125.誓いの酒に酔いしれて
「クッキーが6枚ある。3人で分けたら一人何枚だ」
「皆殺せば僕が6枚食べられる」
「……」
持っていた冊子を膝に置き、無表情でシドを見つめるレオン。シドも無表情でレオンを見つめている。そんな二人を呆れたような目で見つめるカイザ。
「カイザ様、一体どのように育てればこのような殺人狂になるのです」
「言い訳したくはないが……俺のせいじゃないぞ」
時刻は深夜。ダンテが来るのを待っていた。しかし、いつまで経ってもクリストフ、ルージュ、チェシャまで部屋へ来る様子はない。忙しいのだろうか。カイザは煙草を灰皿の底でねじ消して、小さく溜息をつく。
「レオン、少しの間シドを見ててもらってもいいか」
「構いませんが……どちらへ?」
カイザはベッドから立ち上がり、言った。
「水晶の間」
「僕も行く!」
ベッドから飛び出そうとするシド。その腕を掴むレオン。シドはレオンを睨み、鎌を振り上げた。
「聞こえなかったのか? "シドを見ててもらってもいいか"とカイザ様は申されたのだ。大人しくここにいろ」
レオンは腰の剣を抜いてシドの鎌を難なく受け止める。シドは悔しそうな顔をして、カイザを見た。
「一人にしないで! 殺される!」
「…お前ならまだしも、レオンがそんなことするはずないだろう」
カイザが呆れ顔でそう言うと、シドは泣きそうな顔で叫ぶ。
「レオン怖い!」
「……」
無表情でシドを見つめるレオン。お前の方が怖い、と言いたそうだが……
「……その目が怖い!」
「出会い頭に私を殺そうとしたお前の方が怖い」
結局言った。大袈裟に見えるが、シドはその鋭い感覚でレオンの技量や威圧感を感じ取り、怯えているようだ。カイザは"あの"シドを震えあがらせるレオンにますますの信頼を寄せていた。安心して任せられる。
「頼んだぞ」
「はい」
「あー! 待ってー!」
助けを求める少年に手を振り、カイザは躊躇うことなく部屋を出た。背中に少年の泣き声にも似た叫びを聞きながら、蝋燭の火がぽつぽつと足元を照らす暗い廊下を歩く。上層に至ってはすっかり歩き慣れたものだ。伝説の煙の塔も今では我が家のように感じる。緩い弧を描く廊下を進み、黒い扉の前に立った。青い宝石が埋め込まれた扉。そこが、水晶の間だ。カイザは煌く宝石を見つめ、取っ手を握った。ゆっくり扉を開くと、水晶の妖しい輝きに照らされたミハエルが椅子に腰かけていた。ダンテが用意したのだろう、黒い法衣を着ている。カイザは部屋に足を踏み入れ、ミハエルに歩み寄る。
ーー……カイザ、--
腰を屈めてその顔を覗き見るが……やはり、瞼も唇も固く閉じて静寂を守り続ける。それが、死だ。カイザはそっとミハエルの頬を撫でた。冷たいが、柔らかい。クリストフの手入れもあってか肌は吸いつくようにしっとりとしているように感じる。まるで、生きているかのように。
ーー涙が似合う……美しいーー
ミハエルの唇を見つめ、アンナ寵妃の妖しい笑みを思い出す。唇が疼き、自ずとミハエルに顔が近づく。あの嫌悪感を、背徳感を……ミハエルに拭い去って欲しい。水晶の光に艶めく唇を見つめ、カイザはゆっくりと顔を寄せる。あと、少し。唇が重なり合うかと思われた瞬間、カイザはぐっと俯いて勢いよくミハエルを抱きしめた。どくどくと血が巡る心臓。熱くなる身体。妙な気恥ずかしさに、カイザは顔を赤くしてミハエルをきつく抱きしめる。
ーー死は全てを無に帰す。動かぬ喋らぬそんな物体は、まさしく死体。君の思うが儘にできるんだーー
ーーこんな生きたいい女を目の前にして、まだあの死体のほうがいいってのか?ーー
自分の異常性はわかっていた。しかし、それでもこの死体が愛おしい。口付すらまともにできない程、彼女を目の前にすると胸がはち切れんばかりに高鳴るのだ。審判の日を乗り越えて、平穏な日々を取り戻したとしてもきっと、目覚めぬ彼女を思い続ける。父のように、妹のように、報われぬ思いに身を焦がす。カイザは身体を離し、ミハエルの寝顔を見つめた。長い睫毛。キラキラと光を反射する艶やかな髪。滑らかな白い肌。そして、ほんのりと赤い唇。
「……」
カイザはミハエルから視線を反らし、背を向けて頭を掻く。審判の日も迫っている。戦士の証も、美女の鍵もこの手にある。神話を手繰り寄せ、いろんなことを乗り越えて……ここまできた。カイザは大きく深呼吸をして、ミハエルに向き直った。自分への褒美……いや、誓い。そうだ、誓いだ。審判の日を越え、鍵戦争を制するという誓いの口付。命を賭けた戦いの前に、愛しの女性に誓いを立てる。そう思えば……何も、躊躇うことなど。カイザはミハエルの肩に手を乗せ、再び顔を覗き込む。そして再び速まる鼓動。わかっていた。この躊躇いに理由なんかないと。彼女が好きだから、彼女が愛しいから……どうしても、恥じらってしまうのだと。それでも格好をつけようとする滑稽な自分の内情とも向かい合いながら、カイザはそっと……顔を、寄せた。
「何してんの?」
突然の声に、カイザはこれまでの人生で発したこともないであろう奇声を上げた。驚きに強張った顔のまま振り返ると、へらへら笑うオズマがいた。カイザはあたふたとミハエルの肩から手を離し、オズマに駆け寄った。
「ち、違うんだ! その、目にゴミ……は、入るわけないな! わかってる! 違うんだ! ミ、ミハエルの睫毛が長いから……ち、近くでよく見たくて!」
「へぇー、そうなんだ」
オズマは焦って弁解するカイザの肩を掴んで前を向かせた。そして、そのままミハエルの方へと押しやった。
「じゃあ、もっとちゃんと見れば? 勢いでキスしちゃっても事故だから。ね?」
カイザの頭を掴み、ミハエルの顔に向かって押し付けるオズマ。カイザは叫びとも悲鳴ともとれる声を上げてミハエルの肩を掴んだ。オズマが押すとともに、ミハエルも椅子ごと斜めに傾く。オズマはその様子を見て小さく溜息をつき、カイザの頭を離した。カイザは肩で息をしながらミハエルを座り直させ、真っ赤な顔でオズマを睨む。オズマは馬鹿にするように鼻で笑って、言った。
「……意気地なしだなぁ」
「悪魔かお前は!」
「悪魔だよ」
そうだった……カイザが呟き、頭を抱えていると、オズマはケラケラと笑ってミハエルの前に立った。腰に手を当て、芸術品でも見るようにその寝顔を眺める。
「エドガーは死んでても十分綺麗だからねー。いるだけで場が華やぐ。思わずキスしてみたくなる気持ちもわかるよ」
「するなよ」
「わかってる。カイザ君は"思わず"なんて軽いノリじゃないだろうし。恨まれたくないからねー」
オズマが顔を上げてカイザを見ると、カイザは水晶を置いたテーブルに手をついて項垂れていた。
「…で、終わったのか?」
「ん?」
「アポカリプスの方だよ。それが終わったから話をするために俺を呼びに来たんじゃないのか」
カイザが肩越しに視線を流す。まだ少し怒っているようだ。オズマははぐらかすような笑顔を浮かべて言った。
「あー、そうだった。もう皆集まってるよ。食事の準備もできてる」
「……人で遊んでないでさっさと言えよな、そういうことは」
「悪魔の血が騒ぎ出しちゃって、つい」
カイザは舌打ちをして扉へと歩き出した。オズマもその後に続く。カイザは扉が閉じる寸前に軽く振り返り、扉の隙間からミハエルを見た。そして、困ったように赤面して前を向いた。カイザの後ろ髪を引くミハエルの寝顔を隠すように、扉は閉じられた。
「あー、来た来た。遅いよー」
部屋に戻ると、いつの間にかテーブルが大きくなっておりいつになく豪華な料理が並んでいた。上座に腰掛けるダンテはフォークを手にテーブルを叩いていた。その隣に座るクリストフは煙管を手にダンテを睨んでいる。
「急かすなよ……カイザは久しぶりにエドガーと会ったってのに」
少女はカイザを気遣っていたらしく、申し訳なさそうな顔をしてテーブルに肘をついた。カイザはクリストフの角隣に座って溜息をつく。オズマは楽しそうに笑いながらカイザの正面に座った。すると、カイザの腰元に衝撃が走る。見ると、シドが抱きついていた。
「もうやだ! レオン嫌い!」
「……なんだ、早速嫌われてるのか?」
カイザが聞くと、レオンは椅子から立ち上がってテーブルに歩み寄ってきた。
「この際精神から鍛え直そうかと思い、騎士道を叩きこんでいたのですが……」
レオンはカイザの二つ隣の席に座り、シドの震える背中を見つめる。すると、シドがカイザの胸に顔を押し付けて声を荒げた。
「僕は盗賊見習いだもん! 弱者への憐れみも主人への忠誠も悪に屈さず正義を貫く信念もどうでもいいよ!」
「……本当に飲み込み早いよな、お前」
カイザはぐずるシドの頭を撫で、隣に座らせた。シドは横目にレオンを睨んでいる。カイザは頬杖をついて言った。
「レオンは騎士道の鑑って言われるくらい凄い奴なんだぞ? 直々に指導してもらえるだけ有難く思え」
「盗賊に騎士道なんかいるの?!」
「…………いる」
「今の間は何?!」
カイザの腕を掴んで泣き叫ぶシド。ダンテとオズマは耳を塞ぎ、クリストフは煩わしそうに眉を顰めていた。レオンはふっと息をついて袂から何かを取りだし、シドに差し出した。それを見て泣きやむシド。
「何はともあれ、その物覚えの良さと戦闘能力は評価する。受け取れ」
歴戦の騎士が持っていたのは、クッキーの袋。まさかの光景にシド以外の全員が吹き出していた。シドは鼻を啜りながらそれを受け取った。
「食べるのは食事が終わってからだぞ」
「…わかった」
すっかりレオンに服従しているシド。それを見て、オズマが苦笑いをして言った。
「さすが、クロムウェル家の近衛隊を率いてただけあるね」
「飴と鞭は完璧だな」
クリストフは煙を吐き出しながら、ある種尊敬の眼差しを向けていた。
「皆さん、お揃いでしたか」
唖然とした空気に飛び込んできたのは、黒猫を抱いたルージュ。その後ろからぬっと現れた烏天狗の面を見て表情を強張らせるカイザ。
「はぁ……勢ぞろいっすね」
和装の男が仮面を上げてテーブルの面々を見渡す。どうも、蘭丸ではないようだ。カイザと男の雰囲気に拍子抜けしたのか、じとっとした視線を送っていた。
「…ルージュ、そいつは?」
「ああ、こちらは……」
カイザの問いにルージュが答えようとすると、クリストフが静かに手を上げた。
「自己紹介は後でまとめて済ませよう。今回は初対面の連中が多いからな」
「…わかりました」
ルージュはそう言って、オズマの隣に腰掛ける。男はルージュの隣に座り、黒猫は猫茶碗が用意された下座に飛び乗った。
「……さて、揃ったところで飯にするか」
クリストフは煙管を置き、酒瓶を手にカイザへ差し出した。カイザは促されるがままにグラスを取り、酒を注いでもらう。クリストフが全員のグラスに酒を注いでいると、シドにオレンジジュースを差し出してダンテが言った。
「とりあえず、皆お疲れ様。帝国崩御とアンナ寵妃の逝去で鍵戦争の盤面も大きく変わった」
ダンテとクリストフは自分のグラスにそれぞれ飲み物を注ぎ、全員の顔を見渡す。
「新しい駒……いや、言い方が悪いね。新しい鍵も加わり、審判の日も迫り、鍵戦争も終局を迎えようとしてる。ここにはいないけど……僕の弟子も、あの赤い空を見たことだろう」
ダンテの言葉に、フィオールの顔を思い出すカイザ。クリストフはゆっくりと瞬きをして、グラスに視線を落した。
「それぞれ思うことはあるだろうけど、みんな目的は一つだ。そこで、改めてここに誓いを立てようじゃないか。審判の日に打ち勝つために」
ダンテが言うと、皆自分のグラスを手にとった。シドも周りに合わせてコップを両手で持ち上げる。カイザがそれを見て微笑んでいると、ダンテが話を続けた。
「世界を救うべく運命に至るべき場所へ。神と……エドガーに誓おう」
少女か少年かわからぬ声は、静かに部屋を包み込む。カイザが顔を上げると、ダンテとクリストフが得意げに笑っていた。
「……乾杯」
グラスを掲げ、それぞれに誓いの酒を喉に流し込む。通常一口で済むところだが、誰もグラスを口から離そうとしない。シドは不思議そうに周りを見ながらも、オレンジジュースを飲み続ける。一番最初にグラスを空けてテーブルに叩きつけたのは、クリストフとカイザだった。その次は男とレオン。その次はルージュとオズマ。最後に、子供達。普段とは違う雰囲気が楽しく思えたのか、シドとダンテは顔を見合わせて笑っていた。カイザのグラスに酒を注ぎながら、クリストフは言った。
「気合い十分だな、カイザ」
「……まあな」
水晶の間にいたミハエルを思い出し、カイザは小さく笑う。
「それはそうと、あまり飲み過ぎるなよ? これからまた難しい話をすることになるだろうからな」
「わかってるよ。そういうことはあの新参者に言ってやれよ」
カイザが見つめる先には、
「まあまあ、まあまあ! そう遠慮しないで!」
「はぁ……」
正面に座るレオンに景気良く酒を注ぐ男。近くにいる黒猫は不安気に男を見つめている。クリストフは鼻で笑って、自分のグラスにも酒を注ぐ。レオンは無表情で口布を下ろし、煽られるがままに酒を飲む。傷だらけの顔。これまで激しい戦いをしてきたということが伺える。
ーー審判の日まで読み解いたアンナ様が、あなたのことを見落とすはずがないでしょうーー
聞かずと知れた、レオンの過去。戦三昧だったであろうそれは知らぬところで鍵戦争と繋がっている。ダンテの言うとおり新しい"鍵"を手にしたのだ。誓いを立てた以上、聞かねばならない。どんな真実も受け止めねばならない。カイザは少女に注がれた酒に視線を落とし、そう、考えていた。これから明かされる真実が、大きく乱れた盤面をさらに引っくり返してしまうとも知らずに。