142.二人が刻む焦げ跡を辿って
「もう、時間がありませんわよ」
古ぼけた城の窓際。
「待て。神殿が見つかるまでの辛抱だ」
そういうルイズは、大きな椅子に腰掛けたまま連なる山脈を見つめている。待てと諭し、忙しなく貧乏揺すりをしながら。ヨルダは椅子の後ろに立ち、ルイズの後頭部をぼんやりと見やる。
「神殿が見つからなければ、何もかもが終わってしまいます」
「……神殿が見つかったところで、世界は終わる。それもまた、運命だ」
落ち着いた声色とは裏腹に、ルイズの指は落ち着きなく肘掛を叩く。ルイズは大きく息を吐き出して、揺すっていた足を組んだ。
「で、準備は進んでいるのか」
「先程完了いたしました。いつでもいけます」
「……わかった。一度、アダム達を呼び戻せ」
「はい」
ヨルダがその場を去ろうと法衣を翻す。そして、足を止めた。ルイズはその気配に気付き、ふと顔をヨルダに向ける。
「どうした」
「……何か、きます!」
ヨルダがルイズの前に立ち、窓へと掌を向けた。その瞬間、窓の外が真っ赤な炎が広がった。ルイズは突然のことに言葉を失う。そして、椅子に腰掛けたまま、ヨルダの陰から前方を確認する。そこには、炎の中組み合う二つの黒い陰があった。陰が当たる部分から窓に罅が入り、ヨルダの顔が歪んでゆく。罅が入っているのは窓ではなく、ヨルダの結界だった。
「……ルイズ様、伏せてください!」
ヨルダは羽織を脱ぎ捨ててルイズに覆いかぶさった。すると、窓が勢いよく割れて炎と陰が部屋に飛び込んできた。ヨルダの羽織は空中で鋼鉄の板に変わり、二人を庇いながら赤く焼け付く。板の隙間から見えるのは、よろめく黒い陰を追うもう一つの陰。それは部屋の中を激しくぶつかりながら、反対の窓を破って去っていった。
「ウェパル、来なさい!」
ヨルダが床を叩くと、大きな黒い棺桶が現れた。蓋が開き、中から赤い目の人魚が飛び出す。人魚が水と共に部屋を舞い、火を消す中、ルイズは遠くに去ってゆく炎の尾を見つめていた。
「ルイズ様、お怪我は……」
「追うぞ」
まだ残火がちらつく部屋。ルイズは板から出て立ち上がる。
「追うって、神殿はいかがなさるのです」
「あいつが来た。やりあっていたのは火の精霊かもしれない」
ルイズの言葉に、まだ座り込んでいたヨルダの表情が固まる。
「じき神殿は開かれる。行くぞ、パリスへ」
ルイズが振り返った瞬間、その背後には薄く広がる滝が流れた。それはひたひたと床を満たして、炎を消し去ってゆく。ルイズから流れ込む、冷たい空気。ヨルダはその瞳に寒気を感じながらも、ゆっくりと立ち上がる。
「……クロムウェル家当主様の、仰せのままに」
ヨルダは胸に手を当てて、深々と頭を下げた。
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静けさが支配する山道の一角。終わりがくるまで、そこで侵入者を防ぐことだけを義務づけられた者がいた。帝国の残党も、伝説に縋って鍵を狙う輩も、その場所でただ、異国の天の使いによって物言わぬ屍と変えられていた。
「……北からの侵略者は」
「いません」
背高く伸びた木の上。男が聞くと、烏天狗の面をかぶる部下が返事をした。男は仮面を上げて、下方を見下ろした。
「ようやっと、諦めたか」
「南東に配備したアポカリプスからもなんの知らせも受けておりません。今のところ、帝国残党は退いたと考えてもよろしいかと」
「あとは鍵戦争のみ……か」
「……お頭、いえ、和様」
男の白い面が、赤い空の下で淡く紅づく。
「よろしいのですか。このまま、あの聖母のいう事を聞いていて」
「クリストフ様はヤヒコ様の数少ない友人だ。あの方の命に背くということは、ヤヒコ様に背くということだ」
「しかし……」
部下は和の方を見ることなく、和の視線を辿るばかり。
「我々の目的は終末を防ぐことにあらず。業輪を手にして、東の国へ持ち帰ること。聖母の手に渡ったならば、我々鬼の悲願は……」
和は眉を顰めて、ぎろりと男を睨んだ。男は言葉を飲み込み、じっとその黒い瞳を見つめる。
「…お前の頭の中はお花畑だな。もう、この世は業輪一つでは形すら保つことができなくなってるってのに」
「我々は詳しいことを聞かされておりませんので」
嫌味を含む男の言葉に、和は小さく溜息をついた。
「聞かせてやってもいいが、わからないだろ。お前らはカイザを見てない」
「カイザ?」
「美女達でも救うことが望まれない世界は今、そいつにかかってるんだよ」
和は腰の刀を触れる手に、力を込めた。
「光を操るそいつの行末に、全ては託された」
遠くを見つめて薄い笑みを浮かべる和。その脳裏には、帝国宮廷で空に向かって叫ぶカイザの姿があった。男はじっと和の横顔を眺めてはみるが、彼が何を見て何を感じたかなど、わかるはずもなかった。男が何かを問いかけようとした、その時、
「……ん?」
北東の空に、何やら二つの光が見える。それは空を旋回し、ぶつかっては火の粉を散らしているように見えた。和は目を細めて、その赤い光を見つめる。
「……和様、あれは」
「わからねぇ。人か?」
和が目を凝らしていると、一方の炎が木々の中へ沈んでいった。
「……おい、見に行け」
「承知」
男が飛び上がろうと足に力を入れた瞬間、光が落下した場所が激しく爆発した。森の中、点々と爆発しては爆炎が舞い上がる。それは、勢いをつけて和へと近づいていた。
「和様! ここは我々に!」
男が刀を抜いて和の前に立つが、和は男の肩を掴んで前方を睨むばかり。
「何だ、何が来た!」
「和様! 早くお逃げくださ……!」
男が和に振り返った時、大きな炎の柱が空へと伸びた。熱風に煽られ、赤い光に目を奪われる二人。炎の柱は花が咲くようにゆっくりと裂けて、呆然とする二人を飲み込むように……森を覆い尽くす。
焦げた臭いと共に、黒い煙が立ち上る。和が咳き込みながらよろよろと立ち上がると、近くには男の焼け焦げた死体があった。和はじっとそれを見つめたかと思うと、火傷ができた顔で森であったであろう焼け野原を見る。黒い炭だけが無残に広がる、煙に塗れた淀んだ景色。
「……一体、何が、」
静かなそこで、一つの足音がした。ぱきぱきと、軽く炭を踏み砕く音。和がその方向へ目をやると、煙の中に人影が浮かび上がってきた。和は刀を抜いて、無表情で問いかける。
「お前か? 俺の家臣を焦げ炭にしてくれたのは」
問いかける和の手は、震えている。しかし、煙の間から現れた人物を見てその震えがピタリと止まる。
「……お前、」
現れたのは、自分達と色違いの仮面をかぶる男。
「その、面は……!」
驚きに漏れる和の声。それを聞いて、地面を這っていた男は顔を上げた。額から血が出ているのか、仮面の下から首を伝って血が滴り、袴もボロボロだ。刀を持つ右腕を左腕で抑えながら、男はよろよろと歩みを進める。
「何で……何でイトサマの伴侶がここにいるんだよ!」
和が刀を逆手に、男を指差す。男は黙り込み、何も言わない。ただ、重い足取りで歩く。
「答えろ! その面はイトサマの伴侶が賜る面! 何故、お前がその面を持ってる! 何者なんだ、お前は!」
男の足が、止まる。和は思わず刀を構えた。少しずつ荒くなる息を整えながら、和は男を睨む。男はじっと和を見つめ、言った。
「物語の……結末は、変えねばならない」
「……」
「業輪を滅して、運命の至るべき場所への門を開かねば……世界は」
和は歯を食いしばって、さらにきつく男を睨む。
「業輪さえ無くなれば……運命の至るべき場所さえ開ければ……私は、」
男が一歩踏み出した。
「俺は、」
男が頭を抑え、俯いた。それを見て和が勢いよく踏み出した。黒い仮面に向かって和の刀が振り下ろされる。
「お前が消えれば、世界は救われるんだよ!」
もう一人の男の声に、和ははっと顔を向ける。赤い空がぼんやりと見える煙の中には、拳に炎を纏った男が一人。黒い髪を靡かせ、緑の目を光らせ、男は拳を仮面の男に向かって振るった。
「まだ……生きてたか」
仮面の男は和の刀を受けた。和が瞬きをした次の瞬間、目の前にいた男が消えた。そして、空の高見で爆破音がした。顔をあげると、そこで男二人が激しくぶつかり合っている。
「何が、起こった」
和は空振った刀を見て、その視線を空に移す。すると、仮面の男が男の首元に刀を突き刺した。空に散る炎と、男の血。微かに聞こえる、話し声。
「私は真実を、掴まねばならない。それが、神より授かった使命だ」
「ほざけ……俺は執筆者として、伝承者の誤ちを正さなきゃなんねえんだよ」
刀を深く飲み込んだ傷口が、火を吹いた。
「てめぇが死ねば……乱入者を防げば……全ては」
「誤ちなど犯していない。私は運命に至るべき場所の鍵を導いた。あとは……業輪を滅して門を開くだけなのだ!」
男が刀を掴もうと手を伸ばした瞬間、仮面の男は刀を振り上げ、首から肩にかけてを切り上げた。噴き上がる血飛沫を浴び、呆然とする和。男を乗せていた炎が空に溶けて、その身は煙の中へと落下してゆく。仮面の男は肩で息をしながらそれを見つめ、そして……和を見下ろした。
「……生き残れたなら、また会おう。和、」
名を呼ばれ、和は目を見開いた。そこにいたのは、同じ仮面を持つ祖国の同志。何故、顔も知らない男に懐かしさを感じたのか……和には、わからない。
「……お前、」
和が口を開くと、男は罅割れた仮面を抑えて遠くの空へと去って行った。和は暫し立ち尽くし、考える。ここを離れては、パリスが余所者に侵略されかねない。しかし、それでも……
和は、傷ついた足で走り出していた。燃えた森を、死んだ仲間を横切って男を追う。まだ、自分はこの物語の全てを知ったわけではない。それを感じながら、パリスに向った者達の身を案じた。もうすぐ全てが終わってしまう……それだけを、察して。