123.皆同じ空を見ている
ーー俺は死んで、兄さんは生きてる。それでいいじゃないかーー
ーーごめんなさい、お願いだから、聞いて……--
手を伸ばしても、届かない。違う。二人を……手にかけたのは。
血の色だけが赤く色づく、灰色に止まった景色。セシル、ユリヤ……二人の死に顔が交差して、赤と灰はやがてただの暗闇となった。叫び出しそうになったその瞬間、
「その本は、死んでいった者達が形に残した……唯一無二の真実だ」
聞きなれた、恋しい少女の声がした。
「行け。まだ世界は12巻までしかない」
瞼を開くと、そこは薄暗く広い石造りの部屋。厳かな雰囲気が漂う大理石の柱や、壁。柱の中心には白とも透明とも言えぬ、真珠のような輝きを放つ球体が埋め込まれていた。その部屋の壁には床から天井までずらりと赤い本が収められている。本だなの間で、引きずるように足を踏み出した。歩いていると、時折何かが頭を過る。ナイフを振るう青年。鎌を手に笑う少年。白い杖を手に振り返る紳士。ペンチを握って微笑む男。目の前に、一つの机が見えた。柱や壁と同じ石でできた、大きな机。その上に、一本の羽ペンと深緑の本が置いてあった。金の燭台に立てられた蝋燭の火が揺らめいている。本に手を伸ばすと、黄金色の瞳の少女が頭を過った。悲しそうな笑顔。今にも泣きだすのではないのではないかと不安になる程潤んだ瞳。手を止めて、振り返った。
「……13巻。それを綴る"執筆者"よ」
そこにいたのは……愛しい少女。近づこうと一歩踏み出すと、その姿は、
「"神に選ばれし戦士"を運命の至るべき場所へ導け」
幼い、弟に変わっていた。
「でなければこのまま、世界は覚めぬ夢と化す」
瞬きをすると、弟は昔の恋人に姿を変えていた。混乱のあまり足元がふらつく。机に寄りかかると、本に手が触れた。ふと視線を落すと、その表紙には13とだけ書かれている。
「夢と現を繋ぐのがお前に課せられた使命。"乱入者"の介入を許すな」
男の声。顔を上げると、そこには見知らぬ男が立っていた。顔は見えない。和装に、肩にかかった白い髪。誰だ。
「……"乱入者"、とは」
聞くと、男は一歩踏み出して近付いてきた。陰っていた顔が机の上の蝋燭に照らし出され、下駄の音が止まった。白い髪。緑の目。自分と、同じ……
「"伝承者"の過ちをお前が正すのだ。戦士の黒鷲を、神話から排除せよ」
黒鷲……神に選ばれし戦士の象徴ともいえるそれが、"乱入者"。
「俺が……何で俺が、"執筆者"なんて」
男の緑色の目が蝋燭の火に艶めく。黙りこんで、何も言わない。誰だ。この男は。執筆者とは、伝承者とは……乱入者とは、何だ。
「割れた世界の全貌は伝承者が知っている」
伝承者……
「行くのだ。始まりと終わりの地へ」
男はゆっくりと、手を差し出してきた。
「今度こそ、運命の至るべき場所への門を開くのだ」
その手から逃げるように、震える手で……本を掴んだ。
目が覚めると、ベッドの上だった。罅が灰色の天井を走り、薬品の匂いが鼻をつく。視線を外へ向けると、締めきられたカーテンが薄らと赤く染まっていた。夕暮れ、だろうか。
身体を起こし、ベッドの脇に置いてあった荷物をまさぐる。中から取り出したのは、一冊にまとめた資料。表紙には自分の字で、神話と鍵、と書いてある。それを開き、読み返す。最初の数ページは東禊神話の美女と鍵について。その後の数ページは、一人の男と一人の女を取り巻く鍵戦争と……審判の日について。自分で書いておきながら、どこか物語でも読んでいるかのような感覚。全ては、物語の結末に。
「……」
ペンを取りだし、右下に書かれた一文に二重線を引く。そして、サラサラと文字を綴った。
"物語の結末は、変えねばならない"
冊子の上にペンを転がし、前を見た。薬品が連なる棚。本や標本が詰まった棚。それらを見てから、自分の手を見た。
「……伝承者の過ちを……俺が」
左手の薬指には、少しくすんだ金の指輪がはめられている。少女を思い浮かべ。その左手を強く、握りしめた。
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神が何故人を生み、何故世界を始まりへと還そうとするのか。誰も知ることは叶わない……はずだった。
「愛してるからでしょうね」
あの方は、臆することなく言った。夜の墓地。月明かりの下で赤い本のページを捲り、優しく微笑む。
「私がもしあの人の立場だったらそうするわ。全てを始まりに還して、愛しい世界を繰り返すの」
楽しい想像でもしているかのように小さく笑う。愛しい人を亡くした悲しみも、過去の苦しみも。一人懐かしむように思い浮かべては笑っている。それらが全て始まりに還る日を、待っている。
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「はぁー……これ、なんすかね」
診療所の外。荒れ果てた町の家々から、人が出てきては空を見上げていた。赤い空、黒い雲、白い太陽。
「知らないんですか。終末の前兆ですよ」
「……これが?!」
グレンは横に立っていたイシドールを見た。イシドールは本を見ながら、言った。
「500年前の神の啓示。その直前にも空は赤く染まったそうですよ」
「……神の啓示」
「また世界は混乱の時代を迎えるんですかねぇ」
ーー世界はね、裁かれるんだーー
大事なお医者様だからと、ダンテが教えてくれた鍵戦争と審判の日。丁寧に説明してくれたのだろうが、グレンはさっぱり理解できずにいた。
「……イシドール、今回は……"啓示"なんて生易しいもんじゃないっす」
「…?」
イシドールがグレンを見ると、グレンは真剣な表情で空を見上げていた。茶色い髪が、赤茶色く波打っている。
「"審判の日"が来るんすよ」
「…審判?」
「俺達は裁かれるんすよ。神様に」
「……そうですか」
イシドールは、それだけ言って空を見た。グレンは、自分は何か悪いことをしただろうか、と考えてみたが……思い当たる節がありすぎて考えるのをやめた。イシドールもどこか、裁かれることを覚悟しているかのような面持ちだ。そこにいる誰もが、絶対的な"終わり"を目の前に自分の罪を省みる。悪性のない人間はいない。しかし、善性のない人間もまた、いないのだ。二つが入り混じり、秩序の下に混沌と化した世界は今、零になろうとしているのだと……グレンはふと、思った。
ーー鍵戦争はね、"零"を制するための戦争だ。だから歩くは君に、零の未来を逸早く革命の色に染めてもらおうと思うーー
「……革命の色も真っ赤に染まっちまわないように、頼むっすよ」
ぼそりと、誰に向けたのかもわからぬ呟きを漏らすグレン。医者達はただ、世界が終るその日まで人々を救う。その身が朽ちる、最後の時まで。
自分は死んでしまったのだろうか。いや、右手に何やら温かい感触がする。ゆっくり瞼を開くと、見知らぬ小汚い天井がそこにあった。
「…あ、ああ!」
震える声。重たい首を少し動かして横を見ると、涙を流す女がそこにいた。
「バッテンライさん……! よかった! 本当によかった!」
「…お嬢、」
お嬢と呼ばれた女はバッテンライの手を握って、それに額をつけた。そうか、この温もりは彼女の……バッテンライはそれを理解して、窓を見た。瓦礫の山が詰まれた景色を生生しく染め上げる赤い空。バッテンライはぼんやりとそれを見つめ、言った。
「おやじさんは」
女は嗚咽混じりに、消えそうな声で言った。
「お父さんは……ゼノフで」
バッテンライの色のない目が潤んで、一筋の涙が零れ落ちる。脱獄して野垂れ死にかけていた自分をゼノフへと導いてくれた恩人は……もう。
「…何で、俺なんかが生き残っちまったんだ」
「そんなこと言わないで!」
バッテンライは虚ろな目で女を見た。女は唇を震わせ、言った。
「あなたまで死んだら……私、一人になっちゃうじゃない」
「……お嬢、」
「お願いだから、もう……誰も死なないでよ!」
女はベッドに横たわるバッテンライに抱きつき、声を上げて泣いた。バッテンライは女の温もりが残る右手で、その頭をそっと撫でる。
「すまない。生き残ったんだから……喜ばなくちゃな」
「……」
「また、あんたの顔が見れたんだから」
女はしゃくり上げながら、顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃなその顔を見て、バッテンライは弱弱しく笑う。
「……生きててよかった。ケイト」
女はバッテンライの胸に顔を埋め、泣いた。バッテンライは彼女を抱きしめ、窓の外を見つめる。そして、カイザ達を思い出していた。彼らは、今何をしているのだろう。この空を見ているのだろうか。
ーー美女の鍵、乱世、審判の日……運命の至る場所に、何があるんだ--
きっと、睨んでるんだろうな。バッテンライは鼻で笑い、死に怯える女の鼓動を胸に聞きながら……目を閉じた。この温もりをただの血の巡りに変えてしまうようなあの禍々しさは見るに堪えない。あの赤はどうしても、目に痛いのだ。
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「……いいか、わかったな」
わからない。男の背中を見つめ、言った。
「鍵戦争と俺達は関係ない」
「……ある。誰一人として、無関係な者はいない」
夕暮れの浜辺。赤く煌く水平線。
「……お前が何をしようとしてるのか、俺にはさっぱりわからない。お前があの伝承者だってのも……まだ、信じられない」
風に靡く袴。夕陽に照らし出された烏天狗の面。
「知らなくていい。信じなくていい。ただ、俺が使命を果たせぬままに全てが終わった後。それでも無駄な争いをしようとする者を止めるのはお前だ」
「…要するに、俺がお前の尻拭いをしろと」
「……そうだな」
俯き加減に水平線を見つめる男。その隣に立って、遠い海と空の境界を見つめた。あの向こうには自分達の故郷がある。東の国。そこからこんな西までやってきて……
「…幾ら俺達海閻が伝承者の末裔と言われても、今は一介の海賊だ」
「……」
「安心しろ。ちゃんとお前の頼みは聞くつもりだ。でも、その尻拭いとやらをしなくて済むようちゃんとその使命とやらを果たしてくれよな。面倒事はごめんなんだ」
「……ああ。わかってる」
それが、二人の最後の会話だった。得体の知れない仮面の男と、無関係を装おうとしていた海賊の……最後の約束。
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「……始まったか」
小島すら見えない海の上に浮かぶ一隻の船。その甲板に立ち、空を見上げる男が一人。着流しに、黒い短髪。前髪の部分の白髪が空の赤をほんのりと映し出す。その黒い目は真っ直ぐに白い太陽を見つめていた。
「頭!」
男が振り返ると、船員たちがわらわらと甲板に集まってきていた。
「海の様子がおかしい!」
「このままじゃやばいですよ! すぐ国へ引き返しましょう!」
焦りだす船員達を見て、笑いだす男。それを見て船員達は呆けてしまう。男は腰の刀を抜き、白い太陽にその切っ先を向けた。
「ここからが見物なんじゃねぇか! 国なんぞに帰ってられっか! なあ……蘭丸よ!」
滑らかな刀身に映る赤い空と黒い雲。切っ先をなぞるように反射する白い光。男はその刀を思い切り甲板に突き刺した。船員達は思わず身体を強張らせる。男は笑いながら振り返り、言った。
「このまま西へ突っ切るぞ。蘭丸の使命が果たされるか否か、それを見届けるまでは」
「蘭丸の使命って、あいつ、西に何しに行ったんですか」
船員の一人が聞くと、男は小さく笑った。白い太陽を頭上に、男は刀の柄尻に両手を重ねる。
「……終末を跨ぐ審判の日。鍵戦争を終わらせるため、運命の至るべき場所への門を開きに行ったのよ。いや……"開かせる"ために行ったんだ。この世の行く末を背負う、神に選ばれし伝承者としてな」
男の言葉に、船員達がざわついた。男はそんな彼らを見下ろすように見て、言った。
「見せてもらおうじゃねぇか……美女達の鍵と神の審判が、世界にどんな結末をもたらすのか。俺達海閻が世界の幕引きに一役買うことになるかもしれねぇからなぁ」
男の口が吊りあがり、鋭い牙が白く覗く。
「行くぞ? 野郎共」
その瞬間、船員達の歓声が海に轟いた。男は満足そうに笑うと、刀を抜いて赤い空を仰いだ。
「過去と未来を映す業輪……その手に掴んで、使命を果たせよ? 蘭丸……」
男はそう呟いて、刀を空へ放った。緩く回転して赤い空へ舞い上がる刀。黒い雲をも切り裂くのではないかと思う程、その刃は鋭く……美しい。
始まった。いや、始まっていた。そして全ては終わりを迎えようとしている。死のうとする者、生きようとする者……全てを赤く染めあげて。審判の日は、迫る。