリと笑った。
「後は私目にお任せください。旅にお伴させて頂いた御礼に、見事あの方達を助け出してみせます」
「…でも、ニアが」
「我が妻のことでしたら心配ありません。あれでも妖精の端くれ、運命を受け入れる覚悟はできておりましょう」
クリストフが俯いていると、ルージュはクリストフの顎に指をかけて、顔を上げさせた。黄金色の瞳と赤い瞳が、見つめ合う。
「それに、紳士たるもの妻であれあなた様であれ、女性と交わした約束は必ず守ります」
暫く見つめ合うと、クリストフはルージュの手を払ってダンテの方へ歩み寄り、逃げようとするその首根っこを掴んだ。
「…おい! こいつ本当にルージュか?! その辺から拾ってきたすけこましじゃねぇだろうな!」
「違うよー! ルージュちゃんだよ!」
「どう考えてもサイズも態度もでけぇだろ!」
騒ぐ二人を見て、ルージュはクスクスと笑う。
「やっとクリストフ様らしくなりましたね」
そう言われて、クリストフはダンテを放した。そして、眉を顰めて大きく息を吐き、ルージュを見た。
「本当に、行ってくれるのか?」
「もちろん。恩人であるあなた様のためなら、地獄の業火であろうと飛び込めます」
ルージュは再び、跪いた。今まで喧嘩をしたり、一緒に笑ったりしていたクリストフに向かって。クリストフが黙り込んでいると、ルージュは右手の甲をクリストフに向けた。クリストフは彼の動きに目を留めた。ルージュはその手を握り、指の隙間から火を噴き出す。そのまま、ゆっくりと手を開いて中指と人差し指を立てた。
「火の妖精より忠誠の意を込めて、この指輪を贈らせていただきます」
ルージュの指先で燃えていた火が小さくなってゆく。そこに現れたのは、金の指輪。
「この契約、受けてくださいますよね? クリストフ様」
塔で出会い、それからずっと腰に携え旅を共にしてきたルージュ。シドの話相手をしたり、フィオールと馬鹿笑いをしたり、カイザと世間話をしたり、クリストフと喧嘩をしたり。すっかり溶け込んで、旅の仲間になっていた。そんなルージュが、仲間を救おうと逞しい姿になってクリストフに忠誠を誓っている。喜ばしいことのはずなのに、クリストフの目には涙が溜まっていた。
「…あたしの命令は絶対だ」
「なんなりと」
クリストフはルージュから指輪を受け取り、その手に自分の手をかぶせた。
「絶対に戻って来い」
「…聖母様の、仰せのままに」
ルージュはクリストフの手の甲に、軽い口付けをした。
クリストフの手には、どう見てもサイズが合わない指輪が握られていた。少女はその意図を考える余裕もなかったが、少し大きなその指輪には、必ずフィオール達を連れ戻すというルージュなりの誓いが込められていた。フィオールとクリストフが再会した時、指輪はやっとその意味を明らかにするのだ。