139.女は世界と運命に翻弄されてきた
「確かな原因は未だわかっていないようですが……ロストスペルで溢れた世界が崩壊し、人々は荒れた大地で野生の動物にも似た生活をしておりました」
神の啓示より、前の話。クリストフは眉を顰めてマルクスを見つめている。
「土を耕せど、家畜を肥やせど、森を広げれど……何をしても、天の災いによって皆台無しにされてしまったそうです」
「天の災いとは、神の啓示のことか」
「いえ、"天災"、としか伝えられておりません。おそらく、天候に恵まれなかったのでしょう」
クリストフの問いに答えると、マルクスは持っていたカップを置いた。
「そんな不幸の渦中にいたある一家が、寒さに震えて一つの火を囲っていた時です。その火が急に少女に向かって語りかけたそうです。ここより西、死の海に緑豊かな大地はあると。縋れるものがあるなら縋りたい。そんな気持ちだったのでしょう。我々の先祖は少女しか聞いていない火の言葉を信じて大規模な移動を始めたのです。そして辿り着いたのがここ、パリスです。緑豊かで、水が溢れ、動物達が野を駆ける……荒廃した世界で唯一の楽園を、手にしたのです」
火の声を聞く少女。カイザは、咥えていた煙草を手に、言った。
「その少女というのは」
「巫女として、祀り上げられました」
マルクスの言葉に、クリストフはカイザの問いが指すものに勘付いた。
「その巫女がエドガーだってことか」
「……残念ながら、パリスに着いた後、火の神殿ができあがる前に少女は亡くなったそうです。エドガー様はその後の……巫女です」
沈んでゆくマルクスの声。カイザとクリストフが目を向けると、マルクスの無表情が、辛そうに歪んでいた。
「少女と語ったとされる火は消されることなくパリスまで運ばれました。少女が亡くなった後も、火の神殿が建てられ、その中で聖火として祀られていました」
マルクスは大きく息を吐き出し、話し続けた。シドは一瞬感じていた。彼の、畏怖を。
「少女が亡くなった後、少女の兄が神官となって神殿を守っておりました。そして彼は神殿にて聖火に降臨した火の精霊の声を聞きます。それからです。10年に一度、月が最も近くなる日に聖火より火の精霊が神託を述べるようになったのは」
俯き加減だった顔を上げたマルクス。しかし、その視線はまだカップに落とされたまま。
「その神託の内容こそ、この世界の始まりと終わり。執筆者が神殿へ世界の書をおさめ、神に選ばれし戦士が神殿で運命の至るべき場所への門を開くという、この世の螺旋を示すものでした。先祖達は神託を得るとともに、神殿を守るという使命を負ったのです。そして、その守護者として選ばれたのが……少女の兄でした」
レオンが言っていた、"記号"。それが今、一族によって守られてきた沈黙から解放される。
「火の精霊を祀る神殿として、パリス住民達はそれを信仰し、兄の血を引く守護者を崇めました。生活もパリスの恵まれた環境で安定していき、人々は平和を手にしたと聞きます。しかし、それも一時のことでした」
マルクスはゆっくりと一度瞬きをして、言った。
「大地に、火の雨が降り注いだのです」
神の啓示。500年前に世界を襲った天災。マルクスの表情が、みるみる歪んでゆく。
「その後……神殿跡に一人生き残っていたエドガー様を……我々は」
マルクスが額に手を当て、俯く。カイザは呼吸を止め、じっと彼を見つめて次の言葉を待った。彼らは、ミハエルをどうしたというのか。
「待て」
そこに、口を挟んだのはクリストフだった。
「パリスの昔話を知っているのはお前だけか」
「はい。わけあって、後見人を含む神官の一族だけがそれを語り継ぐことを義務付けられました」
「"わけ"とは」
「……帝国の、侵略です」
神話にも、建国書にも記されていない、神の啓示より遥か昔から言葉だけで繋がれてきた昔話。帝国と、世界の秘密。
「帝国は我々が授かった神託を目当てに侵略してきました。しかし、神託を授かるための神殿は神の啓示によって消え去っていて……帝国は、巫女としてパリスに置いていたエドガー様を信仰の対象としたのです」
マルクスは、がっくりと頭を垂れて言った。
「我々はエドガー様を無き神殿の代わりに祀り上げた揚句、帝国に売ったのです」
カイザは焦点の合わない視線をテーブルに這わせた。白いクロス。その細やかなレースの目さえ、ぼんやりと震えて見える。
ーー…帝国の言う啓示ってのは、ロストスペルを廃して世界の均衡を維持するってやつだろーー
満月の夜、ゼノフを出てからルージュと交した言葉を思い出していた。帝国が解釈した神の啓示……それを、提示したのは。
「エドガー様は、帝国が神より授かった"天使"として崇められ……今より120年前まで、帝国に神託を与え続けました。ロストスペルは廃止し、発展を抑制すること。それによって、永遠の時を紡ぐ平和な世を保たんと……」
大きな音がした。視線がテーブルに集中する。テーブルには、カイザの拳が置かれていた。シドは不安そうにミハエル越しにカイザを見る。怒り、じゃない。悲しみでもない。幼いシドにはまだ、カイザの心を理解することなどできなかった。行き場のない、やるせなさは。
「……ミハエルは一体、どれ程長い時間……この世に、一人で」
俯き加減のカイザの表情は伺えない。クリストフとダンテは目を見合わせた。そして、クリストフが言った。
「エドガーがいつ生まれたのか、あたし達は知らない。ただ……神の啓示があったのは今から500年前で、あたし達美女が集められた最初の宴が120年前。その間約380年を、神に不老不死の身体を授かりもせずにエドガーは生きていたということになる」
少女の言葉に、カイザの拳がゆっくりと緩んでゆく。マルクスはカイザを見ながら、言った。
「それに関しては……火の雨の中で生き残った死から一番遠い巫女だとしか言い伝えられていません」
「まあ、エドガーに関しては神の奇跡とでもなんとでも言えよう。これまでもエドガーは不思議な縁でこの鍵戦争を繋いできたんだからな。長生きしていたことくらい、今更驚きもしない。それより、」
少女は膝に両肘をつき、マルクスを横目に見た。
「最初の宴があるまでエドガーは帝国に祀られていたとして……その後、どうなったんだ」
「……わかりません。帝国はパリスに新たな神殿を立ててそこにエドガー様を置いていましたが、120年前、エドガー様は突如姿を消してしまわれたのです。それ以来、パリスにも、帝国にも、お戻りになることはありませんでした」
マルクスがそう言うと、カイザは大きく息を吐き出して背もたれに寄りかかった。そして、隣に置いたミハエルを見る。白い布に包まれた、彼女。
ーーあなたはカイザなの?--
クリストフから聞いていた、ミハエルの落書き。彼女はきっと、"カイザ"を待っていた。120年前に神の寵愛を受けたことをきっかけに巫女としての自分を捨てて……一人、あの静かな墓地で。
「エドガー様のことは帝国でも重要機密とされていました。それを知っている我々は、25年前のゼノフ防衛戦まで迫害を受け続けていたのです」
そこまで、繋がっているのか。カイザの左腕には、ブラックメリーのアーマー。パリスの始まりが、神の啓示が、ミハエルが、マスターが……今日というこの日まで、深く関わってきている。
「パリスは迫害を受けながらも歴史と信仰を守ろうとしました。そして生まれたのが、"後見人"とヴィエラ神話です。我々後見人がパリスの歴史を口伝えでのみ守り、火の精霊より受けていた神託をヴィエラ神話として語り継いできたのです」
今日というこの日まで、神話も、歴史も。
「エドガー様を巫女として祀り上げ、神殿跡を守り続けた一族。最初に火の声を聞いた少女の兄の子孫が、レオン様です」
ここにいる全員が、長い歴史の終息地に今……立っている。
「レオン様がご両親より直接聞かされるはずの言葉を、特例として私が受けました」
「特例?」
クリストフが聞くと、マルクスはゆっくりと頷いた。
「町の信仰を集めていた当時の守護者であらせられたレオン様のお父様は、犠牲となって迫害からこの町を守ろうとしたのです。ご主人様はお亡くなりになる直前に、レオン様に伝えるべく言葉を私に預けてゆかれました」
静かに話を聞いていたレオン。その目はじっと、マルクスを見つめている。両親の話が出ても、その眼光は鈍らない。さらに鋭くなっているようにも思える。
「神殿は運命の至るべき場所へ続く唯一の道。目に見えなくとも、守護者の血が三連星へと神に選ばれし戦士を導く。そして戦士は、その証をもって門の鍵を開く」
レオンは、マルクスの言葉を聞いてふと瞼を閉じた。
「それが……父の言葉なのだな」
「はい」
「私が、聞かずに逃げた……真実なのだな」
「……」
マルクスは黙り込み、すっと先程と同じ無表情に変わる。そして、間を置いて言った。
「……信じておりました。いつか……必ず、お帰りになられると」
「……長いこと、待たせてしまったな」
レオンが小さく頭を下げると、マルクスの無表情が小さく痙攣し始めた。口角が歪み、顔の皺が細かく震える。マルクスが俯くと、その膝にぽたぽたと雫の跡がたった。ぽたぽたと、記号とは程遠い……人間の温かな涙を。