121.時間稼ぎに命の価値を計る
わかっていた。これは時間稼ぎだ。
「何をする気だ、ヨルダ」
レオンの言葉に、ヨルダは小さく笑う。
「何って、今カイザ様がおっしゃってくださったではないですか。レオン、あなたを取り戻したいと」
「そんなでまかせで我々の足止めをして、何をしようとしている」
でまかせ。シドとチェシャはヨルダを見た。ヨルダは口元だけで笑い、言った。
「……時間稼ぎ。そうね。この状況ならそう考えるわよね。でも、時間稼ぎならグールの群だけで十分そうじゃない」
ヨルダはレオンの後ろのカイザを見て笑った。
「たかがそれだけのためにわざわざ私が出向くわけがないでしょう」
「かと言って私に拘る理由はない」
「……見くびられたものね。私やアンナ様が、あなたのことを"知らない"とでも?」
レオンの剣を握る手が、ピクリと動いた。カイザは、一本にまとめられた白髪が垂れる背中を見つめる。ヨルダの口元が、怪しく動く。
「知ってるのよ? 審判の日まで読み解いたアンナ様が、あなたを見落とすわけがないでしょう」
「……」
「さあ、わかったら大人しく私の人形にお戻りなさい」
ヨルダが掌をレオンに向けた、その時、
「カイザ! レオン!」
「下がってろ!」
シドが眼帯を解き、黒猫が走り出した。黒猫に跨る少年の右目と猫の口から黒い煙が溢れて渦を巻き、ヨルダを覆う。ヨルダは頭を抑えて俯く。レオンはカイザの肩を抱いて数段下へと下がった。
「今だ!」
シドが言うと、チェシャの尻尾が煙へと伸びる。尻尾が煙に触れると、ヨルダを飲み込んだまま煙は激しく爆発した。マントを広げて爆風からカイザを守るレオン。
瘴気と精神感応を受けた上にこの爆発だ。無事でいられるはずはない。しかし、チェシャは鎌を握ったシドを乗せたまま爆煙に飛び込んだ。討ち損じてはならない相手と察したからには余念は残さない。煙の中、シドは鎌を振り上げた。
「やってくれるわね……」
シドの手がピタリと止まる。チェシャも身を翻して退こうとした。しかし、
「子供だと思って、甘く見てたわ」
「!」
鎌を振り上げたまま、身体が止まってしまったシド。チェシャも前足を上げたまま固まっている。爆煙の中の異変にカイザとレオンも気付いた。カイザがナイフを持つ手に力を込めようとした時、煙がぬるぬると生き物のように避け始めた。躍動的な彫刻のように固まっている少年と猫。そして、血が出る頭を抑えながら床に片手をつくヨルダ。カイザはレオンのマントから出て、その光景を見た。シドと黒猫の身体が、苔が生えるようにみるみる石化してゆく。
「チェシャ……シド……」
カイザが呼ぶと、シドの首が錆びついたように振り返る。その表情は苦しげだ。石化が広がり、少年の首まで灰色に染め始める。シドはゆっくりと口を開き何か言いかけるが……そのままの形で、石と化した。立ち尽くすカイザの前に立ち、レオンはヨルダを見た。ヨルダは乱れた髪を掻き上げて立ち上がると、眉を顰めてレオンを見下ろす。
「精神感応を使う堕天使に、高官の化け猫。本当に……今日は予想外のことばかりだわ」
ヨルダは石になった少年と猫を睨みながら階段を下り始める。すると、カイザが強く一歩踏み出した。レオンは剣を構えたままカイザを抑えつける。
「放せレオン!」
形相を変えてレオンを睨むカイザ。レオンは前に出ようとするカイザを抑えたまま、ヨルダを見た。ヨルダは額から垂れる血を法衣で拭い、小さく笑う。
「怒った顔も、やはり美しいものですね」
ヨルダの言葉にカイザは息を捲いて叫ぶ。
「すぐに二人を元に戻せ! でなければ殺す!」
カイザが声を荒げるとヨルダは石像の横で足を止め、額の傷から法衣を離す。傷からたらりと血を流し、ヨルダはカイザを睨んだ。
「殺す? そんなことをおっしゃるなら私が殺してさしあげますわよ? この、子供と猫を」
ヨルダが石像に手をついた。シドの脇腹に小さな罅が入り、そこから赤い血が溢れ始めた。カイザはそれを見て目を見開く。レオンの腕を掴む手を緩め、じっと立ち尽くす。ヨルダは血を吐きだし、レオンを見た。
「この通りよ。レオン、あなた一人がこちらへ戻ればいいのよ。こんな子供になんて私もルイズ様も興味は無いのだから」
「……」
レオンは黙り込んで俯くカイザを見た。そして、再び前を向く。
「……私が行けば、その二人を元に戻すのだな」
レオンの言葉にカイザははっと顔を上げる。レオンはカイザを見て、言った。
「カイザ様、御心配には及びません」
「レオン……」
「あなた様の大事な者は、私が命にかけてもお守りいたします」
迷いのない、鋭い視線。レオンはマントを翻して階段を上ってゆく。カイザが追いかけようとすると、足が動かなくなった。視線を落すと、片足が床に張り付いた石と化している。ヨルダは嘲笑うようにカイザを見下ろしていた。
「レオン!」
カイザが叫ぶが、レオンは振り返らない。そして、ヨルダの前に立った。
「いい子ね。今魔法をかけ直してあげるわ」
ヨルダがレオンに向かって手を伸ばす。すると、レオンはすっと首輪に手を当てた。ヨルダは手を止め、眉を顰める。
「……何のつもり?」
「二人を解放するのが先だ。カイザ様の足もな」
「……」
気付いていたか。魔力に対する感度が良くなっている。ヨルダは少し黙り、横の石像に手を当てた。手を当てた部分から色が広がり、柔らかく動き始めた。石化が解けると、シドは崩れるように黒猫の背に倒れ込む。その脇腹からは血が溢れていた。チェシャはそれに気付き、首を背に向ける。
「シド、シド!」
チェシャが呼びかけるが、シドはぐったりとして何も応えない。足が自由になったカイザがシドに駆け寄ろうと足を踏み出した時、
「動くな!」
広い階段で響くヨルダの声。カイザは立ち止まり、黒猫も隣のヨルダを見た。ヨルダは黒猫を睨みながら数段上がり、距離を取る。そして、レオンに手を差し伸べた。
「来なさい」
「……」
「早く。もう待たないわ。次は石化なんかじゃ済まさないわよ? ガキも猫も、カイザ様も」
目を鋭く吊り上げ、レオンを見るヨルダ。カイザはレオンの背を見つめていた。行ってしまう。彼は自分のためにまた……人形になってしまう。レオンは横目に黒猫を見た。目が合ったチェシャは、その視線に何を察したのか……ゆっくりと、ヨルダから離れ始めた。レオンは一段、また一段とヨルダに近付く。そして、振り返った。
「カイザ様。あなたのために剣を振ることができたことを誇りに思います」
その表情は悲しみに歪み始める。銀の首輪に触れたまま、レオンは言った。
「最後までお守りできない私を……どうか、どうかお許しください!」
レオンは剣を逆手に持ち、その切っ先を自分に向けた。ヨルダの顔に焦りの色が浮かび、カイザの目に溜まっていた涙が……すっと零れ落ちる。
「やめなさい!」
ヨルダがレオンを止めようと手を翳した、その時。雷の音と共に階段が眩い光に包まれた。ヨルダは法衣で顔を隠し、光から目を反らす。電気の弾ける音。身体をパチパチと刺激する小さな痛み。ヨルダがゆっくりと前を見ると、レオンは剣を手に倒れていた。その向こうには、光る槍を手にヨルダを睨むカイザが。ヨルダがそれに目を奪われていると、チェシャが尻尾を伸ばしてレオンの身体に捲きつける。ヨルダがそれに気付いて床に手をつこうとした時、再び光が目の前を包んだ。手に激しく痺れるような痛みが走り、ヨルダは気付く。これは、雷。ヨルダが顔を上げると、レオンは黒猫と共にカイザの後ろに横たわっていた。カイザは荒く肩で息をしながらもヨルダを睨んでいる。その身体からは白い光が糸を引いて弾けていた。ヨルダは額から血が混じった冷や汗を流し、小さく笑う。
「…アンナ様、聞いてませんわよ? 神に選ばれし戦士に……戦士の証に、あんな特典がついてるなんて」
ヨルダが立ちあがると、カイザは槍を構えた。青く光る目から放たれる殺気。赤い血に塗れた白い軍服。そして、光を放つ三又の槍。その圧倒的な風貌に気圧されてヨルダは後ずさる。カイザは重い一歩を踏み出し、言った。
「レオンはクロムウェル家の騎士である前に、俺の騎士だ」
カイザの髪は白く、淡く。きつく吊り上げた目は青く、深く……光を帯び始める。
「ルイズなんかには譲れない」
チェシャはカイザの背中を見つめ、固まっていた。ヨルダは震える手を胸に当て、後ずさる。
「……ルイズ様、時間稼ぎもこれまでのようです」
ヨルダは額から垂れる血に舌を伸ばした。
静かな階段。深い溜息を洩らし、言った。
「……わかった。聞き入れよう」
ダンテの言葉にクリストフが振り返る。ルイズは小さく笑い、秘録を差し出してきた。
「ダンテさん、いいんですか」
オズマが聞くと、ダンテは俯いた。
「アンナ寵妃の実力は認めざるを得ない。それに……気になってしょうがないんだよ。たった一人の愛人がどうやって審判の日まで嗅ぎつけたのか」
クリストフは悔しそうに視線を落す。そう。ルイズの言葉を聞き入れたくはなかったが……あの秘録の中が気になって仕方なかったのだ。カイザの運命を狂わし、鍵を3つ手にするまでに至った女の考え。それは、悔しくも自分達の間接的な憶測よりも真実味のあるものに思えてならなかった。ダンテは少女が異議を唱えないことを察して、階段を上り始めた。ルージュとオズマは警戒するようにルイズを見ている。この交渉こそが罠である可能性も拭いきれないからだ。もちろん、ダンテもそれは考えていた。一歩、一歩……確実に、ルイズに近付く。青年は4人を目の前に怖気づく様子もない。ダンテは、秘録に手を伸ばした。
「……」
伸ばしかけた手を止め、ダンテは秘録を見下ろして言った。
「君達はどうして、そんなにも僕達の心を握ることができるんだ」
「……」
「わかっていたんだろう。どんなに僕が考えようと、結果は変わらないと」
ルイズは少し黙って、静かに口を開く。
「見逃してくれるお礼に、教えて差し上げよう」
ダンテにしか聞こえないのではないかと思う程に低い呟き。ダンテが顔を上げると、ルイズは無表情でダンテを見下ろしていた。視点のぶれない青い目は、カイザの陰った瞳と違ってただただ冷たい。
「私や母は常に、"どちらに転んでもよい"ように取捨選択している。進むべき道がなくならぬようにだ。それは時に犠牲も払う」
「……定石だ」
「しかし、本当に道を失いかけた時にその選択ができるか? 愛せる者を、大事なものを、犠牲にできるか?」
止まっていたダンテの手が、力無く指先を緩ませる。
「相手の捨てられぬものを把握する。それがあなたの言う心を掌握するということだ。母は今までそれを利用してきたまで。あなた方にできぬことをしてきたというだけのことなのだ」
犠牲を払う、覚悟の違い。この青年に至っては……自分の命まで。
「別に、母が優れているわけでもなんでもない。"人種"が違うのだ。母は、あなた方が大事にするようなものでさえ犠牲にする……修羅だった」
ダンテが見つめる青年の目に、一人の少女が映った。白い部屋で倒れていた少女。穴の開いた絵の前で泣いていた少女。そうか、彼女は……
「……私としては、母にもあなた方のような犠牲も払えぬ愚か者であって欲しかったのだが」
青年の思わぬ本音。大事なものさえ忘れて修羅と化した母への憂い。息子の……愛情を欲する心。わかったとしてもそれはもう何の意味をなさない。母も少女も失った彼にはもう、守りたいものも何もないのだ。そして放たれたのが、あの死に急ぐような言葉。ダンテは辛そうな目で青年を見つめ、手を伸ばした。
「君だけは……生かしておいてあげたいと思ってしまうよ、どうしても」
「……やはりあなたは、愚か者だ」
彼の言う愚か者。それでもよかった。心を掻き乱されながらも何かを守り抜こうとする自分は、愚かでありながらも"人"だと思えたからだ。青年の嘲るような言葉も切なげに聞こえてならない。ダンテの手が、秘録を掴んだ。そして、ダンテはそのまま振り返ってオズマを見た。オズマは小さく頷き、ゆっくりと……目を閉じた。