105.貴族達はそれぞれに思う
「レオン様、」
レオンが馬を止めた。その後ろ、手枷をはめられたカイザはレオンの肩越しに前を見る。そこには10人程の騎兵隊がいた。
「急ぎ戻られるようにとのこと。目標は」
「……この通り」
レオンは少し馬を歩かせ目の前の兵士達にカイザの姿を見せる。そして、羽織りのフードを脱がせた。兵士達の感嘆の声が上がると、カイザは無表情で反対側を向いた。
「確かに。これよりは我々が先導致します」
「了解」
レオンはカイザにフードをかぶせた。
クロムウェル家を出てからは帝都までの道程を拠点は挟みながら移動していた。レオンはあれから魔法に囚われた様子はない。しかし、他の騎士達もいたために表立ってカイザに仕えるわけにもいかず、仕方なく拘束具をつけさせていた。
「…ルイズは、どうしている」
「帝国軍中尉にして今や大将代理。元帥の右腕です」
「……」
この増援、急かさねばならない事情でもできたのだろうか。カイザが考えていると、前方から馬に乗った兵士がレオンに近付いてきた。走りながら、レオンと兵士の馬が横に並ぶ。カイザは視線を落して顔を伏せた。
「レオン様、帝都に戻りましたらすぐランドール大佐のところへ」
「私は帝都戦で前線を任されている。お会いする時間はない」
「そのことでお話がしたいと。ランドール大佐はこの度帝都戦副指揮官に任命されましたので」
「……将官は」
「この度は援護に回られました。アンナ様のご指示です」
カイザはフード越しに兵隊を見る。
「ルイズ様がレオン様を大佐の補佐にと推薦されました」
「……そうなるだろうな」
「ですので、帝都戦ではクロムウェル家近衛隊隊長ではなく、帝国軍副指揮官補佐として闘っていただきます」
無言。これは事実上、クロムウェル家が帝国軍を掌握したことを意味する。
「カイザ様、」
兵士はカイザに声をかけた。カイザは俯いたまま、応えない。
「長旅御苦労さまです。手荒な歓迎をお許しくださいと、アンナ様が申しておりました」
「……」
「今のうちに外の景色をよく目に焼き付けておかれよ、と」
カイザが顔を上げ、兵士を睨んだ。兵士は兜越しにカイザを見つめる。
「…では」
兵士は馬を走らせ先頭の隊へと戻って行った。カイザはその背中を睨み、舌打ちをする。そして、レオンの背中に頭をつけた。
「カイザ様、」
「わかってる。何も言うな」
カイザが言うと、レオンは視線を前に戻した。
「アンナ寵妃に会ったら今の台詞をそっくりそのまま返してやるよ」
「…本当に、御立派になられました」
「立派になったわけじゃない。盗賊育ちは皆諦めが悪いんだ」
「……誘拐犯を殺してやりたくて仕方がなかったのですが。今となっては育ての親に感謝したいくらいです」
育ての親。カイザは、小さく笑った。
「そう言ってくれて、嬉しいよ」
カーテンの隙間から朝日が覗く。乱れたベッドが照らされ、もそもそと白い足が動いたかと思うと一糸纏わぬ女が髪を撫でつけながら身体を起こした。
「…朝か」
女の呟きに、隣の男は慌てて身体を起こす。
「お、おはようございます」
「おはよう」
女は微笑み、ベッドから下りる。脱ぎ散らかされた衣服を手にする女。白く柔らかな肢体。吸いつきたくなるような衝動を抑えながら、男はその背中を見つめて言った。
「ア、アンナ様……」
「なんだ?」
男は床に両足を下ろし、ベッドに腰掛ける。不安気な表情でアンナ寵妃の足元に視線を置く。
「…何故、私に副指揮官など」
「……一晩一緒にいてもまだわからぬか」
アンナ寵妃の踵が、くるりと翻る。男が顔を上げると、アンナ寵妃は柔らかな笑顔を向けて歩み寄ってきた。そして、男の唇を指でなぞり、囁くように言った。
「期待しているのだ。何にも染まっていない白き軍人の誠実さと、その若さで大佐にまで上り詰めた力量に」
「……」
「案ぜずともよい。ルイズがレオンを補佐にと推したそうだ。それに、私もいる」
アンナ寵妃の温かな掌が、男の頬を包む。男はごくりと唾を飲み込んでアンナ寵妃を見つめる。
「一人ではない」
その微笑みに吸い寄せられたのか、男はアンナ寵妃の首に腕を回してその唇を唇で塞いだ。そして腕を掴み、ベッドへ引き寄せて覆いかぶさる。
「アンナ様……アンナ様!」
滑らかな肌に口づけをし、何度も名を呼ぶ男。切なげな、興奮に満ちた表情。それを見てアンナ寵妃は笑う。髪に指を絡ませるように、男の頭に手を添えて。
「アンナ様、」
腰を叩くアンナ寵妃が振り返ると、ヨルダがいた。ヨルダはくすくすと笑う。
「お疲れ様です」
「本当に疲れた」
アンナ寵妃は舌打ちをした。
「これだから若い男は。まるで獣だ」
「ランドール大佐にホーネル元帥、それに、国王陛下。たった一つしかないお体は大事にしてくださいませ? 大佐のようにお若いわけでもないのですから」
「若くもない私を労わるべきは私自身より、構ってもらってるあやつらの方だ」
アンナ寵妃は溜息をついて腰を撫でる。
「これで帝国はアンナ様の物ですわね」
「そうだな。アポカリプスなどに頼らずとも、いつでも陛下の首はとれる」
「私はダンテ様に帝都までいらして欲しいのですが」
ヨルダは悩ましげな顔をする。アンナ寵妃はそれを横目に、言った。
「カイザ様が美女と関係を持っている場合と、奇襲を仕掛けてくる場合。来るとしたら理由はこのどちらかか、両方だ。焦らず待つさ」
「もしカイザ様と繋がっておられたとして、如何なさるおつもりです?」
「そうだな……まずは、湖の見えるバルコニーでお喋りでもするかな。ケーキと茶を振る舞い、鍵戦争について語ろうじゃないか」
「あら、楽しそう」
ヨルダはくすくすと笑う。
「ただ殺すだけではつまらぬ。仮にも神の嫉妬を煽る容姿をお持ちだった方。今のご成長ぶりによっては、遊び尽くしてからでもよいな」
「酷いお方」
アンナ寵妃は首を捻って、その肩に手を置いた。そして、伏し目がちに言った。
「獣のような大佐も、老目した陛下も。私の身を汚して喜んでいる」
「人間にとって一番楽しいと思う瞬間は危険と破壊に身を置いている時、ですからね。抱いてはならぬ女を抱くこと程、楽しいこともありませんもの」
「そうだな。快楽を得るに男はいつも"汚す側"であると思っている。だから今度は、私が男を食うのだ」
アンナ寵妃は妖しく口角を吊り上げる。
「神に選ばれし御子を汚して……天罰が下ったらどうなさるおつもりで?」
「はっ、下すつもりならもっと早く下しておろうが。カイザ様を殺そうとし、国を乱し、神の玉座を奪おうとしておるのだからな。それでも私は生かされている」
「神など、存在しないのかもしれませんね」
「いや、いるさ」
「……」
「この条理不条理が渦巻く世界こそ神なのだ。我々は常に神の手の内にある。そして踊らされてきた。運命などという、くだらない物にな」
漠然とした信仰心。アンナ寵妃は誰よりも世界を憎み……誰よりも世界を愛しているのではないか。ヨルダがそう考えていると、アンナ寵妃は鼻で笑った。
「本当に、くだらない」
「……」
「なあ、ヨルダ?」
ヨルダを捕える青い瞳から気だるそうな色香が漂う。類稀なる"女"の才。ヨルダはにっこりと微笑んだ。
「ええ……素晴らしいですわ」
女が子を生み、男が世を統べ、男が統べた世を女が壊す。繰り返されてきた歴史。女は常に、始まりと終わりに立っている。ヨルダはこの女こそ、世界の終わりと始まりを手にすると確信していた。それが達成された時、自分はダンテを手に入れる。女達はそれぞれそっぽに視線を向け、笑顔を浮かべている。何も言わないままに、二人は廊下の向こうへ消えた。
大きな両扉の前。ルイズは足元を見つめて立っていた。以前置いた箱が、無くなっている。
「……」
ルイズは顔を上げ、扉をノックした。
「エルザ、」
やはり返事はない。ルイズは視線をおとして、言った。
「…皇太子殿下との婚姻が正式に決まった」
扉の向こう。暗い部屋の中で、少女は顔を上げる。
「兄である私としては、お前の気持ちも考えずに決めてしまうのは悪いと思っている。今ならまだ間に合う。含むところがあるなら、部屋に籠っていないでしっかりとその口で話すのだ」
「……」
「エルザ」
ルイズは溜息をついて、扉から離れた。コツコツと遠のいてゆく足音。それを聞きながら、少女は震える手で一枚の絵を抱き締める。
「兄様……カイザ兄様……」
ぽろぽろと流れる涙が、金の額縁を伝う。
「……エルザ様、エルザ様」
「!」
男の声に、エルザは扉へと駆け寄る。そして、躊躇うことなく鍵を開けた。扉がゆっくりと開き、廊下の明かりが細く部屋に刺し込む。男は扉の隙間からするりと部屋に入り、急いで扉を閉めた。
「エルザ様、」
「テナー……私は、どうしたら!」
エルザはテナーと呼ばれた男にしがみついた。男は困った顔をしている。ギルデナンド・リド・テナー。"テナーの遺作"の作者、ギルバード・リド・テナーの血を引く天才画家。書斎の窓の仕掛け、ルイズが穴を開けた肖像画、そして、エルザがいつも眺める肖像画。これらを手掛けたのは他でもない、彼である。
「お話は聞いております。なんでも皇太子殿下との婚姻が決まったとか」
「お兄様、早く、早くエルザを迎えに来て……!」
エルザはその場に崩れるように座り込み、手を組んで祈る。テナーはベッドに置かれた肖像画を見た。飾るわけでもなく、いつもその手に……彼の頭に、少女と出会った時のことが浮かび上がってくる。3年前、ちらほらと雪が降り始めた秋の終わり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「リザ様と、カイザ様をですか」
「ああ、この書斎に一枚置きたい。できれば家臣達にはわからぬような仕掛けも欲しい」
回転椅子に座る男は、窓を見つめたまま言った。テナーはその背もたれを寂しげに見つめる。そして、頷いた。
「…かしこまりました、旦那様」
男は振り返り、小さく微笑んだ。
テナーは主人のために二枚の窓を作る。一枚は透明な窓、一枚は半透明な黒い窓。二つが重なった時、黒い窓から薄らと透ける光が透明な窓に煌く絵画を描き出す。これは、偉大な遺作をこの世に残した曾祖父が解読したロストスペルであった。主人の信頼を受ける一人の騎士に手伝ってもらい、書斎に設置した。木漏れ日に透ける妻と子を見て涙を流す主人。テナーは、これ以上の作品はもう作れないだろうと思っていた。どんなに贅を尽くし、どんなに美しい額に入れても……主人が涙を流すのは、この一枚きりだと。
暫くして、主人は病を患った。面会すら許されず、仕事も回ってこない。テナーはクロムウェル家専属画家の任を外された。
何を思うわけでもなかった。主人が病に伏せっているのだから、仕方がない。ほんの少しの寂しさと共に屋敷を後にしたテナーは、待ってましたとばかりに宮廷画家に任命された。しかし、あまり嬉しさを感じない。出世したとて、書斎の一枚を超える作品は作れないと思っていたからだ。それでも生きるためには仕事がいる。テナーはその身を帝都に移した。
「あなたなのでしょう?! お兄様の……カイザ兄様の肖像画を描いたのは!」
テナーの家に駆け込んで来た一人の少女。面会室でテーブルに身を乗り出し、テナーを見つめる。テナーはその瞳に圧倒されて、そうです、と小さく呟く。少女は目に涙を溜め、ソファーに置いていた布に包まれる絵を差し出してきた。
「……この絵を、直してください」
「……」
テナーはそっと、布を捲る。見事に穴が開いた自分の絵。見る者を虜にした少年の顔を隙間風が通る。テナーは顔を上げ、少女を見た。
「…あの、あなたは」
姿勢よくソファーに座り膝に手を置く少女。真剣な眼差しでテナーを見つめ、言った。
「私はエルザ・レオ・ド・クロムウェル。カイザ兄様の、妹です」
テナーは、少女の目に主人の面影を見た。遠くに行った人を求める目。自分の絵を、求める目。
「この絵を描いたのがあなただと聞き、ここまでやって参りました。どうか、どうかお兄様を……」
少女は震える声で言った。
「……わかりました。この仕事、受けさせて頂きます」
テナーが言うと、少女は嬉しそうに笑う。その目からは涙が溢れていた。
「よかった……よかった。ありがとうございます、テナー画伯」
画家としての使命感より、クロムウェル家への思い入れがテナーを動かしたのだろう。あの書斎の一枚。あれを……思い出して。
内密でとのこと。テナーはカイザの肖像画を復元させ、エルザが再び取りに来るのを待った。しかし、仕上がりの報告をしても一向に来る気配がない。そうこうしているうちに時間は流れ、帝国と革命派が北で戦いを始めた。
「クロムウェル家が帝都に?」
「はい」
家にやってきたのは、クロムウェル家の執事。
「エルザ様が、是非屋敷にいらして欲しいと」
「……」
「例の絵を持って」
嫌な予感がした。テナーは執事に案内され、クロムウェル家の別邸へと赴く。そして、エルザのいる両扉の部屋に足を踏み入れた。暗い部屋。ベッドの上に腰掛け、項垂れる少女。
「…エルザ様、」
「……テナー」
少女は泣きだしそうな顔でテナーを見る。泣いてしまう。テナーは、あたふたと持ってきた絵を渡した。少女は木箱を受け取り、蓋を開けた。そして、驚いたような顔でその絵を見つめる。
「…カイザ兄様」
肖像画の少年の名を呟き、少女は笑った。あの時の主人と同じように……涙を流して。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あれから数カ月。部屋に籠る少女が扉の鍵を開けるのはテナーが来た時だけとなった。テナーは少女の不安も、思いも、よく理解していた。そして、クロムウェル家の内情も。
「……エルザ様、」
テナーに呼ばれ、エルザは顔を上げた。テナーはしゃがみ込み少女を真っ直ぐに見る。
「部屋をお出になってください」
「…嫌よ。母様にも兄様にも会いたくない。私は知ってるわ、あのお二人が何をしようとしているのか! 私まで利用して、カイザ兄様まで……!」
「その気持ちを、ちゃんと伝えるのです。でなければこのまま皇太子殿下の御妃になってしまうのですよ」
「……」
「…それと、言おうか言わまいか……悩んだのですが」
テナーは辛そうな顔をして、ゆっくりと言った。
「私は、近いうちに帝都を離れなくてはなりません」
少女は、悲しみに顔を歪ませる。
「戦争が落ち着くまでは国へ戻るようにとのお達しで」
「そんな、あなたがいなくなったら私は……!」
「カイザ様が、見つかりました」
混乱していた少女の顔から、ふっと力が抜ける。驚きと、安心と、喜びと。様々な感情が少女の中で駆け巡っているのだろうが……テナーは、言った。
「カイザ様は今レオン様と共にこの帝都へ向かわれております。エルザ様……これがどういうことか、おわかりですか?」
「……」
少女の涙はもう、止まっている。その目は思考に耽っていた。自分に何ができるのか。何をすべきなのか。テナーをそれを見て優しく微笑む。
「エルザ様、あなた方クロムウェル家の人々はいつも私の心を奮い立たせてくれました。国に帰って、描きたいものもできました」
「…テナー」
「完成したらば送ります。どうか……お元気で」
後にテナーの遺作を越える超大作、古の技法ロストスペルを使った一枚の絵画が生まれることとなる。"テナーが人生で最も愛した二人"と称されるその絵の題名は、"再会"。金髪碧眼の少年が空から舞い降り、薄暗い部屋に手を差し伸べる。窓から差し込む光の先には、少年に向かって手を伸ばす潤んだ瞳の少女。触れそうで、触れない。その指先のもどかしさに見る人は切なさと……二人の悲劇性を感じる。
テナーはこうなることを心のどこかでわかっていたのだろうか。この兄妹の再会が、如何なる結果をもたらすのか。テナーがこの絵を完成させた時、送り届ける先は……もう。