31.運命の至る場所へ近づく
瓦礫に埋まった足をひっこ抜き、クリストフは空を見上げた。少女の視線の先で、ミハエルを担いだサイが道を挟んだ向こう側の屋根に着地した。
「何でそんなに必死なんだ。こいつはもう死んでいるんだろう?」
サイは首を傾げて面倒くさそうに言った。その問いに、誰も答えない。サイはふっと小さく息を吐き、言った。
「それに、お前達も近いうちに死んで同じ場所に辿り着く。運命の至る場所、とも言えるな。この死体に拘る意味なんて、何一つないんだ」
「お前こそ、何故バンディに仕える。それほどの腕があればホワイトジャックを背負っていけただろうに」
クリストフが瓦礫の中歩きながら言った。サイはじっとクリストフを見下ろす。
「俺はそこの悪魔のせいで、ホワイトジャックでも肩身が狭かったんだ。そんな俺を、受け入れてくれたのが……バンディだ」
サイに顎で差され、シドの表情が強張る。
「兄というだけで同類視されて結局俺まで殺されかけたんだからな。だが、ホワイトジャックは俺を見誤っていたんだよ」
サイの瞳が、青く光る。そして、白い煙が彼の周りを覆った。
「俺はシドと違って神の使いだ。そしてバンディは俺を従える神になる」
白い髪、白い片翼。そして、青く光る瞳。4人がその姿に目を奪われていると、サイは剣を振り上げた。はっと我に返り、カイザが叫ぶ。
「やめろ!」
骨が砕ける、乾いた音がした。血の巡らないミハエルの身体から血しぶきがあがるわけもなく、ただ、首の断面からどす黒い血がぼたぼたと落ちる。首から離れた身体は地面に落下し、じわりと血の模様を描き出す。それを見て、4人は固まってしまった。
「…これでいくらか、闘える」
サイの手には、ミハエルの首。カイザは震える手を握りしめ、走り出した。
「カイザ!」
シドがカイザの目の前に立ち塞がる。
「どけ!」
瞳孔が開き、不安定に小刻みに泳ぐ視線。カイザは正気を失っている。ブラックメリーをシドに突きつけ、言った。
「どけと言っているだろ、シド!」
「人間じゃ勝てない。あいつは、僕が殺す!」
シドの目が赤く光った。その時、
「おい、カイザ……ミハエルさんが」
フィオールの震える声。カイザは鋭い視線をそのままに、サイに視線を移す。シドも振り返った。
「死しても滅さぬ身体……これが、エドガーに神が与えた……愛の証」
クリストフが呆然と立ち尽くして見つめる先には、首からみるみる白い骨と赤い肉が植物のように生えるミハエルの姿。髪を掴んで、サイもじっとそれを見つめている。
「死だけは逃れられぬ生命の運命。それから逸することを、エドガーだけが許されたのか?」
地面に落ちた身体は風にさらわれる砂のように、ミハエルの首かへと集まって再びその身を形を作る。カイザも、シドも…言葉にできない驚きでその場で固まっている。そんな中、嵐は否応なしに迫り来る。
「…"神"は、エドガーは……何を考えているんだ」
嵐の中で露わになる、ミハエルの裸体。その背中から腕にかけて広がる、蛇の鱗のような跡。使命を果たした証が線の細い、色白な肌に赤く刻まれている。そして、湿った冷たい風がその場を包み込んだ。
「クリストフ!」
フィオールが炎に乗って呆然と風に放り出されたクリストフを追った。
「…あたしは何でここにいる?」
涙すら、風にさらわれる。雷が鳴り響く雲の中、空に舞い上がるクリストフの腕をフィオールが掴んだ。そして、力強くで引き寄せる。
「しっかりしろ! クリストフ!」
「…フィオール、」
視点の定まらない濡れた瞳でクリストフはフィオールを見た。その様子にフィオールは少女が何を思ったかは知れないがミハエルの身体を見て正気を保てずにいるのだとだけはわかった。しかし、今はそれどころではない。
「もう竜巻の中だぞ! カイザとシドも……」
「フィオール、あたしは、あたしはなんで!」
「落ち着け、クリストフ!」
「見ただろ! あの滅さぬ身体の真意こそが答えだ! この世界は、エドガーのために作られた庭だというのに……なんであたしまで業輪の贄に!」
「落ち着け!」
フィオールはクリストフの肩を強く握って、潤んだ黄金色の瞳を見つめた。
「…こんなことカイザの前じゃ言えないが」
フィオールは辛そうに俯き、言った。
「お前は声が出せるし泣ける。でも、ミハエルさんはできない。例え妖精達が生者として扱おうと、俺達はそれを受け入れられない」
雷の光に照らされる2人。
「だからカイザもミハエルさんが目覚めることを望む。それはやっぱり……死んでいるんだよ」
「……」
「お前が選ばれてくれたから俺はお前に出会えた。業輪の痛みがあったから今のお前がいる。お前は、生きてる。それじゃあ駄目か?」
フィオールはクリストフを抱きしめた。
「俺がどんなにお前を愛そうと……お前は神の愛を求めるのか?」
雨と雷がぶつかり合う、風の中で。2人は静かに見つめ合った。フィオールの切ない眼差しが、困惑したクリストフを射る。少女は、震える唇をゆっくりと動かした。
「あ、あたしは……」
「くだらぬお喋りは終わりだ」
風に紛れる低い声。振り返る間もなく、フィオールの背中に剣が突きたてられる。剣はフィオールの背を突き破り、クリストフの肩をも貫いた。フィオールは顔を歪ませて血を吐き出した。クリストフは肩を刺されていることに気付いていないかのように、目を見開いたまま倒れかかってくるフィオールに腕を伸ばす。
「…フィオール、」
しかし、剣が抜かれると炎はぼうと消え去り、2人は縦横無尽に吹き荒れる嵐の中に放り出された。少女は風にさらわれる人形を見つめるような、悲しい顔をする。手の内にあった大事な何かが全て、フィオールと共に遠退いていくように思えてならなかった。クリストフが泣きそうな顔で手を伸ばすが、血で汚れた白い手が、その手を強く握った。
「さて、邪魔者が消えたところで。行こうか、聖母様」
白い片翼が風にさらわれたフィオールの姿を隠す。少女の手を握るのは、ミハエルを担いだサイだった。少女はみるみる形相を変え、サイの左手首を掴み返した。
「やっと行く気になったか」
「…ケツの青いガキが、あまり調子に乗るなよ」
骨の軋む音がした。黄金色の瞳を光らせながら、少女はサイの手首に指を食い込ませてゆく。
「死ぬか左手一本落としていくか選ばせてやる。三秒で決めろ」
鬱血したサイの手首がみしみしと軋む。指先は痙攣し、意図せず指は曲がり始めた。
「…鍵の場所を吐かせるまで、この手は使いたくなかったのだが」
サイはずいっと顔をクリストフに近付けた。
「クリストフ!」
幼声が聞こえたかと思うと、風に乗ってシドが後ろからクリストフの首元に腕を回し、抱きついた。シドはクリストフの唇を手で覆い、サイを睨んだ。その瞬間、シドの背中から黒い煙のようなものが溢れ出し、シドとクリストフを包み込んだ。左肩まで煙に浸かるサイはその場を離れようとするが、クリストフに腕を掴まれ、動けない。
「腕一本、もーらい」
煙が払われると共に、ぶちっと引き千切れる音がした。黒い羽に、赤い瞳のシドが抱えるクリストフの右手には、青黒くなった左腕。サイの無表情が、小さく歪む。肩から血を流すサイは、やりたりないとばかりに暴れるクリストフとシドの意地悪い笑顔を横目によろめく。風は痛手の者にも容赦なく吹きつける。白い片翼が、嵐に揉まれて徐々に非力になってゆく。
「もう一本、もらうぞ」
サイがはっと振り返ると、ミハエルを抱えている右腕にワイヤーが絡まりついた。それを辿った先には、風に揺られながらもサイを睨むカイザが。
「ミハエルを返せ」
カイザは勢いよくワイヤーを引っ張る。すると、ワイヤーはサイの腕に食い込み、血が吹き出した。
「さすがに両腕を失うのは痛いな」
サイがミハエルをぱっと放し、人差し指と中指で自分の唇に触れた。それを見たシドはクリストフを上空へと放り投げた。空を舞う少女の目には、天使に向かって行く悪魔の姿が飛び込む。閃光が混じり合う灰色の景色の中で、少女は赤い炎を見つけた。
「…フィオール?」
炎は一瞬明るく燃え上がり、消えた。少女の目からは涙が零れ落ちる。心細さや悲しさ、積りに積もった感情が、溢れ出る。フィオールの眼差しと言葉が頭を駆け巡り、少女は泣いた。何も守れない。聖母とは名ばかりの、無力な自分を呪った。神をも、呪った。
「カイザ、離れて!」
シドは尖った爪が生えた中指と人差し指を立てて、サイ同様に唇に触れた。カイザはワイヤーを手放し、落ちてゆくミハエルに別のワイヤーを放る。
「もう遅い」
サイの瞳が青く光り、口から白い煙が滲み出る。シドの瞳も赤く光り、指と唇の間から黒い煙が溢れた。
「僕はカイザと、みんなと一緒に、宝物を手にしてみせる! 邪魔はさせない!」
ワイヤーを手繰り、ミハエルを抱き締めたカイザは、少し上空から聞こえるシドの叫びに顔を上げた。
「だから、もう遅いんだよ……何もかも!」
何が起こっても冷静だったサイ。表情は豹変し、大声まであげている。サイが片手を振るうと、口から漏れていた煙がサイを包み込み、大きな球になった。それは風に逆らってその場で渦を巻き、輝き始める。
「シド!」
シドの周りも黒い煙で覆われ、シドの煙の表面が白い球とぶつかりかり合った。その瞬間、眩い光が当りを覆い、激しい突風に観な吹き飛ばされた。ミハエルを抱えていたカイザは空高く舞い上がった。カイザが高い空の上で見たのは、竜巻の真ん中に聳える、ふわふわとした煙の塔。小さく下に見えるそれを見下ろしていると、その塔にだんだんと近づいてゆく。そう、落下していた。塔の天辺を横切って、すぐ脇を落下してゆく二人。長く、長く、落ちてゆく。下を見ると、真っ黒だ。終わりの見えない奈落の底に、二人は言葉無くして落ちてゆく。