116.物語は始まりに還ろうとしている
罅割れた大地。見上げても天辺を見ることは望めない金の鐘楼。その縁に押しつぶされた名も知れぬ誰かの血が、割れた道の隙間から滲み出ていた。
「…無理だな」
「どうする」
輝く鐘楼に手を当てる蘭丸に、サイが聞いた。
「終わるまで待ったところで時間の無駄だな」
「何とか、ならないのか。このままパリスへ行ってもお前は……」
「……仕方あるまい」
蘭丸は鐘楼から手を離し、背を向けて歩き出す。砲撃で崩れかけた白い建物。道に転がる、兵士の死体。
「別に、無理をしてまで追いかける必要もないだろう。最終的には、運命の至るべき場所への門が開きさえすればいいのだ」
「……いいのか、本当に。真実を知らないままに鍵戦争が終わってしまっても」
サイの表情は、どこか辛そうだ。
「……それが、運命ならばな」
「運命なんてもううんざりだ」
「そうだな」
蘭丸は不服そうなサイを見て、小さく笑った。そして、烏天狗の面に手を添えて小さく呟く。
「物語の結末は、変えねばならない」
「本当に王宮でよろしいのですか」
「俺だけ逃げるわけにはいかない」
レオンの後ろ。走る馬に跨り、カイザは上を見上げた。
「せっかく迎えに来てくれたんだ。あいつらがしようとしていることに付き合うべきだろう」
「……そうですか」
レオンは一度ゆっくりと目を瞑り、前を見据える。カイザ達はクロムウェル別邸を出て王宮へ向かっていた。シドの話では、ダンテとクリストフ達は王宮に進軍しているとのこと。シドはカイザを助け出したら合図があるまで身を潜めているよう言われていたらしいが、カイザは戦うことを選んだようだ。
「あ、そうそう」
チェシャの背に乗ったシドが腰の小物入れに手を突っ込んだ。
「これ、」
「……あ」
シドがカイザに差し出したのは、ブラックメリーだった。
「お前、拾ってくれてたのか」
「うん。大事な物でしょ?」
ーーカイザ、これをお前にくれてやる。入団した証だーー
ーーブラックメリーを手に入れるだけで俺は盗賊団を引き継げるーー
ーー戦士の証はどこにあるーー
カイザはブラックメリーを受け取り、シドに微笑んだ。
「……ありがとう」
その笑顔に、シドは妙な不安に駆られる。自分の何もかもを包み込むような柔らかい雰囲気。消えそうな……笑顔。シドの脳裏に、ミハエルの寝顔が浮かんだ。今にも泣きだしそうな顔をするシド。カイザはそれに気付いて声をかける。
「…どうした」
片眉を上げて見つめるカイザは、いつものカイザだ。シドは困ったように笑う。
「なんでもない」
「……?」
カイザは首を傾げて前に向き直った。シドはその横顔見つめ、考える。死までもすんなりと受け入れてしまいそうな程に、ふわりと手応えのない笑顔。近くのいるのに、心が離れているような、そんな感覚。シドはフードを軽く下げ、俯いた。
「カイザ、そういえばあの男が来てたぞ」
黒猫が横目にカイザを見て言った。
「あの男?」
「お前が墓地で戦ってた奴だ」
バンディ。カイザの眉が、ピクリと動く。
「レオンが言ってた賊っていうのはたぶんそいつらだ」
「で、バンディは」
「……逃げた」
黒猫は前を見て、悔しそうに言った。レオンは少し驚いたような顔をして黒猫を見下ろした。
「あの爆発を受けて、生きているというのか」
「…動きも危機察知能力も……まるで獣だ。勘の良さだけならシドとどっこいどっこいだったからな」
「では、まだこの邸内に……」
レオンとチェシャが話している中、カイザはシドに言った。
「お前、バンディと戦ったのか」
「え、あ、うん」
シドははっと顔を上げた。カイザは心配そうにシドを見つめる。
「大丈夫だったか?」
「うん。一発蹴られただけ」
「蹴られたって……骨とか折れてないだろうな」
「どこも痛くないよ」
「……お前、変だぞ」
シドの表情に違和感を感じるカイザ。カイザの言葉に、少年は思った。カイザが遠くに行ってしまったのではない。自分が……遠くへ。
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帝都に乗り込む前日のことだ。少年はギバーを手にベッドに寝転んでいた。もしかしたら使う場面があるかもしれない。先から伸びる尖った鋼を自在に操れるよう、練習していた。そのベッドの近くでは、黒猫が猫茶碗に顔を埋めている。
「チェシャー……」
空気に溶けるようなシドの呟き声。夢中で茶碗を舐めていた黒猫は煩わしそうに顔を上げた。
「僕がミハエルの子供だったら、カイザ、喜んでくれる?」
「……」
「だって、カイザはミハエルと結婚してるんだよね。僕がミハエルの子供ってことは、カイザの子供でもあるってことでしょ?」
シドは身を乗り出し、期待に満ちた目で黒猫を見る。黒猫はなんと言っていいのか……考えていた。男女の仕組、結婚の制度。何一つ知らない、子供の解釈。
「……はぁ。考えたところで、いい答が思い浮かばねぇや」
黒猫が飛び上がると、茶碗はカラカラと音を立てて床に転がった。黒猫はベッドで寝転がる少年のフードの上に寝そべり、言った。
「いいか? ミハエルとカイザは結婚してない」
「そうなの?」
「そうだ。ただ、一緒にいるだけだ。一緒にいるからって皆が皆結婚してるってわけじゃないんだよ」
「…じゃあ、ミハエルが僕のお母さんだったら、誰がお父さんになるの?」
「なるんじゃなくって、父親はいるんだよ。お前がこの世に生を受けた時点で絶対、どこかに」
「…カイザは?」
「あいつがお前の父親ってことは、ありえない」
ギバーを握る少年の手が、止まった。先から出た鋼が、軋むような音を立てて引っ込んでゆく。
「……そこで、考えてみろ。仮にお前がミハエルの子供だとしたら……ミハエルにはもう旦那がいたってことになる。ミハエルのことが好きなカイザがそれを知ったら、どう思う」
「……」
「お前に対する気持ちにそう変化はないだろうがな、多少、悲しい気持ちになるとは思わないか」
「……思う」
所謂、失恋じゃないか。自分の存在がもしかしたら……カイザの思いに亀裂を生んでしまうかもしれない。シドは枕に顔を突っ込んだ。フードに乗っていた黒猫はずるずると前に滑り落ちそうになる。踏みとどまり、言った。
「お前がミハエルの子供かもしれないっていう考えは、殆どクリストフの妄想だ。お前がもきゅもきゅ考える必要はねぇよ」
「……もきゅもきゅ?」
「全部大人に任せとけ。お前はまだ……子供なんだからよ」
子供。誰の。
ーーお前の、母親のことだーー
ーーじゃあ、君は、こう言いたいの? カイザとエドガーが出会う前。エドガーには"カイザ"っていう旦那がいて、その旦那が神様で。その子供がシドだって!--
決意めいたような、諦めが入り混じったような黄金色の瞳。困惑と驚愕に鋭くなる銀色の瞳。
ーーお前達の……母親はーー
言おうか、言わまいか。仮面の向こうから聞こえた微かな迷い。サイと自分を気遣ったような言葉の詰まり。それを感じて、聞きたくなくなった。知りたくないのに……何故か、言い知れぬ重責感が少年の小さな背中に圧し掛かっていた。
「……うー」
「だから! もきゅもきゅすんな!」
枕に突っ伏して足をばたばたさせるシド。黒猫はみゃーみゃーと文句を垂れている。考えるな、と言われても無理だ。自分の両親、自分が比翼の鳥に生まれた意味、自分が……どうして堕天してしまったのか。神に見放された少年は、"自分"というものがわからなくなっていた。
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「僕が、誰の子供でも……」
「……?」
少年の言葉に、カイザは首を傾げる。黒猫は足を止め、少年に向かって声を荒げた。
「シド!」
「カイザ!」
少年の声にレオンが馬を止めた。カイザは少し後ろで、瞳を潤ませて自分を見つめるシドを見つめ返す。
「僕が堕天してても、目が見えなくても。誰の子供でも……カイザは僕を、大事な家族だって言ってくれた」
「シド、やめろ!」
「僕がもしミハエルの子供でも、僕のこと!」
「シド!」
黒猫が尻尾でシドの口を塞いだ。カイザは、瞬きもせずにシドを見つめている。レオンは話がわからず、ただ、二人を交互に見るだけ。後ろを向いたまま微動だにしないカイザと……悲痛な叫び声を上げる少年を。
「カイザ! お願い教えて! 僕は……誰なの!」
ーー俺、今は何なんだろうーー
幼い頃、同じことを思った。シドはやはり、同じなのだ。自分という存在が曖昧で、底知れぬ寂しさを感じて。この不安な感情だけは、いつも拭いされない。大人になったとてカイザもずっと、そうだった。
「……シド!」
カイザが名を呼ぶと、暴れる少年と猫は動きを止めてカイザを見た。カイザは眉を顰め、じっとシドを見つめる。シドも、瞳を震わせてその目を見つめ返す。懇願している。答を、居場所を。
「お前がミハエルの子供だとして……お前が、何者かであったとして。それがどうした」
カイザの言葉に、黒猫は驚いていた。この男のミハエルに対する思いも、シドに対する気持ちも……もはや、普通ではない。
「シドは、俺の息子だ」
消えそうな笑顔。憂いを秘めたその光は眩しすぎて、四方八方何も見えないばかりか遠近感さえ鈍らせる。シドは、猫の背中から飛び降りた。カイザは困ったように笑い、馬から下りる。
「……全く、お前は」
鼻先をかすめる、ブロンドの髪。この輝きに溶けて……消えてしまっても構わないから。この温もりを手放したくない。シドは涙を流すわけでもなく、安心しきった表情でカイザに抱きつく。カイザは少年を抱き上げ、優しくその頭を撫でる。
「何度言ったらわかってくれるんだか」
ーー誰の子供でも、お前は俺の大事な家族だよーー
ーーお前が誰の子供でも、あたし達は離れたりなんかしないーー
幾度となく、仲間達は少年にその心を表してきた。それらを無下にするような、独りよがりな不安。少年は申し訳なさそうに、白い軍服に顔を埋める。すると、カイザが鼻で小さく笑った。
「…何度言われても、不安なのはわかるけど」
呆れたような……自嘲したような物言い。少年はこの時、それまで直視しようとしなかった自分という存在と向かい合い、ようやく孤独な死が纏わりついていた過去と思い出に別れを告げた。幼いからこそ愛情には貪欲で、少年だからこそ孤独に敏感。少年は彼に甘えるとともに、彼を受け入れていたのかもしれない。
10年前の墓地を想起させる暗がりの二人。このほんのひと時がカイザに教えてくれた。物語は、始まりに還ろうとしている。こうして、幾度とない出会いと別れ、終わりと始まりを繰り返し、自分は何者とも言えない何人もの自分へと変化してゆくのだ。まるで、神話の主人公のように。この物語が終わったなら、次の主人公はきっと……
「……カイザ」
「…ここにいるよ」
「僕は、何を不安に思っていたんだろう」
この、少年だ。