134.誰も知ることは許されない
用途も定かでない模型に、幾何学的な図形が描かれた額縁。医療器具より本が多い診療室。
「どうぞ」
イシドールに促され、カイザとクリストフは胡散臭い室内に足を踏み入れる。カイザはミハエルをベッドに寝かせ、クリストフと共にイシドールが用意した椅子に腰かける。イシドールは棚から一つのカルテを取り出して、二人と向かい合うようにデスクの席につく。そして、カルテを広げる。
「……で、フィオールは」
クリストフが低い声で言うと、イシドールはちらっと少女を見てカルテに視線を戻した。
「かなり危険な状態だ。暗示は効いているが、術がきれればすぐ混乱して情緒不安定になる傾向にある。記憶障害もそのつどひどくなる、と考えた方がいいだろう」
「そんなことはわかってんだよ! あいつは何処に行ったんだ!」
「クリストフ!」
カイザがクリストフを呼びとめる。少女は眉を顰め、黙った。イシドールは少女の怒声など知らんふりでカルテのページを捲り、言った。
「あれだけ重症だと催眠療法が一番てっとり早く精神回復に繋がると思ったのだが……出て行ってしまったからな。今ではどうすることもできない」
「精神回復? 魔法じゃどうにもならないと聞いたぞ」
クリストフが疑わしげな顔をして言った。
「俺は精神科医。魔法じゃどうにもならないことをどうにかするための医者だ」
イシドールの言葉に、カイザとクリストフは息を飲んだ。フィオールは、治る。
「絶対に連れ戻す! だから、フィオールを!」
カイザが身を乗り出してそう言うと、イシドールはカルテの間から一枚の紙を出し、回転椅子を回して身体ごと二人の方を向いた。クリストフの真剣な表情にも、期待の色が浮かんでいる。イシドールはそれを見つめ、言った。
「まあ、終末はさておき連れ戻してくれたなら最善は尽くす。カンパニーレの医者だからな」
「……じゃあ、すぐにでもあいつを探しに!」
「ただ、」
カイザの言葉を遮り、イシドールは手にしていた紙を差し出した。文字が並んだそれを受け取るクリストフ。カイザも紙面を覗き込んだ。
「お前達には知っておいてもらわなくてはならない。あいつは自責の念に苛まれながらもその身に特別な何かを背負っていた……ようだからな。何を意味しているのかは知らないが。あいつ自身でも知り得ない心の奥底に眠っていた叫びが、今回、あいつの背中を押してしまったようだ」
紙に書かれていたのは、二人の知らないフィオールについて。弟を殺してしまったこと、情報を売り買いしているうちに本当に大事な物が見えなくなりそうで不安であったこと、弟のように思っていたカイザが鍵戦争の核であること、クリストフとの将来、ユリヤを殺してしまったこと、世界を覆う脅威に対する恐れ、そして……
「なんだよ、これ」
「最も深いところに眠っていた、"あいつ"だ」
クリストフの驚嘆の呟きに、イシドールが淡白な声で答える。カイザはそれを見て、言葉を失っていた。
"13巻の執筆者"
クリストフは紙をびりびりと破り始めた。イシドールとカイザの目の前で、白い紙吹雪が舞う。クリストフは息を荒くして、椅子から立ち上がった。
「……イシドール、と言ったか」
俯いた少女がそう聞くと、イシドールは「はい」と答えた。少女は小さく笑う。
「…グレンの部下にしては、なかなか腕のいい医者みたいだな」
「そりゃあ、グレン先生の部下だからな。このくらいできて当然だ」
クリストフは踵を翻し、診療室を出て行った。茫然と椅子に座るカイザを見て、イシドールは言った。
「お前がカイザ……か」
カイザははっと顔を上げ、頷く。イシドールはカルテに視線を落とした。
「フィオールはかなり危険な状態だが、それでもお前達のことだけは忘れまいとしていた。記憶そのものを壊してしまおうとする、心に逆らってな」
「自分の心に……逆らう?」
「そう。人の精神とは複雑なもので、一人に一つ心臓がある、なんて単純な作りじゃない。二人、いや、時には幾数人もの"自分"をたった一つの心で抱え込む場合もある。お前だって自分を客観視するもう一人の自分にくらい、覚えがあるだろう」
これまで様々な心情変化に駆られてきたカイザは、嫌という程に覚えがあった。カイザが頷くと、イシドールは大きく息を吐き出し、カイザを見た。
「フィオールは今、自分を壊してしまおうとする自分と闘っている。たった一つの身体に収まる精神という器の中で……お前達を守るために」
膝に置いたカイザの手が、震える。イシドールはそれ見て、ふと、目を閉じた。
「"クリストフ"と"カイザ"……催眠中、あいつが最も多く口にした名前だ」
「ダンテ!」
突然背後から呼ばれ、シドとグレンに慰められていたダンテが驚いた顔をして振り返る。
「な、何。そんな怖い顔して……」
「オズマは!」
クリストフは睨むように辺りを見渡す。グレンとシドは首を傾げている。ダンテは涙を拭い、言った。
「もうベリオットに帰ったけど」
「帰った?! くそ……粘り倒してるかと思えばこんな時に限ってあっさりと……」
クリストフはぐしゃぐしゃと頭を掻き乱し、俯く。
「何かあったの?」
ダンテが聞くと、クリストフは大きく深呼吸をして顔を上げた。その視線は、地面に向けられたまま。
「……13巻の執筆者」
少女の呟きに、レオンの目がゆっくりと見開かれる。
「何? それ」
「フィオールが、その13巻の執筆者ってやつらしいんだよ」
シドとグレンは顔を見合わせている。ダンテは少し考え、顔を上げた。
「まさか、執筆者って、」
「13巻っていうくらいだ。世界の書のことだろ」
「ど、どういうこと! だからなんなの! え、わかんない!」
「落ち着け。とにかく、あたしがフィオールを探しに行くからお前はカイザを連れてパリスへ向かえ。わかったな」
少女はそう言って、足早に歩き出した。
「ま、待って……!」
止めようと手を伸ばすダンテ。少女は、足を止めた。
「何だ」
「……待て」
少女の手を掴んだのは、レオンだった。レオンとクリストフが見つめ合う。いや、睨み合っているようにも思える。それを混乱した表情で見つめるダンテと、不安そうにしているシドとグレン。沈黙の中、兵舎の扉からカイザが出て来た。
「カイザ」
シドが振り返り、その名を呼ぶ。浮かない顔をしたカイザが顔を上げて周囲を見渡し、状況を把握しようとする。が、何処かへ行こうとする少女をレオンが止めた……とまでしか、わかるはずもなく。すると、レオンが少女の手を掴んだまま、俯いた。
「まさか、本当に執筆者が現れるとは……思っていなかった」
レオンは少女の手を静かに放した。
「……レオン、お前は……何を知っているんだ」
カイザが聞くと、レオンは振り返った。いつもと変わらぬ無表情。真っ直ぐにカイザを見つめ、レオンは口布の裏で、言った。
「特に、何を知るわけではありません。むしろ私は……知ることを恐れて、逃げ出したのです」
レオンはカイザに向かって跪いた。そこにいる誰もが思った。レオンは何者なのか……と。そこに跪くのが全く知らない初対面の人物に思えてならなかったのだ。遍歴騎士から、クロムウェル家の近衛兵になり、帝国の名誉騎士にまで上り詰めたこの男は……
「……私は、レオン・オックスフォード。パリス神殿を守る……"守護者"と呼ばれる神官一族の生き残りでございます」
その男は、重たい口をようやく開いた。東禊神話にも、ヴィエラ神話にも記されていないそれを、語り聞かせるために。
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パリス神殿。今ではパリスの何処かにあるとしか知られていない幻の神殿。しかし、帝国の建国史よりその存在は明らかになっていた。
"西の死海を背にしたその神殿は燃え上がる炎の如く空を割る。火の精霊が舞い降りて神の御言葉をパリスの民に伝え、世界のあるべき姿と正しき道を人々に示す。神殿は神の啓示を以て、その役目を終える"
パリスの死海と面する場所は今、ただの絶壁となっている。
古い神話と死海を見下ろせる絶景以外何の取り柄も無い田舎町。そこで少年は育った。22年前、人種差別による迫害も収まった頃。10歳という若さで家を継いだある日、少年はこう、言い聞かされた。
「御先祖様が守り抜いた神殿を、今度はあなたが守るのです」
父も母も、その父と母も、そしてそのまた父と母も……神殿を守るために死んだという。
「執筆者が紡ぐ世界の書を納める神殿を、由緒正しき神官の血を以てあなた様が守るのです」
絶壁の何処かにあったという神殿。目に見えぬそれを、あたかもまだ存在するかのように後見人と名乗る男は"守れ"と言った。男は少年の遠い親戚にあたるそうだが、それすらはっきりしない。町から外れた大きな家に一人残され、血の繋がりも定かでない男に"守れ"と強いられる少年。跡形も無い神殿を、命を賭けて守れと……少年は。少年は男の話を聞いてすぐ、何も持たずに町を出た。10歳の身に圧し掛かる得体の知れない重圧。見えない"それ"のために命を失った自分の家族。少年もまた、語り継がれるだけの人とは違う何処か記号めいた"守護者"になってしまうような気がしてならなかった。何も守りたくない。何も知りたくない。確かにここに存在する自分がどうして消えた神殿のために人生を捧げなければならないのか。
考え無しに町を飛び出した少年は、一人の死にかけた兵士と出会う。行くあてのなかった少年はその兵士を助けたことで、少年兵としての道を歩むことになる。誰を守ることもない。誰に従うこともない。ただ、敵を倒せばいい。少年は戦士としての頭角を現し、いつしか"孤高の遍歴騎士"と呼ばれるまでになっていた。誰につくわけでもなく戦場を放浪し、17の春、彼はついにその出会いを迎える。
「君には銀がよく似合う。綺麗だ」
雇用主の屋敷の中庭で、神に選ばれた子と出会う。何かを守るために生まれた彼は、その本能には抗えなかった。彼は少年に跪き、囁かに忠誠を誓う。"神官の一族"としてではなく、"騎士"として守りたいものができた。それは目に見えて美しく、眩しい。これこそが自分の生きる道なのだと……彼は、思った。
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赤い空の下。レオンの過去を聞いてカイザは立ち尽くしていた。
ーー鍵戦争などに関わってはなりませんーー
レオンは、全て知っていたのだろうか。
「……申し訳ございません、カイザ様」
レオンは跪いたまま、深く頭を下げる。クリストフはレオンに歩み寄り、肩を掴みあげて無理矢理レオンを立ち上がらせた。
「お前が"守護者"なのか」
「……おそらく」
「"おそらく"じゃねぇだろ! はっきりしろよ!」
「何分、私は逃げ出した身だ」
少女はレオンは突き放し、表情一つ変えようとしないレオンを睨んだ。
「……だから、ヨルダはお前を殺そうとはしなかったのか」
カイザの呟きにレオンと少女は振り向く。カイザは頭に手を当て、何かを思い返すように視線を地面に泳がせている。レオンは眉を顰め、俯く。
「はい。私がパリスの出身だと知っていたようです」
「神殿の在処を知るためには、お前が必要なんだな」
「……はい」
「待て」
カイザとレオンの会話を遮る少女。少女はレオンを睨んだまま、言った。
「お前、家継いですぐに飛び出してきたなら神殿の場所も何も知らないだろう」
「パリスには、私の後見人がいる。あの者に聞けば……おそらく」
「またおそらくか」
「だが、執筆者は必ずパリス神殿へ現れる」
レオンの言葉に、クリストフは口を噤む。
「世界の書13巻を綴る執筆者は、世界の巻末に守護者が守る神殿に現れる」
守護者のレオン。執筆者のフィオール。何処まで伸びているのかもわからない、運命の糸。それを知るには運命の至るべき場所へ辿り着かねばならないのだが……残念ながら、ここにいる半数以上がそれを知ることなく戦いから退くことになる。美女の鍵を巡る聖戦に関わる男達の運命は、レオンの先祖同様に"記号"となって時を漂う。誰も知ることを許されない。よって、ここではこれ以上……語られない。