130.少年と大人になった少年を見て
晩餐会も、お開きに。窓のない塔の一室は、嫌がおうにも夢路へ誘い込もうとするかのように真っ暗だ。しかし、眠れない。暗闇に慣れてきた目は何を見るわけでもなく、黒い煙がもやもやと波打つ天井を這う。かといって、何を考えるわけでもない。考え出しては、また迷ってしまうような気がして……ただぼんやりと、懐かしい墓地の夜を思い浮かべていた。まん丸の月、黒い森の影、月光を反射する墓石……
「……カイザ、」
暗い部屋で、慎ましく囁かれた少年の声。カイザがふと隣のベッドを見ると、不安げな顔をしてシドがゆっくりと起き上がった。
「眠れない」
「……お前もか」
カイザは大きく溜息をつき、ベッドの半分を空けて布団を捲った。
「ほら、こっちこい」
シドはのそのそとベッドから降りてカイザのベッドに入りこんだ。カイザはシドの首元まで布団をかけ、近くのテーブルに置いてある煙草を手に取る。仰向けのまま煙草を咥え、火をつけた。暗闇の中に白い筋をつくる紫煙。シドの視線は、いつの間にかその煙を追っていた。
「……煙草っておいしい?」
「……いや、そんなに旨くないよ」
「じゃあなんで吸ってるの?」
「……落ち着くんだ」
「…そうなんだ。僕も吸いたいな」
「やめとけ。こればっかりはすすめない」
「何で?」
「身体に悪いから」
「でも落ち着くんでしょ?」
「……そうだけど」
暗闇に飛び交う、他愛のない話。淡々と言葉を交せばいつの間にか眠れるものかと思ったのだが。
「煙草は大人になってからだ」
「……僕、大人になれるのかな」
カイザは煙草を指に挟んだまま、天井を見つめる。答えられない。世界を閉じれば……もしかしたら。カイザは腕を伸ばしてテーブルの上の灰皿に煙草を置いた。そして、横を向いてシドを見る。シドは視線に気付き、ちらっとカイザを見た。暗闇に浮かぶ青い目。その深みに、たじろぐ。すると、突然カイザがベッドから出て扉へと歩き出した。シドは慌てて起き上がる。
「ど、何処に行くの?」
「すぐ戻るよ」
一人にしないで。そう言えないままに、シドは部屋を出て行くカイザの背中を見つめていた。寂しい音を立てて閉じる扉。一人残されたシドの左目はうるうると涙に湿ってゆく。シドがカイザに感じたのは、何かを決心したかのような……そんな、雰囲気。何をしに出て行ったのか。どうして出て行ったのか。シドが考えを巡らせていると、部屋の扉が開いた。
「お待たせ」
蝋燭が立った燭台を手にカイザが帰ってきた。カイザの手には、酒瓶と二つのグラスがあった。シドがぽかんとしていると、カイザはベッドに腰掛けてテーブルに燭台と二つのグラスを置いた。シドは布団から這い出てもそもそとカイザの背中に近付き、その手元を覗き見る。カイザは瓶のコルクを抜こうと力んでいた。
「…きっつ。クリストフか……思いっきりねじ込みやがって」
「……カイザ、お酒飲むの?」
「ん? うん」
回したり捻ったり。カイザが試行錯誤しているとコルクは小気味よい音を立てて抜けた。カイザは、はあ、と一息つきながらグラスに酒瓶を軽く傾け、底を湿らす程度の酒を注いだ。そして、酒瓶をシドに渡した。
「……何?」
「ちょっと憧れてたんだよな。シドに酌してもらうの」
カイザが優しく微笑むと、シドは驚いた顔をしながらも小さな手で酒瓶を持った。カイザは空のグラスを手に、シドと向かい合うように座る。カイザがグラスを差し出すと、シドは緊張した面持ちで酒を注ぎ始めた。蝋燭の火に照らされながら、とくとくとグラスに流れ込む酒。
「……ありがとう」
瓶の口を上げ、シドはほっと肩の力を抜いた。カイザはテーブルに置いていたグラスを手に取り、シドに差し出した。シドはそれをじっと見つめる。
「煙草は駄目だけど、酒なら少しは」
「……いいの?」
「ちょっと憧れてたんだよ。シドと酒飲むの」
カイザは悲しそうに笑う。シドは酒瓶をテーブルに置き、傍から見たら空にしか見えないグラスをそっと受け取る。これを飲まねば、もう自分が酒を口にする機会は無いのだろうかと……考えながら。
「シド、」
真剣な眼差しに真剣な声色で、カイザは言った。
「運命の至るべき場所へ行くということがどういうことかはっきりしない以上、お前が大人になれるかという問いには答えられない。でも、俺はやっぱりお前達と全てを乗り越えて、生きていきたいんだ。最後まで……それこそ、世界が終る最後の瞬間まで諦める気はない」
シドは軽いグラスを両手でぎゅうと包み込む。すると、カイザがふと自嘲めいた笑みを浮かべた。
「だから、どうせならお前との晩酌も審判の日の向こう側までとっておきたいんだが…………怖いんだ」
初めて聞くカイザの弱音。シドはこの時、カイザという一人の人間がここにいることを知る。いつか死ぬ存在でも、神に選ばれし戦士でもない。今生きているカイザという存在が、少年の目に映っていた。
「こんなんで神に選ばれし戦士だなんて、恥ずかしくて言えないよ」
「……」
「シド。お前にやったその酒はそんな弱い俺そのものだ。お前達を守りたいのに、守り抜くと言いきれない。死ぬことを恐れてこの世に未練を残さぬようにとやれることをやろうとする。俺の、弱さなんだ」
弱さ。本当に……そうなのだろうか。
「こんな俺の我儘に、付き合ってくれるか?」
シドはグラスに視線を落した。本当に、弱さなのだろうか。だとしたらどうして、こんな舐める程度の酒しか与えてくれないのか。シドは酒が入っているのかいないのかもわからぬグラスを見つめ、思った。世界と戦う彼は、自分自身とも戦っているのだ、と。
「……弱くなんかないよ」
グラスを持つシドの手が、小さく震える。
「カイザは弱くなんかない。僕の、方が……」
声を潤ませて辛そうに俯くシド。
「兄さんに殺されそうになって……悲しいのに、悲しくないふりをして……強がってカイザの役に立つだなんて言ったりしたけど……本当は……寂しかっただけなんだ。誰かと一緒にいたかっただけなんだ」
カイザは俯くシドの頭を優しく撫でた。蝋燭の光を反射する黒い艶やかな髪。今では可愛くて仕方のない少年。ずっと一緒にいたというのに、やっと少年の本音を聞けた気がする。カイザは少年の頭から手を離し、言った。
「じゃあ、二人で強くなるか」
シドがゆっくり顔を上げると、カイザは乾杯を誘うようにグラスを差し出していた。
「これは俺とシドだけの……秘密の誓いだ」
「秘密?」
「ああ。二人きりなんだから、秘密にした方が面白いだろ」
カイザの頬笑みに釣られ、シドの頬も自然と緩む。
「……僕、カイザについて来てよかった」
「俺も、あの時シドを捨てなくて本当によかったと思ってるよ」
シドは、ノーラクラウンの塔でカイザに邪魔だと言われた時のことを思い出して笑い出した。カイザはそんな少年を見つめて目を細める。そしてシドは、カイザのグラスに自分のグラスを軽く、当てた。硝子のぶつかる音が小さく響き、二人はそれぞれ酒を口にする。シドは舌に染みいるそれをじっくりと味わう。苦みが舌に広がったかと思うと、咽返るようなつんとした匂いが鼻の穴を抜ける。初めての酒は、喉、食堂、胃を順に熱くして、幼い身体に溶けた。
「感想は?」
カイザが首を傾げて聞くと、シドはにっこりと笑い、言った。
「まずい」
「だろうな」
カイザはグラスに半分程残った酒を一気に飲み干し、テーブルに置いた。
「続きは大人になってからな」
「うん」
シドが大人になれるかという問いには答えられない……そう、言っておきながら。それでも遠い未来を夢見て、カイザは蝋燭の火を吹き消した。
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「ってことがあったんだよ」
「……秘密なんじゃないのか?」
「クリストフとルージュに言うと怒られるから、自慢するならレオンにしろって」
泉の縁に腰掛けて足をぱたぱたさせるシド。その隣には色の無い目で少年を見下ろすレオンがいた。どうやらカイザは、初めての晩酌のことを誰かに言いたくて仕方なかった少年をレオンに押し付けたようだ。カイザの思惑どおり、レオンはまるで無関心。しかし、
「何故、カイザ様についていこうと思ったんだ」
それだけ、気になった。シドは何もわかっていなかった頃からカイザに懐いていた。まるで、その出会いをずっと待ちうけていたかのように。レオンが聞くと、シドは少し考え込み、言った。
「別に、カイザじゃなくても面白そうな人なら誰にでもついて行ったと思う。寂しかっただけだから」
予想の斜め上をいった返答。言葉を失うレオンを見て、シドは満面の笑みを浮かべた。
「それでもちゃんとカイザに出会えた。僕は運がいい」
ちゃんと。まるでその出会いをずっと待ちうけていたかのような言葉。レオンは、そうか、とだけ言って溜息をついた。シドのはっきりしない返答に、カイザとシドは出会うべくして出会ったのだろうと勝手な解釈をするレオン。すると、シドが首を傾げて言った。
「レオンはどうなの?」
「…私か?」
「うん。カイザの騎士なんでしょ? 何でカイザなの?」
子供に言って、わかるだろうか。いや、あの中庭での気持ちはなんと言葉にしたらいいのだろう。レオンはシドを横目に見て、考える。誰かに忠誠を尽くすということも、慈しむということもわからなかった過去の自分。だからこそ誰に仕えるわけでもなく、気兼ねなく剣を振るえる戦場に身を置いてきた。しかし、そんな彼を変えたのが当時5歳だったカイザ。孤高の遍歴騎士は、初めて人に跪いた。カイザがレオンに感じさせた"美しさ"は、彼に忠誠と慈愛の心を与えてくれた。
「…お前と同じだ」
「僕と?」
「そうだ。私もちゃんとカイザ様にお会いすることができた。運が良かったのだ」
長ったらしい過去の思い出を語ったところで、この少年にはわからないだろう。かといって、今言ったことが嘘だとも限らない。自分は"カイザ"との出会いを待っていた寂しい人間であったのだと……レオンは、シドを見て思ったのだ。シドは同じだということが嬉しかったのか、にこにこ笑っている。
「寂しくなくなってよかったね」
「……そうだな」
レオンはシドに微笑まれて、布の裏で小さく笑った。カイザがどうしてこの少年を息子のように可愛がるのかが、なんとなくわかった。真っ黒な髪に真っ黒な瞳をした少年は、これから何色にも染まる真っ白な心の持ち主である。そこから自分が学ばされることも、気付かされることもある。カイザはこの少年の未来のためにも戦おうとしているのだ。レオンは銀の首輪をなぞり、花壇を眺めた。花は花でしかなかったというのに、カイザが守ろうとしている世界にあるものだと思うと、ほんのり、色づいて見える。きっと、美しさは至る所にあったのだと……世界の終わりを目前に、騎士は気付く。
決して未成年飲酒を煽っているわけではございませんが、悪影響だとなればすぐに改稿いたしますのでご意見がございましたら何卒よろしくお願いいたします。