153.女王の嘆きで海は高鳴る
緩い地響きが畳から伝わる。青白い寝顔を見下ろして、ヤヒコは母の髪を撫でた。
「ヤヒコ様」
襖の向こうから呼声がして、振り返る。ヤヒコは応えようか応えまいか、悩む。
「りん」
悩むヤヒコの手に、冷たい手が重なった。
「大丈夫ですから、行ってきなさい」
母は薄く目を開けて、優しく笑っていた。ヤヒコは小さく頷いて片膝を上げる。すると、母はヤヒコの手をぐっと握りしめた。ヤヒコは、ふと動きを止めて母を見る。
「何があっても動揺してはなりません。決して、心の平穏を乱してはなりません」
「……」
「わかりましたね」
母はそう言って手を放し、再び瞼を閉じた。ヤヒコは暫くその寝顔を見つめて、のそりと立ち上がる。
ヤヒコが襖を開けると、深妙な顔で廊下をうろつく翡翠がいた。
「翡翠が落ち着きなく狼狽えるなど……珍しいこともあるものだ」
翡翠はヤヒコの姿を見つけ、それはまた落ち着きなく駆け寄ってきた。
「ヤヒコ様にお目通り願いたいと申す者が……」
「こんな時にか。誰だ」
「……それが、」
翡翠の言葉に、ヤヒコの顔付が険しくなってゆく。ヤヒコは困惑顔の翡翠を他所に、廊下を歩き出した。そして、ある部屋の襖を勢いよく開いた。ガラリとして、何も置いていない広い和室。それとは打って変わって、縁側の向こうに見える庭には人が集まっている。ヤヒコは一歩一歩、人の群れを睨みながら庭に歩み寄る。
「ご機嫌麗しゅう。ヤヒコ様」
家臣達に囲まれていたのは、後ろ手に縄で縛られ地べたに座り込む一人の男。派手な着物に、頬の刺青。
「海賊風情が、何の用だ」
ヤヒコが賤しいものを見るような目つきで言うと、男はにたにたと笑って正座を崩し、胡座をかいた。
「そんじょそこらの海賊と一緒にされちゃあ堪りませんよ。俺達海閻は伝承者の末裔、なんて言われてんですから」
「だから何だというのだ。貴様らのせいで外交もままならず、我が国は他国に遅れを取った。ここへのこのこやってきて、生きて帰れるとは思うておるまい」
男は、はあ、と溜息をついて俯いた。
「話のわからねぇお姫様だ。伝承者の末裔が何故、今、ここに、手下一人を遣わしたのか」
男は前髪の隙間から、怪しい笑みを浮かべてヤヒコを見る。
「まるでわかっておられぬご様子」
その瞬間家臣達は一斉に刀を抜いた。襖の方では、翡翠が心配そうにヤヒコを見つめている。ヤヒコは、鼻で笑って見下すように男を見た。
「……よかろう」
ヤヒコがその場に座ると、翡翠は部屋に足を踏み入れ、上座に置いてあった肘掛をヤヒコの元へ運んだ。
「その首を撥ねる前に聞いてやろうではないか。貴様らの大将、嶽織が、神の審判に何と口を挟もうというのか」
ヤヒコは肘掛に凭れ、強気に笑って見せる。その斜め後方、不安気な顔をして座っている翡翠を、男は見逃さなかった。
「……俺は嶽織が弟、朱織と申します。兄が言葉をヤヒコ様に伝えんと、遥か西より舞い戻った所存」
急な台詞口調に、その場の空気が一変する。
「一つ、西へ遣わした館石家当主は、深く眠りて時の狭間に取り残される」
ヤヒコの顔から、笑みが消える。
「二つ、日を跨ぐより先に聖地は混沌に覆われ、二つの鍵が失われる」
震える手で、口元を抑える。
「三つ、」
「やめろ!」
ヤヒコは肘掛を男に投げつけた。男は俯いていた顔を上げる。その額からは、血が流れ出していた。
「斬れ……この者を斬れ!」
ヤヒコが叫ぶと、家臣は刀を振り上げた。男は立ち上がって家臣を蹴り倒した。一瞬にして騒がしくなる庭。後ろへ倒れかかったヤヒコを、翡翠が抱きとめた。
「ヤヒコ様、」
「未来が聞こえなくなったかと思えば……またか。もう、聞きとうないというに……」
目に涙を浮かべ、ヤヒコは弱々しくも立ち上がる。そして、足だけで戦う男を見つめた。すると、男を青い炎が包み込む。家臣達は離れ、片膝をつく男を見つめる。ヤヒコは涙を一筋流し、無表情で男に言った。
「海賊の死に際の言葉など、聞くに耐えん」
「……そうだ。俺は、遺言を残しにここへ来たんだよ」
男は炎に包まれながら、苦し気に笑う。
「三つ、審判の日の向こう側が開けし時、東の女王がその名以て戦いに終焉を齎す」
男はその場に倒れ込んだ。呆然と男を見つめるヤヒコ。翡翠は男に駆け寄り、火が燃え移るのも構わず男を抱き上げた。男は、消えそうな声で言った。
「ここより西の港に停めてある船に、俺の娘と息子が乗っている。ヤヒコ様、あんたの証文を持たせてあいつらを海へ出してくれ」
ヤヒコは、がっくりと膝を折った。
「東の栄光のために、喜んで……俺は、礎と、」
炎は一瞬大きく燃え上がり、翡翠の腕には黒い人型の炭が残った。それは、サラサラと砕けて砂のように崩れ去った。
翡翠が港へ行くと、一隻の小さな木造船があった。歩いて近付くと、船頭に仲良く腰掛ける二人の子供がいた。白髪の双子は、片方は前髪が黒く、片方は後髪だけが黒い。12歳くらいだろうか、どちらが息子でどちらが娘かわからない程に顔が似ている。子供達は翡翠に気付いて、互いの顔を見合わせる。そして、黒い瞳に涙を溜めてわんわと泣き出した。
「……朱織の子供とは、お前達のことか」
翡翠が問うが、子供達は泣くばかり。翡翠は哀れむような顔をしながらも、懐から一枚の紙を出した。
「証文だ。これで、西の乱世は終わるのだな」
子供の一人が、荒っぽく証文を受け取った。驚いて翡翠が後ずさる。泣いていたはずの子供達が、怪しく笑って見ていたからだ。
「馬鹿な奴だな。この証文が使われるってことがどういうことかわかっちゃいない」
「姉ちゃん、もう行こう。嶽織が待ってる」
子供達は立ち上がり、バタバタと船の後方へ走り出す。
「待て!」
翡翠が呼び止めると、姉の方が振り返った。
「どういうことだ。その証文は、何が」
姉の方は証文をパタパタと靡かせて見せる。
「これはな、伝承者が使命を果たせず死んだ時に使うんだ。つまり、世界を導くのに失敗した時に尻拭いするための紙なんだよ」
弟は横目に翡翠を睨み、言った。
「それも全部知っていて、親父は礎になることを選んだ」
翡翠が黙って立ち尽くしていると、子供達は海に背を向け、にたにたと、親父にも似た笑みを浮かべる。
「四つ、」
姉の声に、翡翠は我に返る。
「門の隙間より天使の梯子が降り立つ未明、東の女王は狂い咲く」
翡翠は何かもの言いた気に口を開けるが……言葉が、出ない。
「イトサマに、東の海の加護があらんことを」
弟がそう言うと、二人は背中から海へ落ちて行った。翡翠が慌てて船に飛び乗り、二人が飲み込まれた水面の波紋を見つめるが……二人は、いつまで経っても上がって来なかった。
翡翠が証文を持って屋敷を出た後。静かな自室で、ヤヒコは筆を持ったまま机の前に固まってしまっていた。
ーーそうだ。俺は、遺言を残しにここへ来たんだよーー
男の笑みと言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
ーー二つの鍵が失われるーー
ヤヒコは机に筆をポロリと落とし、頭を抱えて嗚咽する。廊下に漏れるか漏れないかわからぬ程に小さな泣き声で。14かそこらの見た目に見合った、めそめそと、少女らしい泣姿。しかし、
「余のせいで、和は……」
ーー西へ遣わした館石家当主は、深く眠りて時の狭間に取り残されるーー
少女は、華奢な背中に一族を背負う。ヤヒコはポタポタと膝に涙を落とし、小さく首を横に振った。
「ダンテ、クリストフ……エドガー。嫌だ……私を、一人にしないでくれ!」
少女の願いとは裏腹に、海は急に荒れ始めた。波は高くなり、空が曇ってゆく。それを、香が焚かれた寝室でじっと感じ入っていたのが母だった。ぼんやりと天井を見つめ、声とも言われぬか細い音で囁く。
「動揺してはならないと……言ったのに」
母は、病に侵された身体一杯に娘の嘆きを聞く。そして、受け止める。この期に及んで、責めるなんてことはしない。
「荒れてきたな」
「間に合うかな、姉ちゃん」
黒い海の底。両手の指を絡ませて手を握り合う姉弟は、うねる海中を漂いながら見つめ合う。
「間に合うよ。問題は蘭丸の方だろ。こんな紙切れ、使わずに済むならその方がいいんだ」
「俺、あいつ失敗する気がする」
「何で?」
姉が問うと、弟は口から小さな気泡を漏らして言った。
「使命が何だって言ってたけど、あいつ、他にもっと別の目的を持ってると思うから」
「別の目的?」
「わからない。使命の話をしてる時、心ここに在らずって感じだったから、そう思っただけ」
姉はふっと笑って、弟の頬を撫でた。弟もまた、姉の笑顔を見て口元を緩ませる。
「あたし達は親父の言うとおり嶽織について行くだけ。何が起ころうと構いやしない。天地がひっくり返ろうが、海はいつだってあたし達のものなんだから」
「……うん」
二人はきつく抱き合ったまま口付けを交わし、大きく鼓動する海底へと沈んでゆく。何の抵抗もしない、何の恐怖も感じない。海に流されて、起こりゆく全ての事象に溶けてゆく。自然の一部となって、運命に身を委ねる。