122.戦士の姿は光と溶けて
鼻をつく異臭はやがて肉の焼ける臭いと焦げ臭さに変わっていた。光が瞬く度に柱のあちこちに火が付き、薄暗かった階段が明るくなってゆく。黒猫は階段の手摺に寄りかかるレオンの隣に背中の少年も座らせた。少年は小さな唸り声を上げると、顔を歪ませながら細く目を開いた。
「チェシャ、」
「シド、目が覚めたか」
「……カイザは」
少年は血が出る脇腹を抑えた。黒猫はそれを見て、視線を階段の向こうへと移した。
「戦ってる」
シドはチェシャの視線の先を追った。幅の広い、炎が揺らめく階段。パチパチと細く白い光が行き交い、黒い法衣の魔女を踊り場まで追い詰めていた。魔女は法衣で顔を隠しながら辺りを伺っている。すると、目の前が光った。そこにいたのは、槍を突き出そうとするカイザ。ヨルダが舌を出すと、舌に描かれた陣が黄色く光りヨルダの目の前に黒い壁が現れた。怪物の顔が彫り込まれた一枚の壁。その怪物の口に、カイザの槍が止められた。槍が放つ白い光も、その口に吸い込まれてゆく。ヨルダは壁の裏でしゃがみ込み、額を伝う血を掌に拭って床に手をついた。すると、ヨルダを囲むように黄色い陣が現れる。
「ルイズ様、申し訳ありませんが……カイザ様は、私が屠らせていただきます!」
壁の怪物に向かって槍を突きつけるカイザの周りに、黄色く揺らぐ炎が灯り始めた。それを見たシドは、鎌を手に立ちあがろうとする。
「待て」
チェシャが前足でシドの胸を抑えつけた。シドは手摺に背を押しあてられ、チェシャを睨む。
「巻き込まれるだけだ」
チェシャが言うと、シドは大人しくなってカイザを見た。壁の怪物、だろうか。おぞましい呻き声が聞こえる。カイザの槍は光を増してゆき、黄色い炎からは黒く光る矢が現れた。カイザはそれに見向きもせず、ただ壁を貫こうとする。壁に、細く罅が入ってゆく。ヨルダが顔を顰めると、矢がカイザに向かって放たれた。
「カイザ!」
シドが叫ぶが、カイザは避けようともしない。無数の矢が彼の身体に刺さる。足、背中、腕……そして、その身体が矢で埋め尽くされて見えなくなった瞬間、壁が砕けた。大きな音を立てて崩れる壁。その向こうにヨルダが見たのは、ばらばらと、物悲しく床に落ちてゆく矢。数本の血がついた矢が目に入り、ヨルダははっと上を見上げた。光が集まり、体中から血を流すカイザが……槍を振り上げていた。勝てない。ヨルダは身を翻して切先を避けた。弾ける光、砕ける壁。ヨルダは数段転げ落ちて、顔を上げた。炎と煙が湧き立つ壁から槍を引き抜くカイザ。その目は、鋭くヨルダを捕えた。足を引きずり、カイザが歩き出す。ヨルダは身体を強張らせ、慌てて立ち上がるが……その足は震え、上手く歩けない。振り返ると、黒猫と子供がヨルダを見ていた。黒猫の目は何処か冷たく、子供に至っては、自分に対する憎悪の念が感じられた。階段の両側から挟まれ、ヨルダは唇を噛みしめる。
「……ルイズ様、早く……早く!」
その時、魔女の願いは通じた。城が揺れて崩れるような轟音が鳴り響いた。カイザは足を止め、シドと黒猫も辺りを見渡した。ヨルダは天井を見上げ、涙目になって微笑んだ。
「…間に合った」
天井に罅が入り、瓦礫が落ちてきた。黒猫は尻尾でレオンとシドを持ち上げ、瓦礫を避ける。カイザはよろよろと、おぼつかぬ足取りで後退しながら上を見上げた。すると、天井は激しく逆巻く風に取りはらわれてゆく。現れたのは、血のように赤い空。白い太陽が浮かび、黒い雲が流れていた。
「……これは、」
カイザが空を見上げて呟くと、ヨルダが怪しく笑い出した。
「来る……審判の日は、もうすぐそこまで迫っている」
カイザがヨルダを見ると、ヨルダは法衣を翻らせて足で陣を描く。黄色く陣が光ると、一つの棺が陣からヨルダを持ち上げるように現れた。棺の上で、ヨルダはカイザを見た。
「500年前と同じ。火の雨が降る前兆は現れました」
「前兆……これが」
カイザは白い太陽を見つめる。それは、黒い雲に覆われてゆく。
「鍵戦争の結末も、クロムウェル家の因縁も……全て、あの空の向こうにあるのです。カイザ様」
カイザがヨルダを見ると、棺の蓋が開いた。真っ赤な薔薇に覆われた金髪の男。それはゆっくりと目を開けた。生き物か人形かもわからぬ感情のない瞳は、空を映しだしたかのように赤く艶めく。
「もう、誰にも止めることなどできないのです」
崩れる天井。オズマはダンテを庇うように抱き寄せ、ルージュはクリストフの肩支えていた。踊り場に立つルイズの足元には黄色い陣が光り、そこから漏れ出す黒い煙が天井の罅へと吸い込まれてゆく。ルイズはじっと上を見つめたまま、動かない。ダンテはルイズを睨み、言った。
「何をする気だ!」
「何を? 大人しく帝都を開け渡そうとしているだけだ」
すると、ルイズの足元の煙が激しく逆巻き、罅だらけの天井を貫いた。吹き抜ける風。開け広げられた高い上空。それを見て、4人は言葉を失う。金の鐘楼が消えたそこにあったのは、赤い空。ルイズもそれは予想外だったのか、軽く口を開けて黙り込んでいた。
「……赤い、空」
オズマの震える声。
「神の啓示……500年前と、同じ」
ルージュが茫然として声を漏らす。少女は、涙目になって空を見つめている。黄金色の瞳が空の赤に照らし出され、くすんだ橙に染まる。
「これが、審判の日……世界は、裁かれる」
ルイズは少女の呟きに、視線を向けた。空を見上げる4人。兄を含むこの者達はこの赤が恐ろしくてならないのだろう。世界の終末の訪れを目の前に何を思っているのかは知り得ないが……母がいない今、それはもう自分とは関係のないことなのだ。ルイズの目は、ダンテの持つ母の秘録に向けられていた。
ーー神の玉座に、運命の至る場所に……私が導いてみせる。ルイズ--
そんなことなど、どうでもよかった。あの離宮での日々があるだけで……それだけで、よかったというのに。
「……ダンテ、」
名を呼ばれ、ダンテはルイズを見た。ルイズはダンテに背を向け、言った。
「見逃してもらったこの命だが、この先どう使おうと私の勝手だ。それだけは、わかっておいてもらおう」
「……まるで、これから死ぬみたいな言い草だ」
「……」
ルイズが黙り込むと、空が低く唸りだした。雷鳴。激しく光ったかと思うと、青白い光が空を割った。轟音と共に帝都に落ちる光の柱。それを見て、そこにいる誰もが頭にカイザの姿を思い描いた。
「……感謝する」
ダンテが踊り場に目をやると、ルイズの姿はなかった。行ってしまった。ヨルダを連れて……悲しい、黒い穴の向こうへ。
「…ダンテさん、」
茫然とするダンテにオズマが話しかけると、ダンテは誰もいない踊り場を見つめたまま、言った。
「……ねぇ、これって……戦いなんだよね」
「……」
「必ず、誰かが負けなきゃならないんだよね」
オズマは辛そうにダンテを見つめる。雷鳴轟く空の下、ダンテの細かく震える声が洩れる。
「蘭丸、バンディ、サイ、アダム、ヨルダ、アンナ寵妃……ルイズ。みんな、みんな敵なんだよね」
自分を言い聞かせるような言葉。オズマは、無言で頷いた。
「みんな敵なのに。どうして僕は今、戦うことに躊躇いを感じ始めてるんだろう」
一人の青年の冷たい瞳が、ダンテの心に穴を開けた。感情渦巻く鍵戦争。その実態が、彼を目の前にしてようやくわかった気がした。これは人の思いが絡まり合って引き千切り合おうとする……激しくも悲しい聖戦なのだと。悪者などいない。誰もが自分の願いのために、正義のために戦おうとする。そんな切なる思いを全て飲み込もうとしているかのような赤い空を、ダンテは震える目で見上げた。
「……この戦争の、犠牲者って誰」
ダンテはなんとなく、参加者の誰もが鍵戦争の犠牲者だとわかっていた。それを、オズマの口からも聞きたかった。誰も悪くない。自分達は悪くない。そう、確認したかった。しかし、
「…一番の犠牲者は、神に選ばれた戦士……でしょうね」
オズマの低い声。空を駆ける白い光を見つめるダンテの目から、ぽろぽろと涙が溢れた。頬を伝う涙は淡く赤く煌き、落ちた。許されるはずはなかった。被害者になど、なれない。
グ-ルが群がる宮廷内。屋外で戦っていた鬼達はその手を止めて、空を見上げていた。金の鐘楼が紫の煙となって消えたかと思えば、予期せぬ赤い空が自分達を迎え入れたのだ。
「空が……」
近づいてくるグ-ルを切り払い、和は仮面を上げて空を見た。審判の日。鬼の望む世が……そこに迫っている。人との境界線が取り払われ、東の国を鬼が統べる世が。しかし、その赤はあまりにも禍々しかった。表裏一体どころか、世界が消えてなくなるのではないかという不安に駆られた。その時、
「!」
激しい風。黒を帯びたそれは空へと逆巻き、王宮の半分から上が砂のようにさらわれてゆく。驚きのあまり立ち尽くす和。空に消える瓦礫と共に風が止むと、今度は空が明るく光った。すると、王宮の近くに大きな雷が落ちた。黒い雲から矢のように地上へと放たれる落雷。それはグ-ルの群れを焼きつくそうとしているように見えた。
「頭! ここは危ないです!」
「……お前らは魔術師達と撤退! レナルド峠のアポカリプス兵舎に戻れ!」
「でも、」
「俺はクリストフ様達を待つ! 行け!」
鬼達は落雷を避けるようにしてぞろぞろと撤退を始めた。街は黒い煙と火が上がり始め、雷も激しさを増してゆく。和はグ-ルを切り抜けて王宮へと駆け出した。
「クリストフ様……どうかご無事で」
建物の屋根に飛び上がり、屋根伝いに走っていると王宮から黒い影が二つ、空へと上るのが見えた。目を細めてそれを見ると、影は一つになって霧のように消えた。その瞬間、眩い光が帝都一面を覆った。あまりの眩しさに目を伏せる和。
「ヨルダ!」
男の叫び声。
「俺は全てを守りぬいてみせる! 審判の日を乗り越えて、未来を切り開く!」
遠い叫び声に和は視線を向けた。すると、王宮の崩れかけた柱の上に光の糸が集まりだした。一瞬弾けたかと思うと、そこには一人の男が立っていた。血に塗れた、白い軍服。淡い光を放って緩く靡いた金の髪。そして、その手に握られた三又の槍。
「鍵戦争を制するのは、この俺だ!」
赤い空に向かって叫ぶその男が、振り返った。青く、強く光る瞳。洗練された彫刻のような顔立ち。その怒りに満ちた表情、廃墟と化した王宮で赤い空を背負う姿……一瞬一瞬が、まるで絵のようだった。目を奪われ、立ち尽くす和。力無く腕を垂れ、落雷の音を耳にしながら男を見つめた。男は辺りを見渡し、ふと憂いた表情をしたかと思うと……ゆっくり、俯いた。
「……」
その横顔も、やはり美しかった。男を目にして速まる鼓動。和は胸を抑えて考えた。これは……畏怖だ。
ーーカイザ君に会えばわかるよーー
ーーいや……カイザに会えば、わかるかもしれないなーー
和は確かに感じていた。世界の終末を。神に選ばれたという男の……叫びを。和が生唾を飲み込んで見つめていると、男は糸を引く光となって空気に散った。和はその場に膝をつき、項垂れる。
「……鍵戦争……あんな奴が、ことの発端だってのか」
目を閉じても、まだあの淡い光が残像となって瞼に映る。激しい怒り、垣間見えた憂い。血がついた白い軍服に身を包んだ、神々しく美しい男。あれが……カイザ。光と共に現れ、光と共に消えた。
「…クリストフ様が、拘るわけだ」
和は小さく鼻で笑い、屋根の上に寝そべって赤い空を仰いだ。落雷は鳴りやみ、白い太陽が和を見下ろす。世界は裁かれようとしている。漠然として実感がわかない。人が滅びようと、世界が一つになろうと、鬼である自分は関係ないと思っていた。しかし、カイザはこの空と真っ向から戦おうとしている。何かを守ろうとしている。
「やっぱ空は、青い方がいいな」
懐かしいそれを、取り戻そうとしている。
ーー業輪を探せ! あれがなければ、統べる世も失せる!--
ヤヒコの言葉の意味が、やっとわかった。関係ないでは済まされない。鬼の統べる世はあの青い空の下にあったのだ。なんとなく命令を聞いてきただけの和は、皆が何を守ろうとしているのか、鍵戦争とはいかなる戦いかをこの時始めて理解した。身体を起こして大きく深呼吸をした。風が通り、少し焦げ臭いものの幾らか新鮮になった空気。異臭で痛くなりかけていた頭もすっきりとし始める。この空気が、この温度が……もうすぐ、あの空に飲まれる。世界は、裁かれる。