114.鼠を狙う猫の檻の中で
指令室の窓にへばりつき、じっと空を見るヨルダ。その隣で、ルイズは何やら苛立っている。
「まだか」
「ダンテ様のお姿が……」
「早くしろ」
「んー……もう少し」
ヨルダは眉を顰め、遠くを見つめる。激化する戦い。革命軍はすでに宮廷内まで迫ってきていた。窓にぺったりとつけた左手の人差し指で、何かを数えるように軽く窓を叩くヨルダ。
「レオン様は!」
勢いよく扉が開く音がした。ルイズは眉を寄せて不機嫌そうに振り返る。そこには、肩で息をするランドール大佐がいた。
「レオンならば、クロムウェル別邸にいると思います」
「何故そんなところへ……! 邸内に入り込まれました! もう限界です! ルイズ様、私はどうしたら!」
「予定通りでよろしいのですが」
「もう王宮に攻め入られるのも時間の問題……!」
「だから、」
ルイズは、冷たい声で低く言った。
「"予定通り"で、いいと言っている」
ランドール大佐はその何の色もない目を見て動けなくなってしまう。防壁を突破され、伏兵まで突破され、宮廷内に流れ込む敵軍。それがまるで……予定通りであったかのような口ぶり。ルイズの冷めた目に捕われていると、窓にへばりつくヨルダが勢いよく両手を窓に叩きつけた。突然の音に驚いて肩を竦めるランドール大佐。すると、ヨルダはにやりと笑って囁いた。
「今ですね」
「了解」
ルイズが振り返ると、兵士達が頷いた。
「よし! 王宮まであと少しだ!」
「……何か、あっさりしすぎじゃない?」
貴族の別邸や軍の官舎が並ぶ宮廷内。不安そうな和の言葉に、クリストフは上空に向かって手を振った。すると、ルージュが炎に乗って降りてくる。
「ダンテとオズマは」
「まだ、のようですが……」
ルージュは眉を顰めて、言った。
「何やらダンテ様やオズマとは違う魔力の流れを感じます。ここは迂回した方がよろしいのでは」
「……そうだな」
クリストフが足を止めた。すると、上を見ていた和はクリストフの背中にぶつかった。
「何、」
「進路を変えるぞ。南方から迂回。王宮へは正門を突破して乗り込む」
「え?! 何でそんな……!」
「いいから早く指示しとけ」
和は溜息をつきながらも後方へ振り返る。その時、
「なんだ!」
「地震?! 地震じゃね?!」
騒ぐ和の頭をクリストフが叩いた。
「ここはあたしが歪みを正した大陸の中心だぞ! お前んとこの火山だらけの小島と一緒にすんな!」
「じゃあなんで……!」
帽子を抑え、ルージュは舌打ちをする。
「まんまと、はめられたようですね」
地響きと共に、軍を囲むように建物が伸びる。それは緩やかな弧を描いて帝国軍ごとすっぽりとクリストフ達を包み込んだ。悲鳴と驚嘆の声が交差する真っ暗な暗闇の中、上空の魔術兵団の杖の明かりがぽつぽつと灯る。
「…嫌な気配がしますね」
ルージュが囁くように言うと、ざわめくような音と何やら呻くような低い声が響いた。ルージュは口で指先を噛んで手袋をとり、それを真上に向かって投げつける。すると、手袋は大きな火の玉になって弾け飛ぶ。明るくなる壁の中。その天井には……大きな白い猫が張りついていた。蠢く七本の尻尾。軍を見下ろす赤い目。チェシャはおろか、獅子の姿をとったオズマよりもはるかに大きい。
「なんだありゃあ! 化け猫か?!」
「どう見ても化け猫だろうが!」
やはり殴られる和。ルージュは渋い顔をして上を見上げている。
「袋の鼠に猫を当ててくるとは……なかなか洒落が効いてますね」
「お前まで馬鹿なこと言ってる場合か!」
「御安心ください。残念ながらここにいるのは鼠なんて可愛らしいものではございません」
ルージュは天井を見上げたまま立ち上がる。
「袋の蜥蜴に噛みつこうなど、腹を壊して当然なのです」
ルージュの赤い目が、暗闇でぼんやりと光る。和とクリストフはそれをただ、見つめていた。
「あ、あれは……」
力無く窓に手をついてランドール大佐が聞くと、ヨルダがにっこりと笑って言った。
「魔璧です。あれを突破できるのなんてダンテ様くらいでしょう。他の兵は皆、猫の餌になるのです」
ヨルダの言葉に、ランドール大佐の顔色が青くなる。聞いてない。そんな顔だ。
「ダンテが出てこれるのであれば意味がないではないですか! それに、そんな危険な物に自軍までも巻き込んでしまっては……!」
「……よくやった」
ルイズの呟きに、ランドール大佐は口を噤んだ。驚いた顔をする彼のことなど気にも留めず、ルイズは窓から離れた。
「何処へ」
ヨルダが声をかけるが、ルイズは振り返りもせずに扉へと歩いてゆく。
「私は一度屋敷へ戻る。おそらく、母もいるだろうからな」
「……そういえば、お戻りになられたそうですね」
ヨルダはにっこりと笑い、前に向き直る。
「お楽しみもほどほどにと、お伝えくださいませ」
ルイズは何も言わずヨルダに背を向ける。そして、何かを思い出したかのように振り返った。ランドール大佐はルイズと目が合い、顔を強張らせる。
「余計なことは考えず、予定通りにしていればいい」
「……」
「しっかりしろ。でなければ、死ぬぞ」
ルイズは抑揚のない声でそう言い放ち、部屋から去って行った。
ーー死ぬぞーー
自分がしっかり、予定通りに戦を進めたところで生き残れるのか。既に目の前では"予定外"の目的も知れない作戦に巻き込まれた兵が命の危機にさらされているというのに。じっとりとした得も言われぬ恐怖に、冷や汗が溢れる。西側の窓。ランドール大佐が手を当てている部分が、白く曇る。
宮廷の南側。そこに聳え立つ時計台の天辺には、縦に連なる二人の人影が。
「オズマー、まだー?」
「急いでますよ、黙っててください」
10歳の姿のダンテを肩車して、オズマは何やら胸を抑えて俯いている。その目は紫に点滅し、呼吸も少し荒い。オズマの頭に置いたダンテの手も、白く淡い光を放っている。
「なんか変なのできてるし」
退屈そうなダンテの視線の先には、帝都のどの建物よりも大きな黒い半球状の壁。クリストフ達が捕われている壁だ。周りの風景からはかなり浮いている。ダンテは小さく溜息をつき、言った。
「早くしないと皆死んじゃうかもよ」
「ダンテさんと俺の魔力を合わせたところでそんなすぐには作れませんよ」
白い光を放つ手を軽く握り、ぽかぽかとオズマの頭を叩くダンテ。
「はーやーくー!」
「うるさいなー……だったらもう血を使いましょうか?」
オズマは眉を顰めて錐を取りだす。ダンテは少し考え、言った。
「……あとどのくらい?」
「そうですね、小瓶一杯程でいけますよ」
「ああ、そうなの。じゃあよろしく」
「…遠慮ってものを知らないんだから」
オズマはぶつぶつと文句を言いながら錐を手の甲に突き刺す。錐を引き抜くと、手の甲から血が噴き出した。それをぐっと握りしめ、オズマは呟く。
「我が血に応えよ。都を覆いし雲に色を、都を包みし大気に音を。金色の鐘楼、この地に轟け!」
手首を掴み、オズマは握っていた拳を下に向ける。その手を開いた瞬間……手の甲に開いた穴から紫の煙が勢いよく溢れだした。それはオズマの上半身とダンテを包み込み、空へと激しく逆巻いてゆく。
「何?!」
ヨルダは強い魔力の流れを感じ、西の窓から南の窓へと駆け寄る。遠くの時計台の天辺から、紫色の煙が立ち上っている。膨大な量の煙だ。それは既に、辺りの空気を黒く淀ませる程都に充満しつつある。ヨルダは顔色を変え、兵たちに向き直る。
「全軍! 急いで宮廷へ戻りなさい!」
兵士達は何がなんだかわかっていない。ヨルダは形相を変えて怒鳴った。
「早く!」
兵士達はばたばたと指令室を飛び出して行った。ヨルダは顔を顰めて窓の外を見る。煙は勢いがついてゆくばかりだ。
「まさか、宮廷を飲み込むおつもりですか……ダンテ様」
窓につく手は震え、みるみる笑顔になってゆく。湧き上がる興奮と幸福感。ヨルダはやはり、うっとりとして塔の天辺を見つめる。
「素晴らしい……さすが、ダンテ様」
誰もいない指令室。女は窓にへばりついて、恍惚の表情を浮かべる。美しい少年の美しい魔法。ヨルダはそれを感じるだけで、胸が疼くのだ。例え、自分の命が狙われているとしても。
ルイズが馬を走らせていると、バタバタと街から駆けこんでくる軍が見えた。帝都の方々に包囲網を張っていた軍までも戻って来ている。片眉を上げ、ルイズは軍に駆け寄る。
「何があった」
「ルイズ様! それが、全軍宮廷へ戻るようにとのことで……」
「誰の命令だ」
「ヨルダ様です」
「…ヨルダ?」
ルイズは眉を顰めて王宮を見上げた。すると、何処からか紫色の煙が漂ってきた。ルイズは馬を止め、辺りを見渡す。
「…何だ」
少しずつ辺りは陰り始め、その影は濃くなってゆく。遠くは明るいのに、宮廷内だけが薄暗い。ルイズはふと、視線を空に向けた。そして、固まってしまう。空にあったのは得体のしれない大きな固まり。中が空洞になったそれは、この宮廷を覆うように落ちてきている。近付く程に、低く空気を割る音が響き始めた。今から出ようとしても間に合わない。
「これではこちらも、袋の鼠じゃないか」
地響きと悲鳴が響き渡る中、宮廷は暗闇に包まれた。地響きが落ち着き始めると、今度は全身を震わすような低い鐘楼の音がした。低く、深みのある……金の鐘楼。
「……それ程までに、カイザ兄様が大事か」
鐘楼の音にかき消されるルイズの声。兵士達はこれが鐘楼だとも気付かず、ただ、魔物の泣き声を耳にしているかのような恐怖にさいなまれていた。誰もが足を止め、震えあがる。
「あー……なんとか完成しましたね」
「さすが公爵!」
暗がりの天辺で、ダンテはオズマの頭をくしゃくしゃと撫でた。そして、ちらちらと明かりが灯り始める王宮を見て微笑んだ。
「予定外だけど、さっさとクリストフ達を助けようか。首を三つ取るために」
「カイザ君のこと、忘れてません?」
「あ。ま、それはシドがなんとかするでしょ」
オズマの頭に両手を重ね、その上に顎を乗せるダンテ。その余裕な笑みが、暗闇を見透かす。
「行くよ、オズマ」
「はいはい、ダンテさん」
塔の天辺で燃え上がる紫の炎。時計台を駆け降りる炎からは、大きな羽を翻す獅子が飛び出した。その頭には銀髪の青年が胡坐をかいて座っている。獅子は塔の半ばで飛び上がり、屋根の上を渡ってゆく。暗闇に光る紫の鬣と黄緑色の目が鐘楼の余韻が響く街を駆け抜ける。銀の鋭い閃光と、共に。