15.知らない懐かしさは夢の果てに
まだ日の上がりきらない明朝未明。
「起きろ」
「…ぎゃあ!」
フィオールの奇声。カイザは眉を顰めてゆっくりと瞼を開けた。ランプの光が揺らめく天井から声の聞こえた方へと視線を移しながら身体を起こす。
「おっ、お前! いつから?!」
視線の先には、慌てふためくフィオールの布団に潜り込んでいるクリストフがいた。下半身を布団に潜らせた少女の背中を見て、カイザは一瞬身を引いた。が、昨晩のことを思い出して冷静になった。そして、あー、と気の抜けた声を漏らす。
「そういえば、お前らはそういう関係だった……じゃなくて、そういう関係になったんだっけ」
カイザの呟きに、フィオールは喉から変な音を出して顔を真っ赤にする。枕に肘をついたまま首だけ振り返ったクリストフはニヤニヤしていた。
「ちっ、違う!」
「あんなことしておいて冷たいこと言うなよ、フィオール」
「い、いや! その!」
耳まで赤いフィオールを見て、カイザは慌ただしく布団から出てミハエルを抱き上げた。
「…お前ら、何かあったのか? いや、したのか?」
「何もねーよ!」
フィオールがカイザに枕を投げつけた。カイザはそれを叩き落として二人を睨む。すると、ケラケラと笑いながらクリストフが言った。
「そう照れるなよ。一つの布団で寝た仲だろ? 10分くらい」
二人が一斉にクリストフを見ると、少女は楽しそうに笑いながら立ち上がった。
「準備しろ。そろそろ行くぞ」
「もう少し驚かさないように起こせないのか?」
フィオールが頭を抱えてうなだれた。カイザもぐったりしている。
「もう面倒だから結婚しろよお前ら。結婚して新婚旅行でもなんでもいいから遠くに行ってくれ。朝がしんどい」
カイザはミハエルを椅子に戻してダラダラと着替え始める。フィオールはそんなカイザの背中に布団を投げ飛ばした。
「俺だって毎朝しんどいんだよ!」
「しんどいのか……?」
クリストフが包帯でグルグル巻きにした左手にアーマーをはめながらフィオールを見た。
「ち、ちがっ!」
ふらふらと立ち上がり、フィオールは顔を赤らめる。カイザは深く溜息をついた。
「なんだよ、はっきりしないな。男のくせに」
フィオールはカイザの言葉に舌打ちをした。
「じゃあはっきりさせてやるよ! 俺はクリストフが……!」
「そういえばカイザ、」
クリストフがフィオールの言葉を遮った。フィオールは帽子を握り締めたまま固まっている。
「昨日の質問に答えてなかったな」
「質問って……」
荷物をまとめるクリストフを見ながら、カイザは昨晩の事を思い返した。
ーー教えてやるよ、あたしがあのお姫様を助けようと思った理由……ーー
「ああ」
「あれは、あたしが……」
「いや、いい」
カイザはベストのボタンに視線を落とした。クリストフは手を止めてカイザを見る。
「ニアから、聞いたんだ」
「…ニアが?」
「ああ、お前の口から直接聞いたわけじゃないが……いい。俺もあいつの身の上を知っていたら頼みを聞いてやりたいと思っただろうし」
「そうか」
カイザはベストのボタンを締めて、アーマーを手にとった。上腕部に描かれたブラックメリーと同じ、鷲のシンボル。追われる危機感、追わなければならない焦燥感。本当はこんな事をしている場合ではないが……ニアの夫に対する気持ちに、カイザは心を動かされていた。
「…同情でしか、ないんだろうけどな」
「……」
カイザの呟きに、クリストフは何も答えない。答えられない。
助けるという行為自体は善でも、動機は偽善的なことがある。世にいう優しさなんてものも、偽善と隣り合わせの自己満足でしかない。ここで夫を助け出しても、ニアの命は残り短く、そんなニアを見捨てることは、似た境遇の自分を見捨てることになるようで放っておけない。神に見初められたクリストフ、美女の死体を愛するカイザ、美女に口付けをしたフィオール。ニアの境遇を他人事に思える者はいない。
三人はそれ以上何の言葉も交さずに部屋を出た。そして、目の前の風景に立ち尽くした。
「おはようございます」
森を白く照らし出す淡い光が走る空を、赤い火が無数に飛び交う。よく見れば、光の一つ一つは小さな人だ。辺りをぼんやりと赤く照らすそれらが、蛍のように空高くまで埋め尽くしていた。そこにニアが一人、ぽつんと立っていたのだ。
「ニア、これは……」
空を見上げてカイザが聞くと、ニアは笑顔を浮かべて言った。
「クリストフ様とエドガー様に、長が挨拶致したいとのことで」
クリストフはミハエルを背負うカイザの手を引いて前に出た。すると、ニアと二人の間に光が集まり、大きな炎が燃え上がる。パチパチと火の粉が舞う炎の中から、一人の老人が現れた。紳士的な出立に白い髭。優しそうに細くなった赤い目からは、何処か威厳を感じる。カイザとフィオールが目を点にして見つめていると、老人はゆっくりと会釈した。
「お会いできて光栄にございます。この度は我が息子を助けてくださると聞き、感謝の言葉を述べさせて頂きたく、参ったしだいにございます」
「息子だったのか。それはさぞ心配だったことだろう」
クリストフがそう言うと、老人は少女に歩み寄ってその手を取った。
「聖母様方の御加護の下にあるこの世界で、何を気に病むことがございましょう」
クリストフは老人が握る左手を見つめて悲しそうな顔をした。
「火の妖精より、心ばかりの祝福を……」
老人は少女の左手の甲に口付けをした。そして、カイザに歩み寄ってミハエルを見つめた。
「……」
カイザは少し身を引いて俯いていたが、老人は何も話さない。カイザが顔を上げると、老人は彼をじっと見つめていた。皺くちゃで細くなった目の間から覗く赤い瞳にカイザは捕えられてしまう。
「…あなたは、以前何処かで」
目が離せない。老人のその赤い瞳がカイザの中で不思議な懐かしさを呼び起こす。しかし、カイザははっと我に返って言った。
「ここへ来るのは初めてだ。俺も何処かで……あなたと会った気はするのだが」
カイザは首を傾げて視線を逸らした。すると、老人は優しく微笑んだ。
「…そう、でしたか」
老人はカイザの手を取り、その手に口付けをした。手からはなんの温度も感じないのに、ふと甲に当たる吐息は熱い程であった。
「あなた様方に、神の御加護があらんことを……」
老人はするりとカイザの手を放し、帽子を整えながら後退する。
「また、お会いしましょう」
そう言うと老人は炎に包まれて燃え上がり、瞬く間に消えた。空を飛び交う光も無くなり、そこにいるのはニア一人となった。
「では、門を開きます」
ニアの手には、小さな金の鍵が握られている。ミハエルの物とは違い、なんの装飾もない古びた鍵だ。ニアは三人に背を向け、鍵を空で捻った。すると、鍵の先から火が出てそれが門の形を描き出した。門の向こうには、高い塔が聳え立っている。
「カイザ、どうした。」
立ち尽くすカイザにフィオールが声をかける。カイザは慌ててミハエルを下ろした。
「いや、何でも」
カイザは荷物とミハエルを切株の近くに置いて、門の前に立った。
この時、カイザは気持の悪い感覚に陥っていた。会った覚えはない。ないはずなのに、目や感覚があの老人を懐かしむのだ。既視感、なんて漠然としたものでもない。記憶にはない何処かで、必ず会っている……そんな、気味の悪い感覚。
「さて、早く済ませて祝杯でも上げるかな」
伸びをしながらクリストフがカイザの隣に並んだ。
「やっぱり俺も行った方が……」
二人が振り返ると、不安そうな顔をして視線を地面に這わせているフィオールがいた。そんな彼に、クリストフは強気な笑みを向ける。
「もしもの時のために、お前には留守番を頼んだんだろうが。そんなしけた顔するなよ」
「でも、俺は!」
フィオールが顔を上げると、目の前には少女の顔があった。驚いて言葉を詰まらせる彼を、少女はじっと見つめる。
「妖精一匹と娘一人を助けるくらい、本来ならあたし一人で十分だ。根暗なカイザなんてただの開錠係だし」
「おい、聞こえてるぞ」
カイザが肩越しに少女を睨む。
「あたしを信じろ。必ず帰るから」
クリストフは小さく微笑んでフィオールの手を握った。少女の笑顔を見てフィオールは困ったように笑い、頷く。その様子を無表情で見つめているカイザ。
「…やっぱりお前ら、そういう関係なの?」
カイザの言葉に、フィオールはあたふたと手を離した。
「いや、その、心配で!」
「ふーん。すぐ帰るから」
何やら理解のいいカイザに、フィオールはほっと胸を撫で下ろして頷いた。単純でよかった、そう思いながらカイザに歩み寄るクリストフの背中を見送る。少女は門の前に立ち、振り返った。
「じゃ、」
カイザも軽く手を上げて言った。
「ミハエルのこと、よろしく」
二人が門を潜ると、門は炎をあげて空に消えた。フィオールはそれを見つめながら、ふっと小さく息をつく。
「まだ、心配ですか?」
ニアが切株に寄りかかるミハエルに歩み寄りながら聞いた。フィオールはが消えた空を見上げ、立ち尽くしている。
「…いや、あいつらなら大丈夫だと信じてはいるけど」
森の端から、朝日が昇る。
「男ならやっぱり、女に頼りきりじゃいけないような気がして」
そう言うフィオールの背中を見つめ、ニアは優しく微笑んだ。