23.全て迷路のように一つの出口へ繋がる
「ただいま帰りました」
「うわぁ! ガトー!」
窓際で資料をまとめていたフィオールが驚いて紙を床にぶちまけた。ガトーは頭からドバドバと血を流しながら窓から部屋へ入って来た。
「ガトー! 一体誰に!」
酒瓶を投げ捨ててガトーに駆け寄るクリストフ。憐れむように息子の頭を撫でた。ガトーはへらへらと余裕そうに笑いながら、言った。
「母さんですよ」
「…こんなになるまで暴れたっけ」
「正確に言えば、首が抜けなくなって天井を殴っていたら負傷しました。まあ、母さんのせいです」
「…すまん」
無表情で謝るクリストフと、流血しながら微笑むガトー。見つめ合って立ち尽くす二人を、フィオールは不思議そうに見ていた。
「シド、俺の荷物から適当に物出して応急処置してやってくれないか」
ベッドの上でブラックメリーの手入れをしながらカイザが言った。テーブルの席についてルージュと話していたシドは、ニッコリと微笑んだ。
「嫌だ」
「……」
「ガトーなんて死ねばいいのに」
テーブルに頬杖をついて、ねー、と楽しそうに瓶に向かって同意を求めるシド。
「そんなこと言ってると、またクリストフがヒステリ-起こすぞ」
「やる」
カイザの言葉にシドは迅速に席から立った。クリストフは目を吊り上げて二人を睨む。
「…カイザ、お前はいい父親になれるだろうよ」
「ああ、お前がいい脅し文句になってくれるおかげだな」
「もう一回、暴れてやろうか」
既に表情が強張っているクリストフに駆け寄り、激しく首を横に振るフィオール。
「苛立つのはわかるけどな、八つ当たりはよくない!」
「だったらあの蜥蜴を締め上げて知ってること全部吐かせろ」
ぷいっとそっぽを向いてクリストフが言った。少女とフィオールのやり取りをきいて、カイザの手が止まる。
「やっぱり、何かあったのか?」
「まあな」
クリストフは荒々しくテーブルの席についた。
「お前は大事なところでいつもいない」
「俺がいない間に大事な話するなよな……」
すっかりご立腹のクリストフ。カイザは手入れをやめてベッドから離れ、クリストフの正面の席へと歩み寄った。
「…ねぇ、痛い?」
笑顔でガトーの頭を包帯で締めあげるシド。
「いいえ」
笑顔で返答をするガトー。
「これは?」
「全く」
「これでも?」
「全然」
「死ねばいいのに」
見兼ねたカイザは呆れたような顔をしてソファーで言い合う二人の方を見た。
「いい加減にしろ、シド。ガトーに恨みでもあるのか」
「あるよ」
包帯を手放し、服を捲って腹を出すシド。その右胸の少し下の辺りに何やら刺し傷のようなものがあった。カイザは目を細めてそれを見つめた。
「思いっきり槍で刺された」
「仕返しです」
ニッコリと笑うガトーに、カイザは首を傾げた。
「仕返し?」
「あ、いえ……」
「僕はガトーに何もしてないよ。クリストフにだって何もできなかったし」
頬を膨らましてむくれるシド。殺し屋である少年が自分の敗北を語っているのだ、おそらく、嘘はついていない。ガトーは困ったように笑いながらシドの頭を撫でた。
「以前はすみませんでした。これからは仲良くしましょう」
「嫌だ」
笑顔で見つめ合う二人。ガトーは大きく息を吐いて、言った。
「…槍を刺しても悲鳴一つ上げない、そんな可愛げのないところも相変わらずですね」
今度はガトーが暴れ出すのではないか、と、カイザは不安になった。
「…シド、ちゃんと手当してやれ」
「わかったよ、仕方ないなぁ」
ガトーの言うとおり可愛げのない返事をするシドを横目に、カイザはクリストフに向き直った。
「で、なんだっけ」
「蘭丸が言葉を残して行ったってとこまでだ」
瓶の上に手を置いて、クリストフは言った。フィオールは逃げる際に拾い上げた紙を出そうとポケットに手を入れる。
「…待ってくれ。ノースは、無事なのか」
「密偵の話だと、バンディ達はノースに行くのを止めて近場の街に拠点を置いたそうで」
シドに巻いてもらった包帯を撫でながらガトーが答えた。シドは手当てを終えてそそくさとソファーを離れ、カイザの隣に座った。
「それなら、よかった」
カイザはグラスに視線を落とし、弱弱しい声で呟く。フィオールはそんなカイザを見つめて、ポケットの中の紙をテーブルに出した。
「これが、その時蘭丸が言い残した言葉だそうだ」
フィオールが出した紙を覗きこむカイザとシド。
「…どういう、ことだ」
カイザは震える手で口を覆い、脱力したかのように椅子の背もたれに寄りかかる。シドは、紙から視線を離してベッドの近くの椅子に腰かけるミハエルを見た。
「あれ、生きてるの?」
シドがそう言うと、クリストフは大きな音を立てて瓶をテーブルの真ん中に置いた。そして、きつくルージュを睨みつける。ルージュは、じっと目の前の紙きれを見つめ、言った。
「…業輪は滅さねばならない」
箇条書きになったそれを、ルージュは力なく読みあげる。
「部屋を開けてはならない。鍵を持つ西の巫女は火の精霊と共にあり、生きながらにして、死んでいる。」
カイザの心臓が大きく脈を打つ。視界がぼやけ、口にあてがった手も小さく震える。そんな彼を見て、ルージュは言った。
「最後の一言が真実である、とだけしか申しようがございません」
「じゃあ業輪と部屋に関する言葉をどう考える」
クリストフが聞くと、ルージュは項垂れた。
「私には、何も……彼が何を知っていて何を考えているかまではさっぱり。精霊様の存在も知っているようでしたし、一体彼は何者なのか」
「その、精霊っていうのは何だ。
震える手を膝元に戻し、カイザは聞いた。ルージュはじっと俯くばかりで何も話さない。すると、クリストフが口を開いた。
「いわゆる、神の使いだ。地上へ戻ったあたし達のもとへやってきて男の名前を与え、鍵と業輪について語っていった」
「ルージュ、そいつに会わせてくれ! そしたらミハエルは……!」
カイザが懇願の表情でそう言うと、言葉も半ばで、ルージュは小さく首を横に振る。
「先程、クリストフ様に申しましたとおり私には無理です」
「でも、ミハエルは生きているんだよな」
「それすらも、なんとお応えしていいのか……蘭丸という者の言葉が一番適切であると思います。身体は死んでいますが、御霊が眠っているだけにすぎません」
クリストフは酒を煽り、言った。
「なんで早く言わないんだよ。エドガーがそんな状態になってるってのに」
「私達は死という感覚が人間とは違うのです。今のエドガー様はあなた方にとっては死んでいるのもしれませんが、私達にとっては生きておられるのです」
「…ルージュの言うとおりだ」
黙っていたフィオールが、真剣な表情で言った。
「妖精の森で留守番していた時、エドガーの隣で一人考え事をしている俺のところへニアがやって来たんだ。水が入ったコップを二つ持って。ニアは一つを俺に、一つをエドガーの近くに置いた。飲まないのか、と聞いたら……これは、エドガーに用意した物だと、さも死体を生きているかのように扱っていた。あの言動の真意がきっと、ルージュの今の言葉なんだろうよ」
「珍しく飲み込みが早いじゃないか」
クリストフが不満気にフィオールを見る。フィオールは真っ直ぐにクリストフを見て言った。
「悪いが、俺はお前達と違ってエドガーを死体としてしか見れずにいたからな。ニアの対応に違和感を感じたんだよ。それに、エドガーの生死でもめてる場合じゃない。蘭丸の目的はお前らだけじゃなく、業輪をこの世から消すことなんだろ?」
クリストフの酒瓶を持つ手が止まった。
「俺はまだその輪っかが世界を支えているなんて実感もわかないし、そんな争いの元が消えてくれることにはなんとも思わない。でも、お前らは違う」
フィオールの眼差しが、鋭くクリストフを射る。
「…話には出したくなかったが、この際だ。お前らのどちらかが業輪を手にするとして、どっちが部屋を開くんだ」
フィオールの問いかけに、クリストフは眉を顰めた。
「今まであいつに苦労をかけてきたあたしが、エドガーの部屋を開けられるはずがないだろ。業輪は一度カイザに手渡し、エドガーの墓に供える。そしたら、あたしがまた業輪を回収して使命を果たす」
「…クリストフは、こう言っているが?」
フィオールが隣で考え込むカイザを横目に見た。カイザはその視線に気づかない。
「カイザ」
「あ、ああ……」
カイザは慌てて返事をして、また、黙り込んだ。
「……」
ミハエルは人と違う形で生きている。この事実が、カイザの中である思いを芽生えさせる。それは、彼女の死を見守りたいと願っていたカイザには考えもつかないことだった。
「ミハエルは、生きてるんだよな」
カイザの呟きに、フィオールはその思いを察して溜息をついた。
「ミハエルの部屋には、願いを一つだけ叶える木が……あるんだよな」
「カイザ、お前」
クリストフがそう言うと、カイザは俯いたまま、言った。
「死者を蘇らせようなんて、そんなこと……墓守のミハエルが望むわけもないし、考えたこともなかった。でも、生きているなら、眠っているだけなのなら……その眠りから、覚めさせることはできる」
クリストフは、額を抑えて俯いた。
「クリストフ、頼む。俺に、その部屋を譲ってくれ!」
カイザは泣きそうな表情でクリストフに訴えかけた。少女は、苦しそうな顔で下を向くばかり。
「頼む! クリストフ!」
「待て、カイザ」
テーブルに身を乗り出して頼み込むカイザの肩を、フィオールが掴んだ。
「蘭丸が部屋を開いてはいけないと言った意味もわからないうちに早まったことはするな。なんせ、この鍵戦争はこの世の運命がかかってるんだ」
「……」
「だが、蘭丸の警告の意味次第では……誰かが部屋を開くことに俺は賛成だ」
フィオールの言葉に、カイザは顔を上げた。
「木は、一つしか願い事を叶えないんだ、エドガーの部屋を開いてしまえばもう鍵戦争は二度と起きない」
フィオールはクリストフを見て、言った。
「どうだ、クリストフ」
「…わかったよ。好きにしろ」
少女は諦めたように片手をぱたぱたと振ってみせた。それを見て、カイザの表情が明るくなる。
「あたしも、エドガーには会いたいからな」
「…ありがとう」
「でもな、フィオールの言葉を忘れるなよ」
クリストフはキッと顔を上げてカイザを睨んだ。
「蘭丸の『部屋を開いてはならない』と言った理由次第だ。お前の願望一つのために、世界を破滅に導くようなことになったら」
「わかっている。そんなこと、ミハエルのためとはいえ……できない」
少女の言葉を遮り、カイザは言った。
「今の俺には、できないよ」
カイザはクリストフ、ガトー、ルージュ、フィオールを順々に見つめ、最後に、隣のシドを見下ろした。全く話がわかっていないシドは、首を傾げて笑って見せた。そんな少年を見て、カイザは優しく微笑んだ。
「ミハエル以外にも、大事なものができたんだから」
カイザの言葉に、シドは驚いた顔をした。
「…そうだな。もう、前のお前じゃないんだった」
クリストフは、小さく笑って酒を口にした。そして、ふと思い耽ったような表情で言った。
「蘭丸は、何か知っている」
少女の呟きに、緊張の糸が張り詰めた。
「業輪や部屋のことまでか、精霊に、エドガーのことまで」
「あの指輪のことも気になります」
ルージュがクリストフを見上げ、言った。
「そうだな。あたしはエドガーの死因も、カイザの墓の意味も、クロムウェル家と接触したらわかると思っていたが。もっと早く、全ての真実が明かされるかもしれない」
「蘭丸が知っているということか」
カイザが聞くと、クリストフは酒瓶を見つめながら頷いた。
「もしかしたら、な」
皆、それぞれに思いを巡らせる沈黙。新しい希望と、真実への手掛かり。それらは複雑に絡み合い、3人の意図するところからはすでに逸していた。もう、進むしか道はないのだ。
そんな中、一人だけ嬉しそうにしていたのがシドだった。少年がカイザについてゆこうと決めたのは、ほんの好奇心だった。それが、思わぬ幸福感を少年にもたらしていた。誰かを大事に思うこと、大事に思われることを少年はその時学び始めていた。血の匂いに塗れて信頼や愛情から遠いところで生きてきた少年にとって、カイザの言葉や頬笑みがかけがえのないものになってゆく。かつての、カイザとミハエルのように。そして、少年もまた……その愛情に溺れて、その身を危険に放り出すことになる。ミハエルのために旅をする彼同様、大事な人のために幼い手を血に染めてゆく。