138.忠誠心は時として人を殺す
誰もが終わりを連想する赤い空の下。その町は世界の終末を無視したのどかな雰囲気に包まれていた。町ゆく人々も、畑を耕す農夫も、さも当たり前のように笑い合っている。赤い空で見るその風景は何処か不気味で、違和感がある。しかし、そんな町でも無邪気に駆けだす一人の少年がいた。
「何してるの?」
「何って、草刈りだ。鎌でこうして、畑の周りを綺麗にしてんだよ」
腰が曲がった老人は額の汗を拭いって顔を上げ、ぎょっとした。見慣れぬ少年が笑いながら鎌を持っているのだ、驚くのも仕方ない。少年は老人の近くにしゃがみ込み、見よう見真似で草を刈ってみる。
「……随分、立派な鎌だな。親御さんは行商人かなんかか?」
「ううん。盗賊ー」
黒い鎌で楽しそうに草を刈る少年を訝しげに見つめる老人。すると、背後から「おい!」という大声がした。驚いた老人が振り返ると、そこには褐色の肌をした少女が息を切らして立っていた。
「シド! 勝手に動きまわるんじゃねぇ! お守係もいないってのに!」
少女は荒々しく少年の首根っこを掴んで道へと運び出した。老人があぜ道の少し向こうを見ると、少女以外にも見知らぬ男が二人と、人形のような少女が歩いて来るではないか。老人はゆっくりと立ち上がり、空を見た。そして、言った。
「……あんたら、旅人かね」
少女はシドを下ろし、振り返る。
「ん? ああ。まあな」
「この空だもんなぁ。パリス神殿でも探しにきたんか」
「知ってんのか、爺さん」
老人は腰を叩きながら大きく溜息をついた。そして、その皺に埋もれた目を少女に向ける。
「あんたら、よくここまで辿り着いたと褒めてやりたいとこだが……無駄だ。この先には確かに神官様のお屋敷があるが、守護者様はおらん。諦めて南に帰れ。骨は故郷に埋める。それが人が国のためにできる最上の孝行ってもんだ」
少女は老人を真っ直ぐに見つめて黙りこくっていた。老人は再びしゃがみ込み、土に置いていた鎌を握る。この老人は、褐色の肌を見て少女がどういった生い立ちなのかをなんとなく察していた。少女にとっては、要らぬ世話なのだが。
「どうした」
追いついたカイザが聞くと、少女はレオンを見て、言った。
「爺さん、その守護者とやらが帰ってきたぞ」
少女の言葉に、老人の手が止まる。
「レオン・オックスフォード・オヴ・クロムウェル。パリスの神官は帝国の名誉騎士となって、故郷に骨を埋めに来た」
「……レオン・オックスフォード……?」
老人は皮だけの首を捻らせて、カイザとレオンを見る。そして、その震える視点は……
「レオン様……」
口布をした白髪の男を捕えた。老人は立ち上がり、よれた帽子を取って胸に当てる。
「さすが、信仰深き西の民。何十年経っても誰が守護者か区別がつくようだな」
少女が得意げに笑う横で、レオンは複雑そうな顔をして老人を見ていた。
「レオン様、お帰りになられたのでしたらすぐお屋敷へ」
「屋敷……か。しかし、私は今人を探している」
「後見人のマルクス様なら、ずっとオックスフォード家であなたを待っておられます」
老人がそう言って頭を下げると、レオンは視線を外して眉を顰めた。カイザはそんなレオンを横目に、黙っている。
「だ、そうだ。探す手間も省けたな」
「あ、ああ」
少女に言われ、レオンは地面から目を上げた。少女は踵を翻してあぜ道を歩き出す。少年は老人に向かって「じゃあね」と声をかけ、カイザの手を引いて走り出した。疲れた顔をしてその後を追うダンテ。レオンは、頭を下げたまま動かない老人を見て、言った。
「……私を、怨んでいないのか」
「何故です」
顔を上げた老人の目にはただ、疑問の色が浮かぶばかり。レオンはそれをじっと見つめ、いや、と声を漏らして一歩踏み出した。
「失礼する」
老人は歩き出すレオンの背中に向かって、深々と頭を下げる。彼らが見えなくなるまで、ずっと。
あぜ道を抜けて森の中の一本道を歩いていると、広い崖の上に出た。崖の向こうには広すぎる湖。冷たい風が絶壁をなぞり、赤い空へと吹き上がる。
「凄い! 綺麗ー!」
「あ、待って! 僕も行く!」
少年と、少女のような少年は森を抜けるなり絶壁へと駆け寄る。レオンは二人と同じくらいの時、自分はこの景色を綺麗だと思ったことはただの一度もなかった。むしろ、嫌悪感さえ抱いていた。何もない、死の海。自分が逃げ出した……殺風景なこの景色。レオンが遠い記憶を思い出していると、シドが突然立ち止まった。その背中にぶつかるダンテ。
「いたっ!」
シドは暫し茫然と立ち止まり、無言で鎌を手に取った。それを見て、全員が辺りを警戒し始める。少女は鉄扇を取り、カイザはナイフを抜き、レオンは剣の柄を握る。無音。いや、風の音が周囲を支配する。すると、シドがふと左側を向いた。ダンテがその視線を追うと、木々の間から大きな屋敷が見えた。
「……人だ」
ダンテの言葉に、全員の視線がその屋敷の入り口に集中する。大きな鉄柵の間、屋敷の入り口の前に一人の男が立っている。遠くてよく見えないが、白髪の……初老の男だ。一見、町民と変わらぬ風貌。男がぺこりと頭を下げると、シドが急に鎌を構えた。その様子を見て、カイザが言った。
「何だ、シド。人間じゃないのか」
「人間……だけど、」
シドは眉を顰めながら恐る恐る構えを解く。
「何か、あのおじさん……空気が違う」
遠くでは、男が顔を上げて玄関前に立っている。
「まるで、"物"みたい」
物。レオンは男を見つめ、思った。彼こそが後見人マルクスだと。語り継がれるだけの"守護者"となった自分の家族同様、あの男も既に"後見人"という記号になってしまっているのだと。レオンは剣から手を放し、言った。
「……警戒することはないだろう。彼が、マルクスだ」
レオンの言葉に、カイザとクリストフも武器を収める。シドも、男を睨むように見つめたまま鎌を腰にかけた。5人は何も言わずに歩き出し、屋敷へ向かう。鍵がかかっていない鉄柵の門を押し開き、5人は男に歩み寄る。農夫と変わらぬ衣服、白髪交じりの茶色い髪、深い皺が数本刻まれた顔。そして、胡散臭い程に穏やかな表情。微笑む、かと思いきや、男は無表情のまま頭を下げた。5人が足を止めると、男は言った。
「必ずお戻りになると、信じておりました」
低く抑揚のない声。ダンテとシドは訝しげに男を見つめている。
「さ、中へ」
男は玄関の扉を開け、誘う。薄暗い室内からひんやりとした空気が流れ出す。カイザがレオンを見ると、レオンは真っ直ぐにその扉の向こうを見つめていた。誰も動かない中、レオンはその足を踏み出した。男に案内され、応接間に通される。すっきりとした内装。森に囲まれて日当たりが悪いが、白い壁紙が蝋燭の明かりを反射して部屋を明るく見せる。大きな対面になったソファーがあり、それに座るよう促される。一方にダンテとクリストフ。一方にミハエルとカイザとシド、そしてレオン。男は、小さな丸椅子を持って来て全員の顔が見える位置に置いた。
「すぐ、お茶をお持ち致しますので」
「いらない」
男に向かって、クリストフがぴしゃりと言い放った。男は持って来た丸椅子から手を放し、腰を上げた。
「長旅でお疲れでしょう。甘い物でも食べてごゆっくり休まれた方が」
「だから、そんな時間は……!」
「甘い物って何?」
少女の言葉を遮ったのは、シドだ。男はその視線をシドに向けた。
「ちょうど、家内がクッキーを焼いて持って参りましたのでそれをお出ししようかと」
「クッキー! やったー!」
「ついでに灰皿も頼む」
喜ぶ少年の横で煙草を咥えるカイザが言った。少女は眉をひくつかせて二人を睨んでいる。男は「かしこまりました」とだけ言って応接間から出て行った。
「お前らな!」
少女がテーブルを拳で殴りつけ、怒鳴った。シドは知らんふりをして土のついた鎌の先を服で拭きながら笑っている。カイザは灰皿が来る前に煙草に火をつけ始めた。
「クッキー食いながらおしゃべりしてる暇はねぇんだよ! これから神殿探さなきゃならねぇってのに!」
「そうだけど……あの男から情報聞き出さなきゃならないんだろ? お茶しながらでも十分じゃないか。煙草吸いたかったし」
「僕もお腹減ってたし、ねー?」
シドは首を傾げてダンテに同意を求めた。ダンテは陣が描かれた紙きれを見つめて「うん」と適当な返事をしている。少女は大きく息を吐き出して背もたれに寄りかかった。そして、レオンを見る。レオンは少女と目が合うと、ふいっと壁にかけられた絵に視線を向けた。
「おい、本当にあの男がマルクスなのか」
「……おそらく」
「またおそらくか」
「なんとなく……昔見た面影はある」
レオンが言うと、カイザを挟んだ隣のシドが言った。
「あの人、前からあんな心の無い人だったの?」
シドの言葉にクリストフが片眉を上げた。
「何だそれ」
「だって、本当に物みたいなんだもん。今クリストフはイライラしてるし、カイザとダンテは疲れたーって感じだし、レオンは緊張してる」
レオンは横目にシドを睨む。しかし、シドは続けざまに言った。
「絶対みんな何かしらの空気をまとってるのに、あのおじさん何にもないんだもん」
「何にもないのに何で気配に気付けたんだよ」
「気配と空気は別だよ」
「わけがわからん」
クリストフはそう言って煙草入れを取りだした。レオンはふと瞼を閉じ、口を開く。
「……あの男は後見人。それ以外の何者でもない、もはや"後見人"という物体に過ぎないのだ」
カイザは口から煙を吐き出し、レオンを見た。
「オックスフォード家に仕える人形。あれは感情なんてものとは無縁の世界でこの家を見守るためだけに生きている。でなければ、22年も私の帰りを待つなんて馬鹿なこと、できないだろう」
馬鹿なこと、とレオンが言った時。ダンテが紙面から目を放した。そんな馬鹿なことを自分もしていたと、レオンは気付いていないのだろうか。隣で同じことを考えながら眉を顰める少女も黙りこんでいる。
「レオンだってカイザのこと15年も待ってたじゃん」
シドの言葉に、ダンテとクリストフの強張った顔が呆れ顔になる。不躾な少年の保護者はすかした顔をして煙草を吸っていた。
「……そうだ。私も、馬鹿な人形に過ぎない」
レオンはシドを見て、言った。
「私もマルクスと同じ、守護者というただの"記号"なのだ」
レオンの低い声を最後に、部屋は妙な静けさに包まれた。カイザは白い布に包まれたミハエルを見た。レオンの言葉の意味も……わからなくはない。
「……でも俺は、その記号が愛しい」
カイザの静かな呟きに、レオンの組んでいた手がぐっと強張る。
「歴史の一部になってゆく記号は確かに今、俺の目の前にあるんだ。ミハエルも、今はこのとおりだが……魂は、今もどこかで」
カイザは小さく笑って、首を傾げているシドを見た。
「マルクスは心がないわけでも、馬鹿なわけでもない。シドでも感じ取れない特別な感情に満たされているだけなんだ」
「特別な感情?」
「そうだ。お前だって、レオンから習ったろ?」
シドは小さく唸りながら、その視線をレオンに向けた。レオンは、無表情でテーブルに視線を落している。剣の鋭さを思わせる色の無い目からは……深く熱い、感謝の気持ちが溢れている。シドがレオンから目を離すと、微笑むカイザがそこにいた。
「騎士道ってのは、時としてそういうものなんだよ」
少年の中で思い起こされるレオンの言葉。そして、カイザに寄りそうレオンの姿。無駄な感情は抱かず、ただ主のために物体とも記号ともなりえる鋼の心。少年は、心がないと感じたマルクスは忠誠心に満たされていたのだと気付く。シドが頷くと、カイザはその頭を撫でた。
「お待たせいたしました」
シドがひょっこりと背もたれから頭を出して後ろを見ると、ワゴンを押すマルクスがいた。マルクスは慣れた手つきで茶を振る舞う。マルクスがクッキーが並べられた皿をテーブルに置くと、子供達が一気に群がった。それを見て一人苛立ったように貧乏揺すりをする少女。マルクスは急ぐ様子も見せず、ゆっくりと椅子に腰かけた。
「……どうぞ」
マルクスが促すように手を差し伸べた。クリストフはもう我慢の限界だったらしく、持っていた煙管をテーブルに叩きつけた。
「後見人、マルクス」
少女の声に、マルクスが視線を向けた。
「執筆者が綴りし世界の書13巻。それをおさめる神殿の守護者は、レオンで間違いないか」
「……あなた様は、レオン様とはどういったご関係で」
「あたしは聖母クリストフ。隣のチビは北の魔女ダンテだ」
少女に睨まれながら、マルクスはクッキーを貪るダンテを見た。クリストフはダンテの後ろ頭を叩いた。
「そうですか。あなた方は……神の寵愛を受けし美女であらせられましたか。して、」
マルクスの視線は、カイザに注がれる。カイザはマルクスが持ってきた灰皿に灰を落し、顔を上げた。
「……こちらが、"カイザ"様……ですか」
クリストフとカイザは目を合わし、マルクスの言う"カイザ"が"神に選ばれし戦士"を指しているのだろうと確認し合う。そして、少女が言った。
「火の精霊を祀るパリス神殿。どこにあるか……教えてもらおうか」
赤い茶はゆらゆらと白い湯気を立て、一室をほのかな匂いで満たしてゆく。マルクスはティーカップを手に取り、言った。
「私も、知りません」
その言葉に、そこにいる全員の表情が凍りつく。しかし、マルクスは視線を上げ、続けざまに言った。
「それを知るのは、神官の血を引く守護者のみでございます」
「その守護者が知らないって言ってんだぞ! お前がしゃべらなきゃ、神殿は……!」
「我々の言い伝えが正しければ、13巻の最期の日は今から4日後」
少女の言葉を遮り、マルクスは続けざまに言った。
「あなた方がどのような道を辿ってここまでいらしたのかは存じませんが……いいでしょう。レオン様もお戻りになられた。ヴィエラ神話とパリスの神殿について、語らせていただきます」
マルクスは一口茶を飲み、一息ついた。そして、カイザの横にある死体を見つめた。
「……神の啓示よりもずっと、昔の話にございます」