119.どんな悲しみからも遠ざけて
「やめ、やめてくれ!」
「……」
「金か、地位か! 望むものならなんでもくれてやる! だから……!」
大陸を統べる男の最後の言葉は、命乞いだった。皆生きるためならばなんでも投げ捨てる。金も地位も、命の価値には値しない。それならば、どんなものよりも価値があったであろうそれらを奪われた怒りを鎮めるためにこの命を賭けることだって許されるだろう。20年、ずっと胸の内で思いを押し殺してきた青年は戦火に見えて燃え尽きようとしていた。
皆目的のためならばなんでも投げ捨てる。命でも、なんでも。
「……くそっ、」
「カイザ!」
階段の手摺に寄りかかり、項垂れるカイザ。シドはチェシャの背から飛び降りて彼に駆け寄り、周囲のグールを煙に巻いた。激しく鳴り響く爆発音。数段下で、レオンが目を伏せる。
「カイザ、どうしたの?」
腐臭のする爆炎の中、シドが心配そうにカイザを見る。
「大丈夫だ。少し……疲れただけだ」
辛そうに笑うカイザ。しかし、その足はもう立つのがやっとだった。ブラックメリーに秘められた力は多勢力を相手にするにはもってこいだが体力を消耗するために長時間使い続けるには無理があった。ましてや、人間には。カイザはグ-ルの群に囲まれそれに気付いた。眩い光を放ち、刀身が短くなるブラックメリー。光る槍は黒いナイフに姿を変えた。
「カイザ様、」
レオンがカイザに駆け寄ると、カイザはすっと手を上げた。大丈夫。そう言いたいらしいが……その背中はあまりに小さい。すると、シドとチェシャが一斉に顔を上げた。
「……誰!」
階段の踊り場を見つめ、シドが叫ぶ。レオンは静かに剣を構えた。カイザは肩で息をして、その視線を追う。
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あの頃。男子禁制の里で蝶よ花よと育てられたあの頃。少年は自分が男であるということがどういうことか、全くわかっていなかった。
「お願いです! 私を弟子にしてください!」
額を床に擦りつけて切願する女。少年と女が初めて言葉を交わしたのが、この時だった。北の魔女の中でも力を認められた者しか立ち入ることを許されない酌童の間。神の寵愛を受けた少年はそこでしか里の者と口を利かない。女は少年と言葉を交わしたいがために、己が力を高めてきたのだ。
「お願いです! 私を弟子にしてください!」
「君、召喚士としては一人前なんだし弟子入りするより弟子取った方がいいんじゃないの?」
「い、いえ! 私などまだまだでございます! ダンテ様の元で学びたいのです!」
「でもなぁ……僕もうすぐここを出るから弟子取る余裕もないし」
「ダンテ様!」
女は堪らずに顔を上げてしまった。大きな椅子に座り、ひじ掛けに頬杖をつく少年は驚いた顔をしている。女は考えていた。言わなければ。食らいつかなければ。
「私もお供させてください!」
すると、少年の隣にいた貴族風の男が女に歩み寄り、髪を掴んで女の額を強く床に押し付けた。額と頭皮に響く鈍い痛み。
「…ちょっと。誰が顔を上げていいって言った?」
「……」
「ダンテさんはね、弟子はいらないって言ってるんだ。言語理解できてる?」
鼻につく物言い。女は床につく手をぐっと握り歯を食いしばる。少年は全てをこの男に任せるつもりのようだ。退屈そうに頬杖をつき、黙って見ている。
「弟子を取らない理由だってお前達北の魔女が使えないからだ。ここを出る以前の問題なんだよ。都合よくしきたりに縛られて古い魔法にばっかり拘って。そりゃあ、ソフィーだって痺れを切らして里を飛び出す」
女は我慢の限界だった。がりがりと唇を噛み、肉を抉る。顎を伝う口端から溢れる血は、黒い陣が刻まれた舌に舐め取られる。何かに気付いた男の手がピクリと動くが、もう遅い。女が顔を伏せたままに舌を出すと、黒い陣が黄色く眩い光を発した。男は眩しさに後ずさる。少年はその様子を見てもまだ退屈そうに眉を顰めていた。光が収まると同時に、女は床に押し付けられていた額を離してゆっくりと立ち上がった。そして、目の前で驚いた顔をしている男を睨みつける。
「あなたでなく、ダンテ様に話しているのよ。私は」
男の目の前にずらりと並ぶ魔界の住人十二体に囲まれ、男はペンチを取りだした。
「公爵だかなんだか知らないけれど、悪魔如きがダンテ様の隣で偉そうにしないでちょうだい」
「…弟子になる前に俺の餌食になりたいようだな」
怪しく笑う男の目が、紫色に光る。少年は考えていた。幾ら里では一人前とはいえ、魔界の貴族に勝てるはずがない。この女はどうしてこんなにも必死なのだろう、と。
「私は今日のために努力してきた。ダンテ様にお会いするために、ダンテ様に認めてもらうために。あんたなんかに邪魔されるわけにはいかないのよ! 私は、ダンテ様の元で世界一の魔女になるのよ!」
女の叫びに、少年ははっと目を見開く。
ーー世界一の魔法使いになったら……母さんと父さんのこと--
「言わせておけば自分勝手なことばかり……!」
男の身体から紫の炎が噴き出した、その時。
「やめろ! オズマ!」
少年の声に、男は振り返る。炎はゆるゆると鎮まり逆立っていた黒髪もその肩に垂れる。少年は椅子から立ち上がり、言った。
「……君、名前は?」
女はおろおろと、小さな声で言った。
「ヨルダと、申します」
「……ヨルダ」
幼さと気高さが入り混じる少年の笑顔に、女の目は釘付けになる。
「いいよ。弟子にしてあげる」
「ダンテさん!」
「いいじゃない。この子は他の魔女と違うものを持ってる。それこそ、ソフィーおばさんを思わせる何かだ」
少年は段から下りて女に近づく。悪魔達の間を堂々と歩く少年。彼がふわりと髪を靡かせる度、悪魔達は一瞬にして砂のように砕け散る。夜の雪原のような瞳、風に舞い上がる粉雪のような髪。少年が持つ力に、それを目にした感動に、血が垂れた女の唇が小さく震える。不満そうな男をも横切り、少年はヨルダの前で立ち止まった。
「君を世界で二番目の魔法使いにしてあげる」
「……」
「悪いけど、一番は僕だから」
得意げに微笑む少年に、ヨルダは静かに膝を折った。
「……ありがとう、ございます」
里のしきたりに縛られずにこの道を極めんとする純粋な心意気。それに、少年は心を打たれた……はずだった。この時、不満気にしている男も満足げに笑う少年も気付いていなかった。少年が、この女にどんな目で見られていたのか。
少年が里を出て数年経った、ある日の夜。
少年の悲鳴に駆け付けたオズマ。立ち尽くす彼の目の前には、泣き顔の……半裸の少年。そんな少年に覆いかぶさる黒衣の女。何が、起こったというのか。
「ヨルダ、」
オズマが名を呼ぶと、女はゆっくりと振り返った。その目は邪魔をするなといわんばかりに鋭く吊りあがっている。それを見た瞬間、オズマは紫の炎に包まれた。少年の寝所を明るく照らし、ヨルダの黒衣に燃え移る。オズマはヨルダの胸倉を掴み、その顔を思い切り殴り飛ばした。壁に打ち付けられるヨルダ。しかし、それでもどこか女の顔には反抗の色が浮かんでいた。オズマは女に馬乗りになり、殴り続ける。すると、ヨルダが舌を出した。黒い陣が描かれたそれは黄色の光を放つと、陣から鋭い剣が飛び出した。拳を振り上げたオズマの腕に、剣が突き刺さる。飛び散る血。痛みなど感じない程に湧きあがる怒り。オズマは腕から血を噴き出しながら女を殴る。そして、オズマは腕に刺さった剣を引き抜き女に向かって振り下ろした。
「やめて!」
その瞬間、剣が粉々に砕けた。銀の欠片が紫の光を反射してキラキラと部屋に飛び散る。オズマは震える手で剣を下ろし、ヨルダを見下ろす。原型も留めぬ程に腫れあがった顔。意識がないのか、ぐったりとして動かない。ゆっくりと、オズマは振り返る。ぽろぽろと涙を流す少年。オズマは少年に駆け寄り、震えも止まぬその身体で少年を包み込んだ。
「……ダンテさん、」
「……」
「あいつはもう、破門します。よろしいですね」
オズマの細かく震える背中に手を回し、少年は嗚咽混じりにゆっくりと頷く。
従順な弟子がまさか神に愛された師に対して……ましてや、年端もゆかぬ容貌の彼に恋心を抱くなんて。少年はその身をもって、自分は男であるということを改めて自覚する。一方悪魔は考えていた。異性に対する油断は禁物だ。思いあがらせぬ距離感と絶対の警戒が必要だと。男女が一つ屋根の下に暮らすうえではそれが当たり前のことだったのだと後悔すら覚えていた。ただ、やはり理解できないのだ。神の酌童を、幼い少年を抱こうとした女の心が。人より長く生きてきた悪魔は、世界の広さを思い知る。
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「……なんだこれ」
化け物の巣となった王宮。足を止めた少女の目の前に飛び込んで来たのは、階段を埋め尽くす兵士やグ-ルの残骸。肉片や血が壁や天井にまでへばりつき、中には焦げ炭になったものまであった。
「これ、カイザじゃない?」
オズマに肩車されたダンテが言った。すると、辺りを見渡してルージュが呟く。
「上に向かっているのでしょうか」
「アンナ寵妃をやろうとしてるのかもね」
オズマが言うと、少女は眉を顰めたまま鼻で笑った。
「そうなると、カイザとは獲物の取り合いをすることになるな」
「クリストフさんはなんでそう……素直に心配だって言えないのかな」
「うるせぇな! 先越される前に行くぞ!」
少女の怒鳴り声とともに走り出す4人。オズマは肩に圧し掛かる重みを感じながら、ふと思い返していた。少年と出会ったあの日。少年が母親の墓石の前で殺されそうになっていたあの日。少年が、女に襲われていたあの日。
「……ダンテさん」
「んー? 何ー?」
ダンテはオズマの頭に手を置いてその顔を覗き見ようとする。
「……今度こそ、俺が守りますから」
オズマの言葉に、ダンテは小さく笑った。
「今度こそって、いつも守ってくれたじゃないか……オズマは」
ダンテはそう言ってオズマの頭を軽く撫でる。オズマは悲しそうに笑って、はい、と返事をした。内心、この少年を守れたことなど一度もないと思っていた。出会った時には少年の家族は死んでいて。一族に殺されかけた時には自分は理性を失っていて。女が思いを遂げようとした時には、少年は既に泣いていた。いつも、一足遅いのだ。だから今度こそ……地獄門が、開く前に。
「止まって!」
階段に響く少年の声。3人はピタリと足を止める。少女は振り返り、ダンテを睨む。
「なんだよ!」
ダンテは踊り場の向こうを見つめている。ルージュとオズマも何かに気付いたのか、それぞれ一歩身を引いて戦う構えを取った。
「この陰険な魔力は……ヨルダ」
オズマの呟きに、クリストフは視線を前に向けた。コツコツと、誰かが降りてくる音がする。4人は身構え、その姿が現れるのを待った。音は一段、また一段……近付いてくる。4人の視線が集中する踊り場に現れたのは――――――――――
「……ヨルダ」
踊り場で柔らかい笑みを浮かべる女。
「お会いできて光栄です。カイザ様」
ヨルダは法衣の裾を抓んで軽く会釈した。レオンがヨルダと呼ぶ女。話にしか聞いていなかった、クロムウェル家に加担して地獄門を開こうとしている魔女。カイザは少し屈み気味だった姿勢を整え、女を睨む。シドはカイザを支えるように背中に手を添え、腰に収めていた鎌を手に取る。
「私が、ダンテ様の一番弟子召喚士ヨルダにございます。以後お見知りおきを」
「……話に聞いた通りの勘違い女らしいな、お前は」
カイザが言うと、ヨルダは笑顔を崩さずにじっとカイザを見つめた。妙な沈黙。嫌な視線。負けじと女を睨みつけるカイザの眉が次第に寄ってゆく。
「……アンナ様を殺したのはあなたですか?」
唐突な質問。様子を伺うように皆が黙っていると、女はレオンに目をやった。
「それともあなた?」
レオンは女の目の奥で揺らぐ狂気を見据え、"返事"を固める。そして、布の裏で口を開く。
「そうだ。私が……」
「俺だ」
レオンの言葉を遮ったのは、
「俺が、あの女を殺した」
カイザだった。ヨルダの頬笑みが、満面の笑みに変わる。
「そう。そうですか」
レオンは眉を顰めてカイザの前に立った。そして、ヨルダに向かって剣を構える。ヨルダはレオンを見つめ、笑いながら言った。
「そうですか、そうですか。"あなた達"が、アンナ様を」
俯いて小さく笑うヨルダ。カイザとレオンは、正気を失った女の問に答える意味などなかったのだと察する。しかし、
「まあ、いいでしょう。それよりも今は……レオン。あなたをどうにかせねばなりませんね」
顔を上げた女の目はしっかりと自我を保っている。その様子を見たカイザとレオンの顔に疑問の色が浮かぶ。
「レオン。ルイズ様はとても悲しんでおりましたよ? クロムウェル家が誇る近衛隊隊長のあなたが裏切ったことを」
「魔法で意のままに操っておきながら、よくもそんなことが言えたもんだな」
レオンの肩を掴み、ヨルダを睨んでカイザは言った。
「レオンはクロムウェル家の騎士だ。離宮の人間が好きにしていい存在じゃない。何が裏切りだ……そもそも、最初に裏切ったのはお前達の方だろう! 父様やクロムウェル家、帝国まで……!」
「私はルイズ様のお言葉をそのままお伝えしたまで。ご家族の問題を私に当てられても困りますわ」
カイザはレオンの肩をきつく掴み、言葉を噤む。
「それに、クロムウェルを名乗れるのがルイズ様だけとなった今。近衛隊を率いるレオンは確かにルイズ様の騎士なのです。決して、盗賊風情が好きにしていい存在ではありませんのよ? どうぞルイズ様にその騎士をお譲りくださいませ」
「……要するに。お前はレオンを取り戻しに来たのか」
「はい」
微笑むヨルダ。シドとチェシャは不思議そうにレオンを見ていた。この騎士が、そんなに重要な人物だとでもいうのか。ヨルダを真っ直ぐ、貫くように見つめるレオンは何も言わない。ただ、カイザを守ろうと剣を握って、前を見据えるだけ。