112.戦士になるべくして彼の手は
静寂。いや、外の騒がしさがやけに遠く思える程に部屋の中が静かだったのだ。風でも吹かない限り、時間すら動かないだろう。そんな静止した白い部屋の中で、床に広がる血だけが赤く、鮮明に浮かび上がる。白い軍服を着た男と、金髪の少女が抱き合うように身を寄せ合っていた。しかし、二人の手はだらりと垂れて……動かない。少女は男の肩に額を置き、その胸に寄りかかっている。男は、その場に座りこんでただじっと、その虚ろな目を虚ろな目で見つめていた。激しく音を立てていた心臓は穏やかになって、とくとくと身体に血を巡らせる。自分の小さな鼓動を感じるだけ。血に塗れた手では、手枷をされた手では……その涙すら、吹いてやることはできないから。
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鉄と鉄がぶつかり合う音。カイザは手枷で騎士の剣をやりすごしていた。追い詰められるカイザを瞬きもせずに見つめ、荒い息を潜めながら剣を握るアンナ寵妃。
「……よくも、エルザを……」
母の低い声に、腰を抜かしていた少女が動き出す。
カイザは騎士の頭を組んだ両手で殴り、続け様に膝蹴りを繰り出した。鳩尾を深く蹴り上げられ、騎士はよろめく。カイザは組んでいた指を開いて騎士の剣を掴み取ろうとした。二人は一本の剣を挟んで、睨み合う。カイザがアンナ寵妃に背を向けた、その時だった。
「兄様!」
少女の声。カイザが振り向くと、剣を持ったアンナ寵妃が真後ろに迫っていた。少女がアンナ寵妃の剣に向かって飛びつく。
「放せ! エルザ!」
カイザは少女を見て眉を顰め、騎士を睨む。
「これが……今のクロムウェル家なのだな」
兜の向こう。見開かれた騎士の瞳が震えている。すぐそこに迫っている、端正な顔立ち。美しいブロンド、白い肌、そして……深い、深い青き瞳。その美しさが醸し出す静かで激しい怒りに、騎士の手が緩んでしまう。
「カイザ、様……」
緩んだその瞬間を、カイザが見逃すはずもなく。騎士が既にカイザという存在に飲み込まれていたことなど、知るはずもなく。剣をもぎ取り、カイザは大きく振り上げて騎士の右肩から斬り下ろした。噴き上がる血飛沫に、白い軍服の左半分が赤く染まる。崩れ落ちる騎士を見て、カイザは振り返った。少女と揉み合うアンナ寵妃と、目が合う。正気を失った、血走った目。アンナ寵妃は声を荒げ、叫んだ。
「お前さえ……お前さえいなければ! 私は、私達は!」
「やめて、母様!」
自分を庇おうとする少女。カイザは、少女を助けようと大きく一歩踏み出す。しかし、その一歩でカイザの足は止まってしまう。肉を貫く、低い音がしたのだ。二人の女の間で滴る血。動きが止まる、白い部屋。アンナ寵妃は震える手を離し、少女から身を離す。そして、剣を手放し血でまみれた手で頭を抱える。細かく震え、首を小さく横に振りながら少女を見つめるアンナ寵妃。その目からは、涙が流れていた。
「そんな、エルザ……」
掠れた涙声。少女は腹部を抑え、ふらふらと母に歩み寄る。カイザに背を向けて歩き出す少女。その足元には、真っ赤な足跡が連なってゆく。
「母様……私は死にます」
「…エルザ、」
少女が勢いよく顔を上げたかと思うと、少女は母に掴みかかった。足まで震えていたのか、アンナ寵妃はいとも簡単に押し倒されてしまう。暴れるアンナ寵妃を抑え込む少女の左胸は、横からざっくりと切れ目が入り血が溢れだしていた。
「兄様! 早く!」
少女の声に、カイザは我に返った。少女は苦痛に顔を歪めながらアンナ寵妃に馬乗りになってその手を抑えている。
「エルザ! 何故だ! 何故ー!」
涙ながらに叫ぶアンナ寵妃。覆いかぶさる少女の目からも、涙が流れている。カイザは夢中で駆け寄り、剣を両手で逆手に持ってアンナ寵妃を見下ろす。
「答えろ! エルザ!」
アンナ寵妃の危機迫る表情と、涙。カイザの鼓動が、呼吸が、荒くなる。自分を貶めたのも、父を殺したのも、ミハエルを苦しめたのも……みんな。
「…エルザは、」
少女が囁くように話しだす。カイザは大きく息を吸い上げ、剣を振り下ろした。
「兄様を愛しています」
白い首元を突き破る剣先。母は軽く顎を上げたかと思うと、もう……動かない。引き抜かれた剣と共に溢れだす血。その流れに合わせて、小さく鼓動する身体。口と鼻からも静かに細く血が漏れ出す。その表情は……悲しみで満たされていた。
カイザは後ずさり、剣を投げ捨ててその場に座り込んだ。今になって荒くなる呼吸。全身を震わせる程激しくなる鼓動。視点すら定まらない。カイザは、息を整えようと必死だ。すると、少女が立ちあがり、ペタペタと床に血が吸いつく音を立ててカイザの前に立った。
静まり返る部屋。血の匂いだけが鼻を刺激する。カイザは、少女の白い足に焦点を合わせた。少女の顔が、見れなかったのだ。
「兄、様……」
少女が崩れるように座り込む。カイザの肩に頭をもられかけ、静かに涙を流している。カイザはその目を見つめていた。見下ろした時の少女の丸い頭、身を寄せた感覚。カイザの中で湧き上がる、懐かしい気持ち。
ーーお兄様のお嫁さんになりますーー
ーーじゃあ、大きくなったら離宮へ迎えにいくよーー
よくわかっていなかった幼い頃の口約束が、少女に引き寄せられたかのように鮮明に思い出された。あの時も、エルザはこうして……身を寄せて。
「兄様……私、兄様のこと……」
肖像画の自分をずっと、愛し続けてくれた妹。
「ずっと……待って、おりました」
涙を流しながら、少女は震える声で呟く。そして、カイザを見上げて力無く笑った。その笑顔にカイザは誓う。今、この時だけでも少女が待ちわびていた兄なろう、と。カイザは涙を堪えて……微笑んだ。肖像画のように柔らかく、優しく。
「ありがとう」
カイザがそう言うと、少女は嬉しそうにカイザの背に腕を回して、目を瞑った。温もりに身を任せ、穏やかな笑みを浮かべる。ずっと、この日を待っていた。金髪碧眼の美しく優しい兄が迎えに来てくれる日を、ずっと。少女の白い手は、するりと床に落ちた。涙も血も止まり、ただ、微笑む。光を失った目で……安らかに。
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少女の死体にもたれかかられ、冷たくなってゆく死の感覚をカイザはじっくりと感じていた。感じ慣れた重みと温度。そう、自分は……そういう女を愛してきた。肖像画の自分を愛する少女を抱きしめることなど、できるはずもなかった。ありがとうとしか、言えなかった。カイザは項垂れた頭を上げ、アンナ寵妃の死体を見る。
不思議な感覚だ。先程まであれが動き、喋り、自分に口づけをしていたのだ。そして……この10数年。あれが、クロムウェル家を蝕んできた。カイザは少女を床に寝かせて立ち上がり、アンナ寵妃に歩み寄る。そして、首から下がる3つの鍵を引き千切るようにして手に取った。
この謎多き鍵戦争で鍵を3つ手に入れ、審判の日まで読み解き……ミハエルのみならず、美女達をここまで追い込んだ女。その女が今、目の前で死んでいる。
ーーエルザ! 何故だ! 何故ー!ーー
同情なんてできるはずもない。ミハエルの運命を、自分の運命を狂わせた張本人。愛娘の言動に絶望しきった表情は、それこそカイザにとっては"見たかった顔"なのだ。しかし、
ーー私が殺したわけでもなければ、死に追い込んだわけでもないーー
ーーこれは神の玉座をかけた復讐劇なのですよ、カイザ様ーー
この女の死が、全ての終わりではないのだ。自分の中にも芽生えていた報復心。それすら虚しい物であったように感じる。こうともなってしまえばもう、目の前で死んでいる者達は鍵戦争の参加者ではなく、犠牲者にしか思えなかった。
鍵を握りしめ、カイザは俯く。目を瞑り、この空間を感じる。思いや願いが複雑に絡み合い、引き千切り合う……これが、鍵戦争。
神に選ばれるということ。生きろと言われた意味。自分が何者であるか。それらをカイザは、やっと知る。いや、自覚する。後戻りはできないと、全てを背負わなくてはいけないと何度となく自分を奮い立たせてきたが、それはこれまで自分の存在そのものが曖昧に感じていたからこそ。もう、そんなことをする必要はない。流れ込んでくるのだ……憎かった女の思いも、自分を待ち続けてくれた少女の思いも。全て、この胸に。
「……!」
激しい爆発音。扉の隙間から洩れ出してくる灰色の煙。カイザはようやく廊下の方へ視線を向けた。レオンが遅い。外で闘っているのだろうか。カイザは鍵を手に扉へ近寄り、聞き耳を立てる。何か、話声は聞こえるのだが……それと共に何やら沢山の足音も聞こえる。何だ、何が起こっている。レオンか。いや……
ーー……カイザ!--
帝都の何処にいるかも知れない自分の気配を辿り、クロムウェル家に堂々と入り込むことができるのは……もしや、あいつが。カイザは扉の取っ手をがちゃがちゃと動かす。開かない。そうだ、軍勢が入るのを防ぐためにレオンが鍵をかけて行った。カイザは舌打ちをして扉を叩く。叫ぼうとした、その時。かちゃりと鍵の開く音がした。音がするとすぐさま取っ手に手を伸ばす。力強く握った取っ手は、動いた。