145.信じる者は救われる
町の様子がよく伺える、森の一角。蘭丸が来ると思われる方向をずっと見つめるサイ。この町は、風が強い。木の上で羽休めをするサイは、大きく溜息をつく。審判の日も近い。赤い空の下、これからどうなるのか……いや、これから、どうしてゆくべきか、考えていた。母は、父は、弟は……そして、
ーー俺が頂点に立った時、お前は俺の隣に立つんだ。秘密を共有する、共犯者としてーー
サイは首巻を握り締め、それに顔を埋めた。弟を追い詰め、バンディを裏切り、蘭丸の言う真実に縋って、自分は何処へ行こうというのか。全てを知ったとして、生き残ったとして、審判の日の向こう側でどう生きてゆけばいいのか。これまで、自分の未来なんて想像もしたこともなかった。目の前にちらつく得も言われぬ不安や怒りを振り払うのに精一杯だった。今更になって、先の見えない未来が不安でならない。瞼すら、開いていられない。風が掠める黒い睫毛が艶めく瞼を、サイはゆっくりと、閉じた。その時、
「!」
森の奥で、大きな衝撃音がした。木が倒れるような轟音。それは次第に、町に近づいてくる。サイは腰の剣を手に、片足を枝にかけて身構えた。すると、二つの人影が民家の近く、畑の畦道に出てきた。
「マスター、」
大剣を振りかざす、アダム。そして、
「……バンディ」
見るからに重そうな剣筋を、ナイフ一本でかわしてゆくバンディ。包帯も乱れ、その表情は苦しげだ。畑の土を抉りながら、バンディは逃げるように町へ駆け込む。アダムはそれを追い、入口のアーチを切り崩した。砂埃に消える二人。サイは呆然と、それを見つめるばかり。
ーーその時がきたら、俺はお前を迎えに行くーー
サイは、剣を片手にゆっくりと立ち上がる。
ーーそれまで死ぬなよーー
勢いよく木から飛び降りるサイ。身体は白い煙に包まれ、地面に落下する直前に白い片翼が現れた。青い眼を光らせ、白い髪を靡かせ、サイは砂埃の中へと駆け込んでゆく。そして、
「バンディ!」
「!」
罅割れた民家の壁にバンディを追い詰めるアダム。その背中に向かって、サイは剣を振り下ろした。アダムは振り返り、それを大剣で弾き飛ばす。アダムは、体勢が崩れたサイを見て眉を顰めた。サイの切断された左腕から、腕のように白い煙が伸びていたのだ。それの先が五本に割れて、サイの腰にかけられたもう一本の剣を取る。そして、剣を突きつけてきた。アダムは大きく飛び上がり、民家の屋根に立った。
「……サイ」
アダムが見下ろす中、サイは心配そうな顔をしてよろめくバンディに肩を貸していた。バンディはさも苦しそうにしている。一太刀も浴びていないのに、何故。アダムが訝しげに見ていると、俯き加減だったバンディと目が合った。バンディはサイに寄りかかって、にやりと笑う。
ーーだったら、化物には化物を当てるしかねぇようだーー
アダムは舌打ちをして大剣を屋根に叩きつけた。すると、サイが煙の左腕を掲げ、アダムに剣を向けた。アダムはサイを睨み、言った。
「お前は……どこまでも馬鹿な奴だな! そいつに騙されているとも知らずに!」
サイはアダムを冷たく見据えたまま。バンディはその様子を見て、肩を震わせた。
「本当に、馬鹿な奴だよ。俺を裏切っておきながら、こうして助けに来るんだもんな」
久しく聞く、バンディの喉元で怪しく響く意地悪い笑い声。サイは横目にバンディを見て、すぐその視線をアダムに戻した。
「誰も信じられないくせに俺が来ると信じてくれたお前も……馬鹿だよ」
サイの言葉に、バンディの笑いがぴたりと止まる。アダムは二人を見下ろしたまま、言った。
「バンディ、お前がサイをどうするかはもう知ったこっちゃないが、協力関係が決裂した今、俺はお前達を殺す。わかってるだろうな」
「……殺せるのか?」
バンディの低い声がした。
「俺は、鍵戦争を制して神になる男だ。そして、俺の隣に今いるのは……」
サイの足元から、白い煙が溢れ出す。それは二人を包み込み、大きく肥大してゆく。アダムが表情を変えてその場を離れようとした瞬間、
「神に仕える、天使なんだよ」
目の前は白い光に包まれた。激しい爆発音と共に、連なる民家が砂のように崩れ去ってゆく。赤い空が一瞬、白く染まった。
「聖杯以外、何も見当たらないな」
祭壇を撫でながら、カイザが呟く。壁の方を見ていたレオンは、ふうと小さく息を吐き出して天井を見上げた。
「そのようですね」
カイザが聖杯を持ち上げてみるが、埃が舞うだけで何もない。カイザは諦めたように聖杯を置き、振り返る。そこには、ランプを持ったマルクスが立っていた。
「他に、何か心当たりはないか」
「ここにないとしたら、屋敷……でしょうか」
「屋敷の、何処だ」
「私は管理していたまでで、屋敷内のことまでは……」
マルクスが淡々とそう言うと、カイザはレオンに向かって声をかけた。
「レオン、一度戻るぞ」
「はい」
三人は地下道を抜けて、広間の暖炉から屋敷に戻った。マルクスは暖炉の奥の壁を引き下げ、鍵をかける。その間に、カイザはきょろきょろと室内を見渡した。
「……シドとダンテがいないな」
「町にでも遊びに行ったのでしょうか」
「ダンテがいるなら、安心か?」
「私に聞かれましても……」
レオンが困った顔をしてカイザと話していると、マルクスが火の消えたランプをテーブルに置いて歩み寄ってきた。
「クリストフ様は書庫に行くとおっしゃっておりましたが」
「書庫か。何か見つけてくれてるといいんだが」
「では、私は一度家に戻って後見人の記録を探して参りますので」
「わかった」
カイザはそう言って、広間を出た。それに続くレオン。二人は二階に上がり、クリストフがいるという書庫に入った。
「……いない」
そこにいたのは、開いた窓の近くで椅子に腰掛けるミハエルだけ。締め切られたカーテンが、風に靡いていた。
「ミハエルを残して何処に行ったんだ、あいつ」
カイザは呆れ顔で部屋に入り、ソファーに置きっぱなしにされた絵本を手に取った。
「ヴィエラ神話……ですね」
「なんだ、レオンも絵本なんて読むのか」
「いえ、幼い頃はよく読み聞かせられておりましたので」
カイザの隣に立って、本を見下ろすレオン。カイザはぱらぱらと、ページを捲ってみた。そして、あるページで手を止める。
「さすがに、絵本なんかに三連星のことまでは書いてないよな」
「神殿に関する話は守護者の家系でしか言い伝えられていなかったようなので……書いてはいないと思います」
「二つの神話を読み解いてしまった今、この本ももう用無しか」
絵本の、最後のページ。真っ黒な紙面に、金色の文字が書き込まれている。暗闇以外、何もない。
「…絵本の中じゃ、運命の至るべき場所もこざっぱりしてるな」
「ええ。子供ながらに、後味の悪さを感じたものです」
カイザは本を閉じて、ソファーに置いた。そして、ミハエルを抱きかかえた。
「俺がきっと、照らしてみせる」
レオンは絵本に向けていた視線をカイザに移した。抱きかかえたミハエルを見つめるカイザ。窓から入り込んでくる風が金髪と黒髪を撫ぜり、ふわりと絡ませる。それはまるで、光と闇のようだった。
「……一先ず、クリストフに報告するか」
カイザは、レオンを見て優しく笑った。レオンはふと目を瞑り、「はい」とだけ、返事をした。
すっかり空は赤い色に戻ってしまった。赤よりなら、白の方がまだ目に優しい。そんなことを思いながら、少女は前に一列に並んだ二つの小さい頭を見た。
「ダンテ、何か映ったか」
「まだ……煙が多くてよく見えない。人影がちらちら見えるけど……」
白蛇の先頭に乗るダンテは、手のひらに収まる水晶を覗き込んでいた。ダンテの後ろに座っているシドは、自分を抱くように蛇に跨るクリストフを見た。
「サイ……今は蘭丸と一緒にいるって言ってたんだ」
「蘭丸?」
「昨晩、サイに会って……聞いた」
フードを抑え、伏し目がちに呟くシド。クリストフは困ったような顔をして溜息をつき、シドの頭を撫でた。
「そうか。じゃあ、蘭丸がいるかもしれないんだな」
「…バンディの名前を呼んでたけど、蘭丸がいるかどうかは、」
「わかったよ。お前は、お前のしたいようにしろ。守りたいものを守れ。カイザもあたしも、誰もお前の選んだ道にケチつけたりなんかしねぇから」
シドは暫しクリストフを見つめたかと思うと、弱気に笑って見せた。クリストフは、強気な笑をシドに向ける。
「森を抜けるよ!」
ダンテの声に、二人は前を見やる。勢いよく森を駆け抜けると、荒れた畑に出た。誰かが踏み荒らしたような、何かが這いずったような跡は町の崩れたアーチへと一直線に繋がっている。蛇はその跡を辿るように土を這い、煙が立ち込める町へと突っ込んだ。民家があったであろう土の跡、人々の悲鳴。真っ白な煙の中で、町人達が逃げ惑う。
「シド!」
ダンテに名を呼ばれ、シドは慌てて辺りの気配を探る。爆煙で匂いがしない。目も見えない。悲鳴で何の音も掴めない。シドは難しい顔をして、目を閉じた。
ーー視覚じゃないなら、何であなたはわたくしを捉えるのかしらーー
両目を失っていた頃の、あの感覚。シドの体に、ひしひしと周囲の空気が伝わってくる。恐怖、驚き、困惑、心配……突然の爆発に対する、人々の感情。その中に、見つけた。殺気と……これは、迷い?
「……いた。3人だ」
「何処?!」
「ずっと、真っ直ぐ」
シドの言葉に、蛇の動きが早くなる。体がぐっと後ろへ傾くシド。その身体を、クリストフが力強く支える。
「……」
シドはフードを抑えながら、後ろのクリストフを見た。少女はただ、真剣な表情で前を見つめるばかり。
ーーお前が誰の子供でも、あたし達は離れたりなんかしないーー
強く美しいこの少女が守ろうとするものは、シドにしてみたらあまりにも大きくて、漠然としていて……それが、世界というものなのだろうと幼いながらに思った。自分が守りたいのもはこんなにもわかりやすく、自分の迷いなどこんなにも小さい。少女がいるだけで不思議な安堵感に包まれ、そう、思えるのだ。煙の中、兄と対面することに不安を感じていた少年は真っ直ぐにその気配に向かって歩を進めている。前には守りたい美女を、後ろには自分を守ってくれる美女を、置いて。