115.檻の中の猫が狙う袋の中の鼠は
暗闇の中、猫と睨み合う蜥蜴……いや、妖精。先に動きを見せたのは、猫だった。天井を蹴り、地上の軍目がけて降りてきた。鬼達は素早くそれを避け、魔術師達も空を飛んで白猫から離れる。地面は抉れ、建物が音を立てて崩れてた。逃げ遅れた帝国軍が白猫の前足の餌食になり、辺りには砂埃と死体が舞いあがる。
「躾がなってねぇ猫だ!」
「チェシャの方がまだいいですね」
クリストフを砂埃から庇うように抱きしめるルージュ。ルージュはクリストフの肩を支えたまま、剣先を白猫に向けた。切先で渦を巻くように大きくなる炎。白猫はそれに気付き、ルージュの方へ赤い目を向けた。炎の球が人程の大きさになった時、ルージュはそれに剣を突き刺した。炎の球は打ち出された弾丸のように白猫の顔に向かって飛んでゆく。
「和! 行くぞ!」
「あ、え?!」
走り出すクリストフに続き、和も困惑しながら駆けだした。二人は炎の後に飛び上がり、クリストフは鉄扇を、和は刀を振り上げた。二人はそれぞれ、目を狙っている。炎が当たると思われた、その時。白猫が口を開いた。そこから溢れ出る黒い煙に炎が突っ込む。激しい爆発音。煙をなぞるように炎が舞いあがってくる。
「うおっ!」
和は空中でひらりと身を翻してクリストフの手を引いた。少女を庇い、和は爆炎に向かって背を向ける。
「和!」
爆風に煽られ、二人は地面へと落下してゆく。ルージュは顔を顰めて杖を地面についた。杖の先から現れた炎に乗り、二人のもとへ向かう。風を切っていると、弾けるような音がした。ルージュが振り返ると、炎が小さく弾けて尾を引いている。
「……」
ルージュはそれを見て前に向き直り、落下してくる二人を炎で受け止めた。
「大丈夫ですか!」
ルージュは二人を地面に下ろし、炎を消す。弾く音が、遠くで止まる。クリストフを抱きしめる和の背中は焼け爛れている。しかし、和は痛みを感じる素振りも見せずに言った。
「ルージュの旦那! クリストフ様が……!」
和の言葉に、ルージュはクリストフに視線を落す。クリストフは頭を抑え、苦しそうに顔を歪めていた。ルージュは白猫の方を見た。魔術師達と鬼達が、黒い煙の中で戦っている……が、魔術師達がふらふらと落下し始めた。すると、
「ルージュの旦那?!」
突然の頭痛。胸が詰まるような感覚。ルージュまで、頭を抑えて俯いてしまった。和は何が起こったのかわかっていない。おろおろしていると、ルージュが言った。
「あれは……瘴気です」
「さっきの煙か!」
「そう、です。毒気が強い上に、化け猫の瘴気は引火するようです」
和が暴れる白猫の方を見ると、空に魔術師達の姿はなかった。猫の足元には、まだ鬼の軍勢がいた。和は舌打ちをして立ちあがる。
「これは……俺らがやるしかないようだな」
「……和さん、」
ルージュは和の腕を掴み、言った。
「あの猫を、壁の近くまで誘導してもらえますか」
「そんなへろへろで何言ってんだよ!」
和は手を振り払い、怒鳴る。
「この壁を、あの化け猫ごと破壊します」
「壁なんかぶち抜けばいいだろ!」
「これは魔璧です……力づくでは、壊せません」
和は顔を顰めてルージュを見つめる。帽子を深くかぶり、荒く息をする姿は見ているだけで苦しくなってくる。
「瘴気の檻から出るには、それしかないのです」
「……その前に、猫は仕留めちまってるかもしれないけどな」
「いいです。壁に……寄せてもらえれば」
ルージュがそう言うと、和は近くの塀に飛び上がって白猫に向かって駆けて行った。和が去ると、クリストフがゆっくりと身体を起こし、肩で息をしながら横目にルージュを見た。
「腹を壊してやる側が、腹壊されてどうすんだよ」
「まだこれからです。妖精が化け猫如きに負けるわけにはいきませんから」
「あー……こればっかりは、頼むぞルージュ」
クリストフはばったりと倒れた。ルージュの方を向き、眉を寄せて褐色の胸を大きくゆっくり弾ませる。ルージュはその寝顔を見て、苦しげに笑う。
「……この人は本当に」
恐れも何もない。ダンテ同様、仲間を信じ切っている。ルージュは少し遠くの白猫を見つめた。瘴気で満たされている壁の中にクリストフをずっと置いておくわけにもいかない。瘴気に強い鬼とはいえ、三階建ての屋敷より数倍は大きい化け猫が相手だ。勝てるかも怪しいが……ルージュは自分を囲むように杖の先で陣を書いた。ルージュが手を置くと、陣が赤く光った。
「こればっかりは頼みましたよ……和さん」
「……魔璧、ですね」
籠った低いオズマの声。獅子は黒い壁に鼻を寄せている。その鼻筋の上を歩き、ダンテは壁に手をつけた。
「うーん、かなり上等な物だね。どこから引っ張り出してきたんだか」
「壊すとなると時間がかかりますよ?」
「そうだね……」
ダンテは困った顔をして壁を叩く。
ルイズは音が鳴りやみ、辺りに何の変化も現れないことを察すると馬に鞭を打って走りだした。向こうは初めから逃げる気もない。そして、自分達を逃がす気もない。おそらく、帝王の首を取らせて退散する母の考えを読んでいたのだろう。母は、この状況ならばどうするだろうか。クロムウェル別邸へ向かいながら次の手に思考を巡らせていた。そんなルイズの目に、二つの影が飛び込んできた。兵の目を掻い潜るように裏道へ駆けこむ馬に跨る羽織を着た二つの影と……あれは、猫? その背に跨る、小さな影。ルイズは眉を顰め、それを追おうとした。すると、
「ルイズ様!」
ルイズを呼ぶ声。振り返ると、クロムウェル家の近衛兵がいた。
「アンナ様と……エルザ様が!」
ルイズの青い目が、次第に見開かれてゆく。
轟音が鳴り響く壁の中。ルージュが灯した光は、充満してゆく黒い煙に引火して弾け飛ぶ。暗くなってゆくそこで、鬼達は白い化け猫に刀を振るう。白猫は前足と七本の尻尾で鬼を払っては黒い煙を吐き出す。
「さっきからうざったいな!」
和は仮面を上げて化け猫を睨む。その目が、暗闇で緑色に光る。猫は和に向かって前足を振り下ろした。和は避けるわけでもなく、それを睨みつけていた。
「お頭!」
「お頭!」
鬼達は和に向かって走りだそうとした。が、前足は振り下ろされ、突風と土煙に視界を遮られた。
「……東の大工をなめんなよ、子猫ちゃん」
低く、煙に籠った和の声。土煙が晴れてゆくと、白猫の前足がゆっくりと上がってゆく。その下には……
「頭!」
歯を食いしばって前足を持ちあげる和がいた。
「お前ら! 俺がこいつを引きつける! 陣を組め!」
「しかし! この神通力を国外で使うことは……!」
「いいからやれ! クリストフ様があぶねぇんだ、ちんたらやってる時間はないんだよ!」
和は白猫の前足を殴り飛ばした。
「幹屋一門! 呼青の陣!」
鬼達は顔を見合わせ、躊躇い気味にも白猫を囲むように陣を敷いた。そして、それぞれに刀を地面に刺し、それに向かって跪いて印を組んだ。すると、刀を線で繋ぐように地面に陣が現れる。家紋、だろうか。大木を思わせるそれは緑の光を放つ。それに気付いた白猫は驚いて戸惑っている。そこに、和は飛び上がって刀を振り上げた。
「こっちだ化け猫!」
白猫は和に向かって煙を吐き出した。
「だから、それは鬼には効か……!」
白猫の尻尾が煙に触れると、和の目の前で激しく爆発した。鬼達は一斉に顔を上げた。爆炎からうねりながら引き出された尻尾の先に、和はいた。咳込みながら尻尾にしがみついている。
「あぶっ、あぶねぇな!」
和は尻尾の上で立ち上がり、その背中目がけて走りだした。六本の尻尾が和を振り落とそうと襲いかかってくる。白猫は小さく飛び上がり、自分の尻尾に牙を向ける。鬼達のいる地上は揺れ、土煙が舞う。和は軽々と尻尾を渡り、背中に飛び乗った。すると、地上の陣が激しく光った。
「来た!」
白猫の下、陣の中に茂みが現れ始めた。草や花が生えたかと思うと、地面を捲り上げるように大きな木の根が伸びてきた。白猫はそれから逃げようと身体を翻すが、振り返った方にも木は伸びている。木の根は白猫の足に絡まる。白猫は煙を吐き、尻尾を振るい、生き物ように蠢く植物を引きはがそうとしている。
「おー、じゃれてるじゃれてる。楽しいか」
白猫の頭の上。刀をくるくると回しながら和が言った。白猫は首を振って和を空中へ放り投げた。そして、絡みつく木々ごと飛び上がり、和に噛みつこうと口を広げる。
「だが……」
和の目が緑色に光ると、木の幹が和の背後に現れた。先の尖った枝が数を成して白猫を狙っている。ゆっくりと落下する和。その小さな身体が、大きな白猫の視線に並んだ。その時、木の枝の先が伸びて白猫の身体を貫いた。足を、胴を、そして、
「お遊びはこれまでだ」
枝に乗った和の刀が、猫の眉間を貫く。猫の後頭部から激しく血が噴き出した。その血飛沫の中、和が飛び出してきた。地面に落ちようとしている猫の背中を駆け、一本の尻尾を掴む。そして、木に向かって飛び上がった。
「続きは地獄でな!」
和は幹の上でぐったりとした猫を振り上げた。壁の中で大きな猫は弧を描いて空に揺らめく。和はその巨体を、壁に向かって投げつけた。勢いよく飛んでゆく白い猫。壁に当たるか、当たらないかのところ。壁に赤い陣が現れた。いつの間にか、クリストフを抱いたルージュが白猫の胸元に飛び上がっていた。ルージュは剣を白猫に向けている。その先には炎が渦巻き、ルージュとクリストフを包み込むように赤い大きな蜥蜴が現れた。
「聖なる炎よ、行く手を阻む魔の壁に……制裁を!」
剣を突き出すルージュと共に、蜥蜴が白猫を飲み込んだ。赤い炎の中で黒くなってゆく白猫、そして……
「うわぁ!」
突然の爆発。厚い壁を抉る、低い破裂音と激しい爆音。驚いたダンテが上を見ると、爆炎の中から黒い瓦礫が落ちてきた。ダンテは慌ててしゃがみ込み、獅子の鼻を叩く。
「ちょっ……! オズマ! 避けて!」
獅子は軽く飛び上がり、落ちてくる瓦礫を避けた。ダンテはぽかんと煙が噴き上がる穴を見ている。
「魔璧を……ぶっ飛ばしてるよ」
「ルージュですかね」
「いくら火の妖精でも、さすがに無理でしょ」
獅子も上を見上げ、小さく呟く。
「鬼ですかね」
「余計無理でしょ」
「じゃあクリストフさんですね」
「無理……だと思うんだけどやりそうだから怖いよね」
二人が何やら考え込んでいると、壁の中から人影が見えた。ルージュだ。クリストフを抱いている。それを見て、獅子が走りだす。
「ルージュちゃん! クリストフ!」
ダンテの声に気付き、ルージュが下を見た。そして、炎に乗って獅子の元へ飛んできた。穴からはざわざわとぐったりする魔術師を抱えた鬼の軍団が出てきている。
「クリストフ!」
ダンテは炎に飛び乗り、クリストフを抱き上げた。クリストフは薄らと目を開け、苦しそうに笑った。
「あー……ダンテか」
「ルージュちゃん! 何があったの!」
ルージュは悔しそうに頭を垂れ、言った。
「申し訳ありません。化け猫の瘴気に、クリストフ様をさらしてしまい……」
「瘴気……じゃあ、僕の軍は」
「まだ息のある者もいますが、戦うことはできないかと。本当に申し訳ありません。ダンテ様の軍を預かっておきながら……」
ダンテはルージュの肩を優しく叩き、クリストフを見た。
「いや、頑張ったよ。あんな壁に閉じ込められて、瘴気にさらされながらも生き残ってる子がいるんだから。上等だよ」
「……ありがとうございます」
ルージュは帽子を脱ぎ、深々と頭を下げた。
「さて、あとは王手をかけるだけだね。逃げ道は塞いだ。敵のも、僕らのも」
ダンテはクリストフを見て、にっこりと微笑む。
「無茶するな、って言っても……来るんでしょ?」
「当たり前だ」
クリストフは頭を抑え、肩で息をしながら強気に笑う。
「思うように動く手足……それが、あたしに与えられた愛の証だ」
「そうだね、神様に愛されなくて嫉妬に狂った連中に見せびらかさないと」
ルージュは心配そうにクリストフを見ていたが、獅子の黄緑色の視線に気付き、困ったように笑った。獅子も、軽く首を傾げて見せる。動けなくなるまで少女は立ち向かう。その苦しげな笑顔から滲み出る聖母たる強さに、悪魔と妖精は振りまわされる。いや、付き従ってしまう。きっと、その身が朽ちてしまうことになろうとも美女達の心の赴く先へと導かれてゆく。この世の終わりがこようとも……神の使いとして。