103.思い出は再現される
なんとなく、覚えがあるような。しっかりとは思いだせない。自分はここにいたはずなのに、何故か初めて来た場所のように思える。
「ここが、旦那様の書斎でございます」
レオンが扉を開く。窓から差し込む光が、カイザの視界に飛び込んでくる。
ーーカイザか、どうした?--
窓の近くのデスク。大きな回転椅子に座る父が、こちらへ振り返る。その笑顔はいつも逆光で、よく見えなかった。しかしその声は……いつも、優しかった。
カイザが一歩、部屋に足を踏み入れた。目の前の椅子は背もたれをカイザに向けている。父の姿は、……ない。ゆっくりとデスクに歩み寄り、少し埃がかぶった表面を軽く撫でる。綺麗に整頓された本や資料。机の上には、書きかけの師団編成資料があった。部屋を出る直前、いや、死ぬ直前まで……ここで、仕事をしていたのだろうか。
「私と、旦那様の秘密です」
カイザが顔を上げると、レオンが隣に立っていた。レオンは、一枚硝子の窓をじっと見つめている。
「…秘密って、なんだ」
カイザが聞くと、レオンは窓を開けた。少し引っかかりながらも、窓を上へと上げてゆく。ひんやりとした風が部屋に吹き込み、デスクの資料をふわりと舞いあげる。カイザは落ちそうになった紙を手に取った。すると、部屋がふと暗くなる。カイザがレオンを見ると、レオンは一枚硝子の向こうの遮光硝子を引き下げていた。何で、書斎の窓にそんなものが。カイザが不思議に思いながら見ていると、レオンは上に上げていた一枚硝子をゆっくりと、下げた。
「……」
上から下りてくる窓に白くキラキラと浮かび上がる模様。二枚の窓が重なり、そこに現れたのは……笑う母と、幼い自分。
「これが、秘密です」
外の明かりがぼんやりと窓に映し出す一枚の絵。母に抱かれ、笑う自分がそこにいる。捨てられたとばかり思っていた幼少の頃の自分に、見せたかった。こんなにも……こんなにも愛されていたと。父はずっと一人で、ここで……カイザの唇が震え、目頭が熱くなる。
「!」
カイザははっとして椅子を見下ろした。そこには、自分を見て微笑む父が座っている……ような、気がしたのだ。幻は幻のままに、父の姿は頭を過っただけで目の前には空の椅子しかない。カイザが視線を椅子から離した。
「……」
先程、窓の外を眺めていた時と同じ温度ない視線。レオンはじっと、窓の絵を見つめていた。
「…行きましょう」
レオンはすたすたと窓を離れる。カイザはその背中を見つめ、再び絵に視線を戻す。自分は確かにここにいた。ここにいて、溢れんばかりの愛情を注がれてきた。
「カイザ様、」
冷たく自分の名を呼ぶレオンも……
「…ああ、」
カイザは、椅子の背もたれを軽く撫でた。
ーーただいま、行ってきますーー
心の中で父に呼びかけ、カイザは踵を翻す。
「おかえり」
扉へと歩くカイザの足が止まる。
「気をつけてな」
カイザが振り返ると、そこには……笑顔で自分を送り出す、父の姿。驚きで見開かれたカイザの目からは、涙が流れる。ぼやける視界の中、父は……消えた。
「…カイザ様、」
足が震え、声が出ない。しかし……
「……」
カイザは涙を拭い、大きく息を吐いてレオンの方を向いた。
「行こう」
しっかりとした声色。カイザは力強く踏み出し、振り返ることなく部屋を出る。そして、レオンがその扉を閉めた。ぱたん、という音がカイザの胸に寂しく響く。
「次は、何処へ」
「……」
レオンに聞かれ、カイザは言った。
「中庭だ」
「かしこまりました。それが最後で、よろしいでしょうか」
「かまわない」
レオンは軽く頭を下げ、歩き出す。昔はあんなに高いところにあったレオンの長い白髪が、今は目の前にある。不思議な感覚だ。
「中庭でございます」
白い両開きの扉。レオンが扉を開けるとカイザは迷うことなく踏み出した。緩い風が庭で遊び、手入れのされた花壇と木々がカイザを迎える。
「……覚えているか」
カイザはレオンに背を向けたまま、言った。
「ここで俺は、お前にその首輪を渡した」
「……」
「子供ながらに、俺はお前の強さをわかっていたんだ。そして、憧れた」
カイザが振り返ると、レオンは真っ直ぐにカイザを見据えていた。風はレオンの髪をさらさらと靡かせ、遠い空へと去ってゆく。レオンは、何も言わない。
「お前はクロムウェルの私軍ばかりか、帝国でも英雄視される騎士。そんなお前なら、誰が敵で、誰と闘うべきかわかるはずだ」
「……」
「俺か。それとも……アンナ寵妃か」
レオンは瞼を伏せ、言った。
「…申し訳ございません。カイザ様」
カイザは黙って、次の言葉を待つ。
「……あなたのお父上を守れませんでした。私は、近衛騎士失格でございます」
ゆっくりと開かれる瞼。
「私は、あなた様にお仕えする資格すら……もう、」
眉頭を寄せ、目を潤ませるレオン。支離滅裂な会話。しかし、このレオンは……本物だ。カイザはレオンに歩み寄り、その目を見つめる。そして、微笑んだ。すると、レオンは涙を流しながら跪く。15年前も、ここで……
「レオン、」
カイザはレオンの前にしゃがみ込む。レオンは俯いたまま。
「お前の身に、何があったというんだ。まるで今のお前は……二人、いるようだ」
「……」
レオンは肩を震わせながら、言った。
「魔法にございます」
「魔法?」
「アンナ様の命令には背くことができぬよう、自我を失った人形となる魔法にございます」
ヨルダ。カイザは眉を顰め、レオンを見つめる。
「アンナ寵妃は何をしようとしている」
「…伏撃です」
レオンの言葉に、カイザは言葉を失う。
「伏撃だ」
帝国宮廷。縦長のテーブルを囲む男達に混じり、アンナ寵妃は言った。
「しかし、革命派は皆西へ向かって移動している。西に追い込みをかけるのが妥当だ」
「今なら袋の鼠にできる」
豪華な軍服に身を包む男達は口々に西への進軍を称える。アンナ寵妃はテーブルに両肘をつく、豊かな胸がテーブルに乗り、白く瑞々しい胸が窓から差し込む光に照らされる。アンナ寵妃の妖しい笑顔に、男達は口を噤む。
「何故、彼らが西へ向かっているかわかるか?」
アンナ寵妃の問いに、男の一人が顔を顰めて言った。
「陣地を広げるために決まっている。北西の拠点は我々の手に落ちたのだからな」
「ロストスペルを扱う集団だ。奇襲を企てているやもしれん」
アンナ寵妃は馬鹿にしたように笑う。男の顔は、ますます険しくなる。
「陣地を広げ、どんな策を練ったところで大陸を統べる帝国に敵うとは思うてないだろう」
「……」
「私の予想は、アポカリプスが最後の望みをかけて帝都へ攻めてくる、といったものであったが……」
「だから、西からの奇襲が考えられると」
「黙れ」
口を挟んできた男に、アンナ寵妃は冷たく言い放つ。
「この私が、ろくに考えもつかぬお前達のためにわざわざ説明してやってるんだ。大人しく聞け」
男は言葉をテーブルを叩き、叫んだ。
「愛人風情が! たった数回貢献したからといい気になるな!」
「……お前達がぐずぐずしていたところ、私がほんの少し手を貸してやったからこうして北を制圧できた。貴族の賊軍を洗い出せたのも、誰のおかげだ?」
余裕綽々のアンナ寵妃に、男は顔を真っ赤にしてテーブルに叩きつけた拳を震わせる。アンナ寵妃はそれを見て鼻で笑い、言った。
「……さて、何の話だったかな?」
アンナ寵妃が隣の男に首を傾げて見せた。他と比べて若い軍人であるその男は顔を赤らめ、西へ向かっている革命軍の狙いです、と小さく答える。アンナ寵妃は、ああ、と声を漏らして前に向き直る。
「私が考えているのは、西への移動自体が偽装であるということだ」
「態勢を立て直すために逃げたわけじゃない、ということか」
男の一人が聞くと、アンナ寵妃はそんなところだ、と曖昧な答えをした。
「西へ移動していると見せかけ……ここへ奇襲をかける。これであれば、少数でも勝てる可能性が一気に上がるからな」
「なれば帝都の守りと西への配備を……」
「だから、黙れと言っている」
アンナ寵妃が面倒臭そうに言うと、男は言葉を飲み込んだ。
「数回制圧に成功したからといい気になっているのはお前たちだ。今度は革命派をまとめ上げた英雄ダンテが相手なのだぞ。魔法を使う連中を相手に、今までどおり数でかかって勝てると思っているのか。実際に、お前達はダンテの軍に苦戦してきた。そしてこの短期間でアポカリプスは結成され、西への進軍を進めている。だから伏撃をしようというのだ。攻め入るより、守る方が確実に勝てる。25年前のゼノフ戦を思い出せ」
帝国が煮え湯を飲まされた一戦。一人の騎士と一般市民の伏撃に敗北したあの戦い。
「猛獣の尻尾を追って噛みつかれるくらいなら、餌をぶら下げて待ち伏せる方がはるかに有利。それに楽だろう」
「…陛下を餌にするとでも言うのか」
アンナ寵妃は驚いた顔をして男を見つめる。
「なんて無礼なことを」
「あなたがそのようなことを申されたのだ」
「餌は既にこちらで準備をしてある。うちの近衛隊に任せておけばよい。お前達はただ、攻め込んでくるであろう革命軍に備えていれば」
「あなたが用意した餌で、本当に来るのか……アポカリプスは」
男が聞くと、アンナ寵妃は少し考え、言った。
「そうだな。来るか来ないかは五分と五分。しかし、どちらに転んだとて二兎追う者に一兎もくれてやる気はない」
鎮まり返る一室。アンナ寵妃の空気に飲まれて男達は黙り込む。二兎を追う。その意味を男達はわかっていない。
「よいな。帝都にてアポカリプスを待ち受け総攻撃をかける。来ようが来まいが、西への進軍はその後だ」
アンナ寵妃は指を組んでそこに顎を乗せる。
「ヨルダの対魔術に関する戦略を元に伏撃の戦術を練る。ランドール大佐、」
「は、はい」
名前を呼ばれ、隣の男が慌てて返事をする。
「我が息子ルイズ……帝国軍大将代理の下、帝都戦副指揮官に任ずる」
「待て!」
正面に座る男が立ちあがった。
「誰が指揮をとるかを決めるのは国王陛下だ! たかが代理の若造に大事な帝都戦を……!」
「よろしいですわね、陛下」
上座に座り黙って会議を傍聴していた国王は、深く一度、頷いた。立ち上がった男は唖然としている。ランドールも、口を開けて国王を見つめていた。
「……と、いうことだ。吠えるしか能のない老害は、大人しく若き精鋭に身を任すがよい」
「……」
「これで、仕舞だ」
アンナ寵妃の唇が緩い弧を描くと、男は倒れ込むように椅子に座った。アンナ寵妃はそれを見つめ、笑う。こうして帝国はクロムウェル家の手におちた。たった一人の女の、狡猾な策略によって。
「名目は帝都戦となっておりますが……本当は、試しておられるのです」
「試す?」
「カイザ様と伝説の美女たちに、如何なる繋がりがあるのか」
レオンは辛そうな声で言った。
「帝国など、最初から眼中になかったのです。全ては……全ては、鍵戦争のため。世を混乱におとしめて神の玉座を手に入れようとしておられる」
「……」
「カイザ様、鍵戦争などに関わってはなりません。私の首を撥ね、今すぐお逃げください」
戦争を利用した撹乱。美女を容赦なく追い込もうとする戦略。鍵戦争は、カイザの想像を絶するまでに規模を拡大していた。自分の身一つで帝国が玩具にされ、美女達が乱される。
ーーカイザ、お前はわかっていない。自分にどんな使命が課せられているのか……--
使命なんてものじゃない。カイザの身に圧し掛かっているのは……世界だった。自分の守るべきもののために世界を救いたい。それだけでは、駄目だった。カイザを中心に世界は乱れる。カイザはその責任を今までその背に背負っていたのだ。固く目を閉じて何も言わない、戦乱の花を。墓を暴いたあの日から、カイザはもう鍵戦争の核となっていたのだ。
「……レオン、」
「……」
「お前を利用しようとしていた俺を、許してくれ」
レオンがカイザを見ると、カイザは真剣な眼差しでレオンを見つめていた。深く青い、その瞳で。
「俺はもう、後戻りはできない」
「カイザ様、」
「俺が必ず鍵戦争を終わらせる。お前にかけられた魔法も、解いてみせる」
「……」
「行こう、宮廷に」
この時、レオンの中で何かが砕ける音がした。硝子、だろうか。ぱりんと、乾いた音。その瞬間、目の前の景色がこれまでよりはっきりと綺麗に映るようになった。そして、心が澄んでゆく。懐かしさや嬉しさ……抑え込まれていた感情が、どっと溢れる。レオンは項垂れ、涙を流す。口を覆う布に、涙は吸いこまれてゆく。
「…御立派に、なられました……」
「……心配かけたな、レオン」
思い出の庭。この時やっと二人の再会は果たされた。幼い頃に憧れた白髪の騎士が、今は目の前で泣いている。それ程までに時間は流れ、変わったのだ。後戻りはできない。だから、この一時だけ昔にかえろう。15年前、騎士が初めて"美しさ"に触れたあの日に。花が咲き乱れる庭で、銀の首輪を愛でながら。