147.明かされたたった一つの名が
カイザは溜息をついて、煙草の煙を吐き出した。広間のソファーに腰掛け、オックスフォード家にあった古文書の対訳本を見ていた。それはちょうど、500年より以前、つまり、世界の書12巻にあたるであろう内容が記されていた。古文書の中でも、これだけは早くに発見されて至る所にその研究結果が流されている。所謂、歴史書として扱われていたのだ。中に書かれているのはまるで原始の世界。民の自給自足の生活や、信仰。そして、土地を巡る争い。カイザにとっては、ミハエルが昔の恋人と暮らしていたであろう時代の話。細々とした生活の中で、恋人と微笑み合う彼女の姿が頭に浮かぶのが、何とも切ない。しかし、目が離せない。カイザはミハエルを隣に置き、じっと、静かに本を読む。
「カイザ様、」
カイザがふと呼び声に振り返ると、レオンが広間に入って来ていた。
「探したのですが、誰もおりません」
「……おかしいな」
カイザは煙草を灰皿に押し付け、眉を顰める。レオンはカイザの向かいに腰掛け、大きく息を吐き出した。
「敷地内にいないとなると……」
「町か」
カイザは再び、本に視線を落とした。
「子供達ならまだしも、あの娘まで」
「娘って、あいつは軽く120歳越えてるんだぞ」
「しかし、私にはどう見ても少女にしか、」
レオンが古文書に手をかけた、その時。
「た、大変です!」
部屋に飛び込んできたのは、荒く息をするマルクスだった。その様子に、カイザとレオンが立ち上がる。
「町が……何者かに!」
「町?」
カイザの眉が、ピクリと動いて眉間に皺を寄せる。
「そこに、クリストフ様達が……!」
マルクスの様子にカイザとレオンは走り出していた。しかし、カイザが足を止めて振り返った。カイザの視線の先には、ミハエルがいた。
「エドガー様は私が地下へ避難させておきます!」
マルクスがそう言うと、カイザとレオンは顔を見合わせ、再び走り出した。外へ出ると、何やら森の向こうで煙が上がっている。
「まさか、ルイズ様が」
「いや、ブラックメリーやホワイトジャックも考えられる」
カイザは持っていたブラックメリーを握りしめた。すると、激しい光と共にブラックメリーは姿を変え、光を放つ三又の槍になった。
「走るのは面倒だ、飛ぶぞ」
「飛ぶ?」
「もし、感電させるだけになっても許せよ」
カイザはレオンの正面に立ち、唐突に銀の首輪を掴んだ。レオンは少し困惑気味に目を泳がせている。
「行くぞ」
真剣な表情でカイザがそう言った瞬間、何処からともなく雷が落ちてきた。光の槍に撃たれる二人は、一瞬にしてその場から……消えた。残るのは黒く焦げた草原、のみ。
「おい! 逃げんな! オニごっこじゃねぇんだぞ!」
「てめぇみたいな怪力女、オニ以外の何者でもねぇだろ!」
屋根を伝って逃げ回るバンディ。クリストフは痺れを切らして屋根に手をかけた。
「逃げ足ばっか速い盗賊と、オニごっこなんかしてられっか!」
バンディは後ろを振り返り、ぎょっと目を見開いた。屋根そのものが重力に反する勢いで迫っていたのだ。あまりの速さに避けきれず、屋根が激突して崩れる木屑と共にバンディは地面へと落ちていった。クリストフがバンディが落ちた路地を見下ろすと、そこには屋根の原型を留めぬ角材の山があった。その山の一部が、ガタゴトと動き出す。
「やってくれるじゃねぇか……」
瓦礫の間から這い出て、血を吐き出すバンディ。そのにやけ面を、クリストフは憎々しそうに睨みつける。
「本当に、いい女だ。強くて、勝気で、おまけに褐色のその身体! 最高だ!」
バンディは瓦礫の山から飛び上がり、近くの屋根に上がった。そして、ナイフを逆手に持ち、構えた。
「俺が神になったらまたお前を選んでやるよ。神と寝所を共にする、美女としてな」
「お前と寝るくらいなら死んだ方がマシだ」
「そういう女を抱くのが、堪らなく楽しいんだろうが!」
バンディはナイフを手にクリストフのいる屋根へと飛び移る。そして、勢いのままその懐へと突っ込んだ。あまりの速さに思わず身を引くクリストフ。鉄扇を開いてナイフを防ごうとする。が、
「後ろ姿もそそるじゃねぇか」
クリストフが振り返ると、ナイフを振り上げたバンディがいた。鉄扇によって作られた死角から、回り込まれたのだ。クリストフは後方へ身を捩って鉄扇を振るった。バンディは身を屈めてそれを避け、クリストフの両手首を掴んで押し倒した。屋根から足を滑らせて真っ逆さまに落ちる二人。クリストフは背中から地面に叩きつけられ、顔を歪めた。
「これくらいじゃ、痛くも痒くもねぇか」
クリストフに覆いかぶさったまま舌舐めずりをするバンディ。クリストフは少し咳き込んで、掴まれた両手を押し返す。
「痛いに決まってんだろ、クソが!」
クリストフが力一杯腕を振るうと、バンディはその力を利用して飛び上がりクリストフの元を離れた。
「柔よく豪を制す、ってな。思うように動く手足だかなんだか知らねぇが、そんなもんでこの俺をやろうなんて甘いんだよ」
馬鹿にするように両手をひらひらと振るバンディ。クリストフはそれを睨みながら立ち上がった。
「たかが盗賊が、言うじゃねぇか」
「まだ本気じゃないだろ? 遊んでやる。来いよ」
バンディがナイフの先を上下させてクリストフを挑発する。クリストフは、笑っていた。
「上等じゃねぇか小童が……後で後悔しても、知らねぇからな!」
クリストフは鉄扇を畳んで拳を握り、地面へと、振り下ろした。
大きな植物の大きな蕾。それは次第にもぞもぞと揺れ始めた。
「……やっぱり駄目か」
ダンテは眉を顰めて右手を地面へと翳す。すると、袖から緩く風が吹き、灰色の煙が湧き出した。それは馬の形をとって、ダンテを背に乗せ空へと駆け出す。馬の蹄からもやもやと尾を引く煙。それは植物を囲うように螺旋を描き、馬は蕾の真上に辿り着いた。ダンテは揺れる蕾をじっと見つめ、馬の鬣を撫でた。その瞬間、煙の馬はぐにゃりと歪んで形を変え、大きな煙の玉になった。
「……えい、」
玉の上で座り込むダンテが手をつくと、煙は消し飛び、中から巨大な鉄球が現れた。螺旋を描く煙から現れた鎖は鉄球へと繋がっている。鉄球は、空気を割いて蕾へと落下する。轟音と共に潰れる植物。抉れた土には赤い液体が滲み、くたりと横たわる葉や茎が散らばる。ダンテは鉄球の上に柔らかく着地し、とんとん、と、ノックするように表面を踏んだ。すると、ノックした場所に亀裂が入った。
「これでも駄目か」
ダンテはふわりと飛び上がる。軽過ぎるその身体は、風にさらわれるように高く、宙へ浮かんだ。その瞬間、亀裂が入ったところから鉄球が真っ二つに割れた。そこから飛び出してきたのは、大剣を振りかざすアダム。アダムは真上のダンテ目掛けて勢いよく飛び上がってきている。
「身体を巡りし大気の恵よ」
ダンテは、ふっと優しく息を吹く。その幼い吐息は口から漏れ出てすぐに逆巻き始め、吹きすさぶ風に変わった。アダムは大剣を振るい、その風圧で突風を薙ぎ飛ばした。驚いた顔をして、ダンテは慌てて魔法を繰り出そうとするが……目の前に、アダムが迫っていた。
「北の魔女、ダンテ!」
空中で身体を捻り、ダンテは紙一重で大剣を避ける。そして、両手をアダムに向けて袖から白い蛇の群を出した。蛇はアダムにまとわりつき、噛み付く。蛇の一部はダンテを地上へと下ろした。アダムは落下しながら大きく一回転し、蛇を一蹴する。そして、地に降り立ってダンテを見据える。
「毒も、効かないんだろうね」
ダンテの袖へと戻ってゆく白蛇。アダムは煙を出す傷を掻きながら言った。
「どうせ身体の中で消え去ってしまう。俺を殺せるのは、あの吸血鬼だけだ」
「吸血鬼?」
「お前だろ? あの吸血鬼を魔界に送り、命拾いさせた張本人は」
アダムの言葉に、ダンテははっと息を飲む。
「まさか、君、」
「そうだ。あの吸血鬼の呪いを受けたんだ」
ダンテは驚きに一歩引きながらも、強くアダムを見つめ返した。
「僕に恨みがあるって、そういうこと」
「……理解してもらえたようだな」
アダムに大剣を突きつけられ、ダンテはぐっと足に力を入れる。厄介な相手だ。吸血鬼ならまだしも、吸血鬼、"もどき"。魅了も受けず、吸血鬼にすらなりきれていない。その身体だけが呪われる、不死の生き物。
「この気持ち、わかるだろ?」
ダンテは意を決して、すっと、右手をアダムへ差し出した。
「……嘘、でしょ?」
地面を揺るがす轟音が響いたかと思うと、乾いた突風が二人の間を吹き抜ける。シドは泣きそうな顔をしてサイを見つめている。サイは、じっと無表情のまま。
「こんな嘘みたいな嘘は、口にできるもんじゃない」
「全然話が噛み合わない! だって、僕が生まれた時は、」
「それを全て繋ぎ合わせるのが、蘭丸の存在だ」
シドはサイの後ろで仮面を抑えている蘭丸を見た。蘭丸は、何も言わない。
「……俺達の出世には、蘭丸が大きく関わってる。そして、世界の全てはここで示される」
サイが静かにそう言うと、シドは震える声で言葉を絞り出した。
「お父さんは……誰、」
「……蘭丸の話では、業輪は過去と未来を映すらしい。そして、それを見るためにはカイザが必要なんだそうだ」
「カイザが?」
「運命の至るべき場所への門を、開く必要があるんだ」
シドは俯き、小さな左手で頭を抑えた。視界が歪む。息が荒くなる。どうして彼女が母親なのか。父は……誰なのか。
「……業輪を手にしたら、全てわかる。俺達の過去も、未来も」
サイはそう言って、シドに背を向けた。
「知りたくない」
シドの呟きに、サイは振り返る。
「もう、嫌だ! どうして僕達なの!」
泣き声にも似た叫び。サイは悲しそうな目をして、それを耳にする。
「僕はカイザと……家族と一緒にいたいだけなのに! それだけなのに、どうして……!」
「……聖母が言っていた」
俯くシドに、サイは言った。
「意味なんてない。神の気まぐれに躍らされたくなければ、生きて抗えと」
「……そんなに僕は、強くない」
「そうだな。でも、」
サイはシドに背を向け、蘭丸に肩を貸した。
「少なくとも、全てから逃げてきた俺よりは……強いだろう」
シドは目を見開き、サイを見つめる。サイは振り返り無表情で、しかし温かな眼差しで、シドを見つめ返す。シドの目は、涙が溢れそうな程に潤んでいた。シドが何かを口にしようとした、その時だった。
「上等じゃねぇか小童が……後悔しても、知らねぇからな!」
クリストフの拳が地面を殴りつけようとした寸前、雷鳴と共に空が激しく光った。拳を引っ込めて目を瞑るクリストフ。チカチカする視界の中バンディの姿を探すが、見当たらない。
「……消えた」
クリストフが空を見やると、シドとサイが残っていることころから黒い煙が上がっていた。クリストフは顔を顰めて屋根に飛び上がり、煙の方へと駆け出した。
「……いない」
光に目を眩まされた一瞬。その一瞬で、目の前のアダムが消えた。ダンテは警戒しつつ、キョロキョロと辺りを見渡す。すると、割れた鉄球の向こうで何やら煙が上がっていた。
「あの雷鳴……」
ダンテは力強く地面を踏んだ。すると、土を抉って石の馬が現れた。固い背に横座りするダンテ。馬は大きく跳ね上がり、鉄球の裏へと消えた。
パチパチと何かが弾ける音。焦げた匂い。目を瞑っていたシドは、ぐっと手を引っ張られた。
「シド!」
「……カイザ、」
残像がチラつく視界の中に飛び込んできたのは、心配そうな顔をしたカイザ。その後ろには、何やら頭を抑えるレオンもいた。シドはおどおどと、カイザの手を握り返した。
「カ、カイザ、僕、」
「大丈夫か! 怪我は!」
「……して、ない」
カイザは安堵した表情を浮かべ、サイへと視線を移した。サイは、じっとカイザを見つめたまま。
「何故、蘭丸とお前が一緒にいるんだ。バンディはどうした」
「……答える義理はない」
サイが言うと、蘭丸が前へと足を踏み出した。
「……カイザ、」
名を呼ばれ、思わず槍を構えるカイザ。その腕にシドが飛びついた。
「シド、」
「やめて! まだ……まだ、」
聞きたいことがある、と言おうとして、やめた。これ以上、何を聞こうというのか。聞いて、どうしようというのか。俯く少年に疑問を抱くカイザ。すると、蘭丸が言った。
「業輪は、滅さねばならない」
「……」
「業輪が、お前を……俺を、」
蘭丸は頭を抑え、蹲る。サイは蘭丸を抱えると、その足元から白い煙を吹き上げた。それを見てカイザが駆け出すが、サイは空へと飛び上がり、羽をはためかせて去って行った。
「……」
「カイザ、」
空を見上げていたカイザは、ふとシドへと視線を落とす。シドは、潤んだ瞳でカイザを見上げ、言った。
「僕、カイザと一緒にいられないかもしれない」
「……何だ、急に」
「僕は……僕達は、」
カイザがしゃがみ込んでシドの肩に手を置いた。
「もう、わからないよ」
シドが、顔を歪めて泣き出した。涙と共に、眼帯から溢れる黒い煙。
「カイザ様!」
レオンが剣を手に駆け寄るのが視界に映ったが、すぐ、闇に飲まれた。カイザは立ち上がり、暗がりの中頭を抑える。痛い、苦しい。目の前には砂嵐のように次々と映像が浮かび上がった。目を抉られ、腕を刺され、耳を切られて首を切られて腹を抉られ……その瞬間瞬間に、身体に激痛が走る。目を抑え荒く息をしていると、瞑っているはずの視界にサイの顔が映し出された。
ーー…一人は嫌だーー
ーーカイザに嫌われたくないーー
『俺達の、母親は……』
ーー何も知りたくないーー
ーー兄さん、助けてーー
ーー助けてーー
ーーカイザ、何があっても僕のこと……ーー
『…エドガーだ』
ーー……家族だって、思ってくれる?ーー
レオンの剣で闇から開放された時、カイザは、涙を流しながらぐったりとするシドを抱きしめていた。カイザもまた、涙を流しながら。
「カイザ!」
声に反応したのは、レオンだけ。剣を片手に振り返ると、鉄扇を持ったクリストフが駆け寄ってきていた。
「あ! 何でいるの?!」
反対からは、馬に跨るダンテが来ていた。レオンは静かに剣を収めてカイザを見た。クリストフはレオンの隣で、石になったように動かない二人を見つめた。ダンテも何が起きたのかわかっておらず、ただ見つめていた。
「何が、あったんだ」
「……わからない」
クリストフの問に、消えそうな声で答えるレオン。クリストフとダンテは顔を見合わせ、クリストフがカイザの肩を叩いた。
「カイザ、」
「……俺は、保護者失格だ」
カイザは肩を震わせながらもシドを抱き上げ、立ち上がった。
「シドをこんな辛い目に合わせてきてたなんて……わかっていたつもりでも、全然、わかっていなかった」
「……」
「俺はこいつに頼りきりで、こいつの笑顔を間に受けて。どんなに悩んでいたのか、理解していなかった」
クリストフは困ったように二人を見て、言った。
「親でも、子供の全てを理解することなんてできない。それでも一緒にいてやるのが……親ってもんだ」
カイザは、眠るシドをぎゅっと抱きしめる。そして、暗闇で見たこと、感じたことを思い返した。
ーー俺達の、母親は……ーー
嫌な予感が的中してしまった時の絶望。聞いてもなお信じられない自分。そして、何もかもが変わってしまうかもしれないという、不安。幼いシドには、重過ぎた。
ーー僕も、カイザが背負ってるものを背負いたいんだ!ーー
そう言わなくてはならなかったのは自分だったのだと……カイザは深く後悔する。そして、自分の目に映る全てが繋がっているのだと改めて実感する。ミハエルの実子である少年は、ここへ至るために堕天したのだと。母と由縁のある、この場所へ。