152.魔女の覚悟で空は荒れる
焼こうと思っていた町は昨日の騒ぎがあったのにも関わらず、不自然な程に静かだ。人っ子一人おらず、半壊した建物もそのまま。馬に乗って軍を引き連れるルイズは、辺りを見回してある史実を思い出していた。
「……どこかに民は身を寄せて潜んでいるはずだ。土を掘り返してでも、探し出せ」
ルイズの言葉に、後方の騎士達が町へ散った。ルイズは馬を止めて空を見上げた。
赤い空に影が刺し、黒い雲が白い太陽を覆い始めた。それと共に、影となった部分から黒い煙が立ち上り始める。それは異質な植物となり、岩となり、町の面影を食い尽くして面妖な姿を現す。まるで、影だけが地獄に侵されているかのように。
「お前達、ヨルダの魔除を受けたとて油断はするな。魔界の連中は敵を殲滅する手札ではあるが味方ではない」
ましてや使い物になるかもわからない、とは思っても、口には出さなかった。
「ここから先は今までの戦とはわけが違う。経験だけでは補えない、各々の判断力が生死をわける」
ルイズは振り返り、騎士達を流し目で見た。クロムウェル家の精鋭達は、その瞳に一瞬の恐れを抱く。
「お前達に命を賭けろとは、言わない」
冷たい瞳には似合わない言葉。しかし何故だろう。生き抜こうという気持ちより、死ぬのではないかという予感が先立つ。
嫌な緊張感で凍りついた空気。そんな暗い沈黙を、青白い光が包み込んだ。激しい雷がルイズの背後で轟く。騎士達が眩しさのあまり目を伏せる中、ルイズはゆっくりと、振り返る。
「……やはり、お前が来たか」
焦げた地面、立ち上る灰色の煙。そこに立っていたのは、頭を抑えながら前を睨むレオンだった。
「ルイズ様……こんな僻地へ何か御用でも、」
レオンは頭から手を離し、大きく息を吐き出して言った。軍の騎士達は、次々に剣を抜く。
「未だ神殿も見つけられないお前に用はない」
ルイズは剣を抜き、更に、銃を左手に取って俯く。
「ただ、何の合理性もない運命の悪戯にはしゃぐ愚かな民を滅ぼしに来たまで」
レオンは眉頭に皺を寄せる。
「私はクロムウェル家をよく知っている。だからこそわかる。論ずることと腹心は全く違うところにあると」
ルイズを睨んだまま、レオンは剣を抜いた。
「いくら御兄弟と言えど、貴方をカイザ様に近付かせるわけにはいきません」
暗い空を大きな怪鳥が飛び去った。その鳴き声は淀んだ空気を震えさせ、聞く者の足を竦ませる。しかし、レオンとルイズだけは……構わず視線を交差させる。
「先ず、最初の選択肢だ」
ルイズは馬に乗ったまま、レオンを見下すように見つめる。
「命に変えても主を守り、従順であれとお前達に言って聞かせた男が、クロムウェル家の主たる私に刃を向けている。今までお前達が信じてきた騎士道の鑑とは……一体、何だったのか」
ルイズの言葉に、騎士達は各々武器を手にする。その手は、震えているようにも見えた。
「さあ、判断の時だ」
騎士達は剣を握り締め、レオンを見つめる。兜で遮られ、レオンからはその表情は掴めない。しかし……軽蔑、失望、躊躇、疑念。様々な感情が、渦巻いてゆくのがわかる。
「……確かに私は、クロムウェル家を裏切った」
レオンは首輪にそっと触れて、言った。
「しかし、主を守るためならば何を敵に回しても構わない。それが例えお前達であっても、長年仕えてきた家であってもだ」
ルイズは表情変えずにレオンを見据える。
「盗賊の手下に成り下がってまで、この私に盾突くか」
「……こんなことは申したくございませんでしたが。離宮暮しの妾の子は、何をしたところで本妻の子には敵いません」
ルイズの無表情に、角が立つ。
「……寵妃の称号を賜った母を、妾と言ったか」
「愛人、の方がよろしかったですか?」
その時、一発の銃声が鳴った。レオンは微動だにせず立っている。ルイズは今にも荒くなりそうな息を必死に肺に押し込めながら銃を握る。レオンのアーマーには、銃弾が一発捻じ込まれていた。
「…如何なされました。いつもならば、いともたやすく眉間を撃ち抜けたでしょうに」
ルイズは銃を下げ、大きく深呼吸をした。
「いいだろう……この際、クロムウェル家のことはどうでもいい」
ぶつぶつと呟くルイズ。背後の騎士達は唖然として二人を見ている。
「私の目的は母と妹を殺した兄への、復讐のみ」
ルイズは、腰にかけていた血塗れの仮面を手に取った。レオンはそれを見て、はっと息を飲む。
「私とて、何を敵に回そうと構わない。勝つためならば、母と同じく修羅ともなろう」
目を見開くレオンを見つめ、ルイズは悪戯に仮面を顔に当てた。
甘いような、獣臭いような。様々な匂いが混じり合う黒い雲の下、巨大な白蛇の頭部に立つダンテ。ダンテが見下ろす先には、黒いマントの青年を侍らせるヨルダがいた。
「本当によろしいのですか? お仲間を放っておいてしまって」
「それが狙いだったくせに」
ヨルダはクスクスと笑って、青年の頬を撫でた。ダンテは賎しいものを見るような目でヨルダを睨む。
「魔界の一部を召喚するなんて大仕掛け……これもソフィーおばさんの魔法か」
「ソフィー様は魂の還元と地獄門の研究をしてらっしゃいました。私はその技術を応用したまで」
ヨルダは懐から血がついた本を取り出した。その表紙を見下ろして、穏やかに語る。
「天の使いと人間とを隔てる壁を壊し、世界の均衡を崩す。それによって歪むであろう輪廻の輪から記憶を取り出し、記憶を元に秩序から逸脱した魔力を用いて目的の魂を還元。そして、魔法で作った人体に魂を納める」
「生贄が要るんだろう? でも、オズマは僕と契約しているから他者の召喚術には応えない。オズマは、ここへは来ない」
「どちらへ隠したかは存じませんが、御心配には及びません」
ヨルダの優しい笑みが癇に障る。
「どういうことだ」
怒りを含んだ声色に、ヨルダは嬉しそうに笑う。
「仲間を案じて安易に魔法も使えぬダンテ様と、如何なる犠牲もいとわず魔法が使える私。どちらに分があるかははっきりしています。あなた様は必ず、オズマを呼び戻します」
「……そう挑発されちゃあ、僕も加減を誤りかねない」
ダンテが俯いた瞬間、辺りは激しく逆巻く突風に包まれた。翻る法衣、上へと靡く銀髪。
「何を犠牲にしても、地獄門だけは開かせない」
ヨルダはうっとりとして、美しい少年を見つめる。
「いい加減、その刀を抜いたらどうなんだ!」
少女に腕を掴み上げられ、蘭丸はその腕を振りほどこうとする。しかし、
「なんのつもりなんだよ……あたしの怒りは、何処へぶつければいいんだよ!」
クリストフの表情は見るからに苦しげだ。掴んだ腕を握り潰すこともたやすかろうに、それができない。仮面の男は何処か、自分を気遣って見えたから。
「なんとか言えよ……蘭丸!」
「……怒りなんて忘れろ」
蘭丸は少女の手を握った。驚いて身を引くクリストフ。
「我々は世界に選ばれ、運命に淘汰される存在。お前達美女もまた、同じなのだ」
優しく握る手の温もりに、振り払えないでいる自分に、少女は戸惑う。
手を握って少女を抱きしめようとする蘭丸もまた、そうだった。何故この少女を見ると胸が痛むのか。蘭丸は仮面の裏で、少女同様に困惑した表情をしつつも……褐色の手を握って、引き寄せる。
「……何だ? もう終わりか?」
倒れかけた木の上で二人を見ていたアダムは、ゆっくりと立ち上がった。
「終わってしまっては、困る」
アダムが二人の背に狙いを定め、踏み込もうとした。すると、周囲は突然の炎に見舞われる。燃え上がる木々、土を這う業火。蘭丸はクリストフの手を引っ張り、自分の背後へと匿う。蘭丸の広い背中を見つめ、少女の心臓はどくどくと高鳴っていた。見覚えがあるような、ないような。触れたらば、わかるような気が……蘭丸の背に、そっと、手を伸ばす。
「……生きていたのか」
蘭丸の呟きに、少女は手を引っ込め、蘭丸の視線の先を追う。そして、目を見開いて立ち尽くした。
隆起した燃える岩場の上。真っ黒な髪に、緑に光る目。見慣れた帽子はそこにないが、あれは、確かに……
「フィオール……」
震える声でクリストフが呟く。すると、フィオールが二人に向かって突っ込んできた。蘭丸は少女の手を離してフィオールに向かってゆく。
「やめろ!」
少女が叫ぶが、二人は空中で赤い炎に包まれてしまった。唖然とそれを見つめる少女。
「放っておけ」
少女が振り返ると、大剣に寄りかかって上空見上げるアダムがいた。
「蘭丸を消したいんじゃないのか」
「……お前こそ」
「俺は蘭丸が死ねばそれでいいんだ。無理に俺が戦う義理もない。だから、」
アダムは見下ろすように少女を見た。
「あいつといい仲になるようなら、お前にも消えてもらわねばならない」
少女はアダムをきつく睨みつけた、その時。炎の塊が空中で爆発した。激しい爆風に顔を背ける少女。熱風の中、周囲の様子を見渡すと……焦げた岩の上に、頭を抑えて蹲る蘭丸がいた。少女はそれを見て、駆け出す。
「……女心は移ろいやすいものだ」
駆け出す少女を狙う、殺し屋の大剣。アダムは、炎の中で静かに構えた。
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概念とされるこの存在も、あと僅かで腐り落ちる。あと少し。あと少しだけ……
今、痛みを恐れて業輪を手放すわけには、いかないのだ。
聖母の怒で大地が震え、魔女の覚悟で空が荒れる。戦士の雷鳴轟く死海、執筆者と伝承者が焼き払う巫女の森。破壊の色が漂うパリスに、更に、女王の悲嘆が襲いかかろうなどと……この時誰も、想像していなかったろう。
終末に居合わせた幸福なる人々よ。瞬きも許されぬ夢路の最期を、彩るがよし。
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