106.手紙と落書きの筆先で
北西、ヴァイエンの街。反帝国軍の内乱に巻き込まれ、荒れ地となっていた。
「はい、これでもう大丈夫っすよー」
「ありがとうございます! この御恩は忘れません!」
頭に包帯を巻いた子供を抱きしめ、涙ながらに感謝をする母親。
「いえいえ。旦那さんの手術もそろそろ終わる頃っす。ご家族皆無事でよかったっすね」
「グレン先生がいらっしゃらねばどうなっていたか……本当に、ありがとうございます」
深く頭を下げる母親を見てグレンは微笑む。街にあった小さな診療所を拠点に、別働隊カンパニーレは医療活動を行っていた。帝国軍が攻め入った後、住民や兵士達を治療する。グレンはわけ隔てなく人を助けらることに充実感を感じていた。母親が診療室を去ると、カルテを持ったルノーが部屋に入ってきた。
「先生、あの帝国兵が目を覚ましましたよ」
「おお、どうっすか、様子は」
グレンは机から顔を上げた。ルノーはグレンにカルテを手渡し、渋い顔をして言った。
「お前らに助けられるくらいなら死ぬ! って喚いてます」
「……そっすか」
グレンが溜息をつくと、ルノーも釣られたように溜息をつく。
「本当にこれで大丈夫なんですかね」
「……」
「死にたがってる奴に手を尽くすは物資の無駄なような気も……」
「いや、いいんすよ。これで。俺達が助けた。それだけで」
グレンはルノーのカルテを見て、漏らすように言葉を並べる。
「どうせ俺は偽善で塗り固められた駄目医者っすし。自己満足の善意を存分に尽くすって決めたっすから」
「そんな、先生は……」
「ルノーやさっきのお母さんみたいに俺の偽善を受け入れてくれる人もいるんすよ。だから、ダンテにとことんついていくっす! この戦争の行く末まで」
駄目医者と言うグレンは、戦争中とは思えない程明るい笑顔を向ける。ルノーはやはり、釣られて笑ってしまう。この笑顔にこれまで何度も救われてきた。カンパニーレも、患者達も。
「次の患者が来るっす。ルノーは持ち場に戻るっすよ」
「はい」
ルノーが部屋を去ろうとした、その時。グレンの背後、轟音と共に鉄の馬車が突っ込んできた。飛んできた瓦礫が頭に当たり、グレンは椅子から崩れ落ちる。
「先生!」
ルノーが慌ててグレンの肩を支える。
「何だ!」
「帝国か!」
轟音にカンパニーレの兵がわらわらと診療室へ集まる。グレンは頭から血を流しながらふらふらと立ち上がる。
「な、なんすか、一体……」
グレンは振り返り、馬車を見つめた。そこにはアポカリプス魔術兵団の紋章がでかでかと描かれている。
「ダンテ将軍の馬車」
ルノーが呟くと、グレンは、あ、と声を漏らして頭を抑えながら馬車に近付く。
「頼んでた培養器具かもしれないっす。オズマが小型してやるって……」
グレンは馬車の扉を開き、固まる。その様子にルノーと兵士達は顔を見合わせ、馬車に歩み寄る。すると、中には流血する頭を抑えて蹲る男が一人。
「ぃぃ痛ってぇな! 何だよ! 何が起きたんだよ!」
「あんた……確かカイザのお友達の」
「…グレン?!」
男はグレンを見て驚いた顔をすると、よろよろと立ちあがって馬車から下りた。
「何でお前がここにいんだよ」
「こっちの台詞っすよ。カイザと一緒じゃなかったんすか?」
頭からどくどくと血を流しながら向かい合う二人。すると、馬車の中にぼんやりと明かりが灯った。男は振り返り、グレンも中を覗き見る。そこには、半透明な少女の姿が。
「ぅお!」
「お、おばけっすか?!」
驚く男の背中に隠れるグレン。半透明な少女はよく見るとダンテだ。二人は同じように目を細めてダンテを見つめる。ダンテは馬車に立ったまま、言った。
『馬鹿な君達にわかるように説明すると、これは喋るお手紙です』
「何言ってんだこいつ」
「さぁ……」
馬鹿な二人は結局首を傾げている。喋るお手紙はそんなことお構いなしに話を続けた。
『僕達は帝都に向かう。フィオールは邪魔なので、グレンに預かって欲しい』
「……は?!」
フィオールは頭を抑えながら叫ぶ。
「邪魔ってなんだよ、邪魔って!」
「ちょっと、聞こえないっすよ黙って!」
グレンはフィオールを突き飛ばして馬車に身を乗り出した。
『彼は今とても危険な状態だ。精神が崩壊しかけている。オズマとルージュちゃんが交代で心の負担が減るよう術を施したから普通に会話もできるし生きることにも支障はない。でも、術を破るような精神的負担があれば次はどうなるかわからない。彼には確実にパリスへ辿り着いてもらうため、帝都戦からは離脱してもらったんだ。グレン、よろしくね』
「精神を?」
「……こうみえて繊細なんだよ」
訝しげな顔をするグレンにフィオールは言った。
『フィオール、』
ダンテの声に、フィオールは馬車の中に目を向ける。半透明なダンテの目は、真剣だ。
『どうせ不服に思ってるんだろうけど、どうか今は安静にしていて欲しい。君が無茶したらクリストフが泣いちゃうからね』
フィオールはダンテを見つめ、困ったような顔をする。ダンテは小さく笑い、言った。
『必ずカイザ達と一緒に迎えに行く。それまではグレンと一緒にいて。わかったね』
カイザと一緒に。フィオールの眉が、ぴくりと動く。
『次に会う時、それはきっと……決戦の地へ向かう時だ』
「……」
『お大事に』
ダンテは無邪気な笑みを浮かべると、ふっと消えた。それに驚きの声を上げる二人。
「消えた!」
「消えたっす! 培養器具は?!」
グレンは馬車の中を見渡す。座席の上に、大きな木箱があった。
「あったー。よかったっすー」
グレンは嬉しそうに笑い、振り返る。そこには、顔を顰めて俯くフィオールがいた。
「……精神、やっちゃったんすか」
「うるせぇな」
フィオールは血で染まった帽子を脱ぎ、髪を掻き上げる。グレンは、うーん、と唸ってフィオールを見つめる。
「そんな悪いようには見えないんすけどねぇ。魔術はやっぱり凄いっす」
「それでも完全には治らないんだよ。気休めみたいなもんだと説明された」
「へぇー。じゃあ、イシドールにでも診てもらうっすか?」
「イシドール?」
フィオールが聞くと、グレンは血まみれの顔で言った。
「そっすよ。俺は精神科は専門外なんすけど、うちのイシドールは精神と脳の専門家医っすから」
フィオールはグレンの両肩を掴んだ。グレンは驚き、目を点にする。
「……治るのか、そいつに診てもらえば」
「そ、そっすね。何しろ精神治癒は時間がかかるんですぐには無理っすけどいくらか回復させることはできるんじゃないっすか?」
「すぐ会わせろ!」
「あ、焦りは心にも身体にも悪いっすよ! 落ち着いて……!」
フィオールに迫られ、グレンは身を引いている。
「あの……」
そこに、ルノーが申し訳なさそうに口を挟んだ。二人は一斉にルノーを向いた。
「とりあえず、お二人ともその頭の傷をどうにかした方が……」
「……」
「……」
フィオールとグレンは互いの顔を見合わせる。二人の血は床に落ち、溶けあった。
「……あ!」
小さな黒猫と共に火を起こしていたシドは、持っていた枝を投げ捨てて走り出した。近くにいたダンテとオズマも顔を上げる。
「クリストフー!」
「シド、死にかけたんだって? フィオールは」
抱きつく少年を抱き上げる少女。
「フィオールはグレンのところに行ってるよ」
「…グレン?」
少女の後ろには、仮面を上げて会釈をする和と仮面の集団がいた。和の背中には、桐の棺が背負われている。
「クリストフ、早かったね」
ダンテは魔術書を閉じてクリストフに言った。オズマも陣を描く手を休めて立ちあがる。
「まあな。鬼は足も速いし体力もある。カイザ達なんかよりずっと扱いやすい」
シドはむっとしてクリストフを見た。クリストフは強気な笑みを向け、言った。
「フィオールは邪魔だから遠ざけたわけだ」
「会いたかった?」
ダンテが聞くと、少女は鼻で笑った。
「別に?」
嘘だ。少女の腕の中でシドはそう思ったが、言わずにおいた。ダンテはオズマに目で合図した。オズマは、はい、と返事をして和に歩み寄る。
「東の方はこちらへ」
「あ、はい」
オズマに案内され、和と鬼達はぞろぞろと動き出す。クリストフはそれを見つめ、言った。
「作戦は決まっているのか」
「うん。今はその準備中」
ダンテが指を鳴らすと、ダンテが座っていた椅子の隣にもう一つ椅子が現れた。3人はそちらへと歩き、クリストフはシドを下ろして椅子に腰かけた。
「御挨拶してきた?」
「御挨拶?」
ダンテが椅子に座り、魔術書を開きながら笑う。少女は煙管を取り出し、葉を詰める。
「ディランの近くの関所だよ。どうせ正面突破してきたんでしょー」
「……」
「…あれ、違うの?」
黙り込む少女を見て首を傾げる。少女は眉を顰めて、言った。
「あたし達が乗り込んだ時には、もう荒されたあとだった」
「…一体誰が……」
ダンテは言いかけた言葉を飲み込む。何かに勘付いたダンテを見て、クリストフを大きく息を吐き出しながら背もたれに寄りかかった。
「ブラックメリーの連中だろうな」
「じゃあ、彼らは僕達より先に帝都へ?」
「わからないが。ノースで滅多打ちにしてやってのに……首だけで食らいついてきやがる」
「さすが、と言うべきなんじゃないの? たかが盗賊団がここまでやってくるなんて」
「そうだな。バンディのことは少し見くびっていたようだ」
クリストフは火をつけて煙を吸う。そして、肘掛けに頬杖をついてふわふわと鼻から煙を漏らした。
「盗賊か……宮廷ではシドとバンディの一騎打ちになっちゃうかもね」
ダンテが言うと、火起こしを再開していたシドが顔を上げた。チェシャはじろりと横目にシドを見る。クリストフは口から一気に煙を吐き出し、言った。
「シドなら勝てる。カイザだって……勝てたはずなんだ。なのにあいつときたら、あの妙な力も使わずに真正面からかかっていって……」
「その力もそうだけど、ノースでなんかわかった?」
「…ほら、」
クリストフは赤い古びた本をダンテに手渡した。ダンテは読みかけの魔術書を膝に置き、それを受け取る。シドはチェシャを抱き上げてダンテの肩越しに本を見た。
「……匂いする。ミハエルの匂い」
シドが言うとダンテはクリストフに視線を向けた。クリストフは、読め、とばかりに顎で本を指す。ダンテは、本を開いた。
「エドガーの家で見つけた。絵本やなんかになる前の、ヴィエラ神話の原本みたいなもんだ」
「これが……ヴィエラ神話」
ダンテはぱらぱらと流し読みして、あるページで手を止めた。本の中間。クリストフは、煙管を咥えて峠の向こうを見つめていた。シドとチェシャは首を傾げている。
「何これ」
ダンテの手が、震える。
「……あたしが知るわけないだろ」
話の中盤。ページの余白の落書き。
「"あなたはカイザなの?"」
クリストフが言うと、ダンテは勢いよく本を閉じた。クリストフは眉を顰めてダンテを見る。
「丁重に扱えよ」
「どういうこと! これ、エドガーが宴に持ってきてた本でしょ?!」
「……」
「神様に見せようとしてたんだよね。じゃあ……この質問も、神様にしようとしてたの?!」
「…知らねぇよ」
「クリストフはエドガーとよく話してたじゃん!」
「知らねぇって言ってんだろ!」
クリストフに怒鳴られ、ダンテは険しい目つきで本を見下ろす。クリストフは、緩く煙を吐き出しながら言った。
「…あいつが本を持ってきたのは、あたしが業輪を手にした宴。2度目の宴の日だ。カイザとは、まだ出会っていないはず」
「…なら、何。カイザって人がもう一人いて、その人が神様だったとでも言うの」
「そうだったのかもな」
ダンテは、本の表紙に置いた手に力を込める。本の下の魔術書のページに、皺が寄った。
「僕達が知ってるカイザとの関連性は」
「…考えられない。とは思うが」
クリストフは溜息をつき、言った。
「今世界で渦巻いているものは全て……繋がってる。そう思えてならない」
「……そりゃあそうだよ。みんなカイザが絡んでるんだもの」
「そうだな。カイザとミハエルが全てを繋いでいる」
ミハエル。今までエドガーと呼んでいたのに、どうして。ダンテが驚いて言葉を失っていると、クリストフが言った。
「東禊神話とヴィエラ神話は、世界を描いた物語。始まりと終わりの男女が……紡ぐ」
地下に広がる大きな施設。和はそれを見て唖然としている。二手に分かれたエントランスで、オズマは振り返る。
「すまないね、仮屋だからちょっと汚くて」
「これが、仮屋?」
「お疲れでしょうし、皆さん今日はゆっくり休んでくださいね。お部屋は右手の通路に用意してありますから」
「ど、どうも」
ぞろぞろと、鬼の一群が右の通路に移動していく。和は少し歩き出してから、立ち止まった。
「あの、」
「? 何?」
地上へ戻ろうとしていたオズマも立ち止まった。和は棺を下ろして、言った。
「カイザ、という男のことを聞きたいんだけど」
「……」
オズマは棺を見つめ、にっこりと笑った。
「クロムウェル家出身の、ブラックメリーの正式な後継者……だけど」
「……神に選ばれたと、クリストフ様が言っていた」
「そうだね、彼こそが鍵戦争の発端みたいなものだから」
オズマはケラケラと笑う。和はオズマを睨んだ。オズマは和を見て、笑顔を崩さぬままに俯いた。眼鏡のレンズが反射して、その瞳は光に隠れる。
「彼を知るということは、この世を……世界そのものを知るということさ。たかが鬼の君や、悪魔の俺が辿りつけるわけがない」
「だったら、何であんた達は闘ってるんだ」
オズマが顔を上げ、怪しく笑う。
「自分のためだよ」
そしてぴしゃりと、冷たく言い放つ。オズマは和に歩み寄り、棺に手をかけた。
「皆自分のために戦ってる。戦争なんていつもそんなものだろ? それに」
「……」
「知らぬが仏、なんてね」
桐の棺が粉々に散り、中から漏れ出すようにミハエルが現れた。崩れるように重力に従う身体。それに反して舞い上がる黒髪。和の目の前が、漆黒に染まる。オズマは倒れかけたミハエルを受け止め、背負った。
「カイザ君に会えばわかるよ、きっと。鍵戦争と彼が、世界の終わりとこの美女が、どれほど密接に関わっているのか」
「…そこまでわかってて、何で教えてくれないんだよ。あんた本当は、カイザが何者かわかってるんじゃないのか!」
和が言うと、オズマは困ったように笑った。
「知らないよ。どれもこれも、確証はないんだ。でも、俺は信じてるよ。カイザ君は必ず運命の至るべき場所へ辿り着く」
ーーあの男は必ず……業輪に辿り着くーー
女の勘だとはぐらかすクリストフ。目の前の男も、また……
「誰も知らない。本人でさえもわかってない。神のみぞ知る物語は今……佳境を迎えてる」
この男は、何を知っている。いや、知っているのではない。感じている。クリストフも、ダンテも、あの小さな子供でさえ。カイザという男に会えば……自分もわかるのだろうか。オズマの背にもたれかかる黒髪の美女を見つめる和。さらさらと、肩にかかった髪は腕と並行に垂れさがる。まるで、舞台の幕が下ろされるように。