102.兄弟達は血で血を洗う
天井の鎖が下ろされ、カイザの右腕が下がる。二人の兜をかぶった騎士がしっかりとカイザの腕を抑え、レオンが手首の枷を外す。カイザは抵抗もせずにじっとレオンを見つめていた。レオンはカイザの視線には見向きもせず、手首の傷を手当てする。血が拭きとられ、綺麗に包帯が巻かれた。それが終わると再び枷をはめて、鎖を巻き上げる。そして、反対の手も同じように手当てをする。
「着替えが済みましたら、宮廷へ向かいます」
「……」
「よろしいですか」
レオンがやっと、カイザの目を見た。カイザはふと、視線をそらす。
「……ここは本当にクロムウェル家の屋敷なのか」
「はい」
「…少し、見て回りたいんだが」
カイザの言葉に、騎士達は目配せをする。そして、カイザの要望を受けるかはレオンに委ねられた。騎士たちは何も言わずにレオンを見る。レオンは包帯を留めると、頭を上げて言った。
「ゆっくりはできませんが、それでよろしければ」
「いい」
「かしこまりました」
「それと、逃げる気はない。だからこの枷を外してくれないか」
「……」
「俺が逃げ出そうとしたところで、無駄なのもわかってる。百選練磨のお前が獲物を逃がすなんてヘマをするはずがないからな」
無表情で淡々と言い放つカイザ。レオンは視線を合わせようとしないカイザを見つめ、言った。
「……カイザ様の枷を外せ」
騎士達は少し戸惑いながらも枷を外す。手足が自由になり、カイザは立ち上がって手首を軽く撫でる。
「着替えです」
レオンに差し出された服を受け取り、カイザは固まる。どこかで、見たことがあった。
「……」
「お気に召しませんか」
「これは、」
「御主人様の古い軍服です。それしか、カイザ様に差し出せるような物もございませんでしたので」
幼い頃。若くして家を継いでいた父が着ていた白い軍服。幼い頃はこの服に身を包んだ父と、カイザは……
「……如何なさいました」
レオンの声に、カイザははっと我に返る。そして、無言でシャツのボタンに手を伸ばした。父に憧れ、悪戯に羽織ったことがある。大きな軍服を着たカイザを、父は笑顔で抱きしめてくれた。懐かしい袖に腕を通すと、あの時とは違ってカイザの身にぴったりと合う。それがとても不思議で、切なく感じる。
「苦しいところはございませんか」
「…ああ、大丈夫だ」
騎士が差し出した靴に足を通してカイザが顔を上げると、レオンがカイザの首元に手を伸ばしてきた。急に近くなる顔。
ーー大丈夫ですか、カイザ様ーー
ふと、聞こえたような気がした。レオンの手には金の飾緒があった。レオンはカイザの軍服にそれを取りつけ、数歩、下がる。そして、色の無い目でカイザを見つめた。
「よく、お似合いです」
カイザの息が、一瞬止まる。駄目だ。ここで……このレオンに涙を見せては。懐かしさに飲み込まれてしまっては。カイザは潤んだ目を強く閉じて、大きく息を吐いた。そして、胸を張ってレオンを見据える。白い軍服と金の装飾はカイザの整った容姿を引きたて、勇ましさより神々しさを醸し出す。薄暗い、一本の蝋燭に照らし出される部屋。騎士達は淡い光に映し出される金髪の軍人を見て思わず見惚れてしまっている。レオンはただ、カイザの視線を真正面から受け止めるだけ。
「どこもかしこも兵で溢れてるな。帝国に、革命軍」
一本だけ頭が突き出る大きな杉の木。その上で、サイが下を見渡して言った。
「ホワイトジャックとブラックメリーも動いているだろう」
サイの近くの枝に腰をおろしている蘭丸が、籠った声で呟く。
「どうする。北に帝国、南に革命軍。容易には突破できそうにないぞ」
「……そうだな」
蘭丸は立ち上がり、サイを見た。
「この先へ行く前に、一つ聞いておこう」
サイは蘭丸に視線を向ける。黒い穴の向こうに敵意は感じられない。しかし、
「真実を手にしたら、どうするつもりだ」
「……」
返答次第では、敵意を向けられる。サイは下を見下ろした。木の隙間から革命軍の姿がちらほらと見える。
「シドを殺すか」
「……」
「ブラックメリーに戻るか」
「……」
「……安心しろ。お前がどんな選択をしようと、私はお前を殺したりはしない」
蘭丸の言葉に、サイは顔を上げた。蘭丸はいつの間にか視線を外してずっと向こうの山間を見据えていた。
「例えお前達が私の敵になろうとも……もう、刀を向けたりはしない」
お前達。
「…どうして」
「…人はな、他人に何を言われても決してその言葉の意味を介そうとはしない。結局は自分というものしか信じられないのだ。だから人は、変わらない。痛い目をみなければ自分の正しい身の振り方がわからない。どんな時代も、人間の本質は同じ」
蘭丸の低く静かな声は、流れてゆく緩い風にさらわれる。分厚い雲は流れ、薄くなった雲に白っぽい空が垣間見える。蘭丸の黒い髪が、灰色の空で際立つ。
「だから、私が変わることにした。お前たちを見届ける。いざとなれば、導いてやることもできるからな」
「……」
サイは、ぽつぽつと頭に浮かぶ言葉を漏らした。
「…まだ、わからない。シドのことは憎い。バンディにも、恩を感じてる。どうしていいのかまだ……わからない」
「そうか」
蘭丸はそう言ったきり、何も言わなかった。烏天狗の面の裏。蘭丸は……優しく笑っているように思えた。人を変えることも、審判の日を避けることも諦めているこの男。真実をもたらすこの男のために変われることなら変わりたい。しかし、どう変わればいいのかわからない。人の心に無関心だったことを、今になって後悔し始めていた。そう。何も知らないから……変われないのだ。真実を知れば、きっと。
「……あれは、」
蘭丸の声に、サイは視線を森へと戻す。黒い兵士の他に、黒い人影が見える。5人。いや……8人。
「バンディ……」
木の裏で息を潜め、手と視線だけで仲間に合図を送っているバンディの姿。サイの心臓が大きく鼓動し始める。
「関所を狙っているようだな」
「……どうする」
「私はどうともしないが。お前はどうするんだ」
サイはバンディを見つめたまま、考える。自分がいなくて、大丈夫だろうか。真剣な表情で敵陣を観察し、じりじりと寄ってゆくバンディ。たった8人で……何をしようというのか。
ーーその時がきたら、俺はお前を迎えに行くーー
ーー俺が頂点に立った時、お前は俺の隣に立つんだ。秘密を共有する、共犯者としてーー
ずっと昔に交した約束。バンディはホワイトジャックで肩身の狭い思いをしていた自分を迎えに来てくれた。そして今も約束を果たそうとしている。しかし……
ーー兄さんがいれば……それでよかったのにーー
サイは眉を顰め、バンディを見つめたまま言った。
「……どうとも、できない。自分のことを知るまでは」
「最後まで何もできないままに終わる可能性もある」
「それでもやはり、今は……」
蘭丸は仮面に手を当て、ふう、と小さく息を吐く。バンディへの忠義と弟への迷い。二つに挟まれて動けないサイ。蘭丸はその心中を察してはいたが……一つだけ、不安なことがあった。
「……私のようにはなるなよ」
サイが顔を上げて蘭丸を見ると蘭丸はまだ仮面の嘴に触れている。その仮面が、重たそうに見える。
「少し様子を見て、ここを突破する。いいか」
「あ、ああ……」
蘭丸は高下駄で細い枝の上に立ち、袴を靡かせる。サイは横目に蘭丸の姿を見て、視線を下に下ろした。いつの間にか、8人の姿はなくなっている。この男が何を思っているのかは未だ把握しきれていない。しかし、敵ではないと思い始めていた。いや、敵だと……思いたくないのかもしれない。あの悲しげで、柔らかな笑顔を見たから。
弟にすら剣を振るうサイは、自分がこんなことを思うのが不思議でならなかった。しかしこの変化の片鱗は混沌で既に現れていたのだ。シドを取り戻そうとしていた、あの時。"殺したい"という殺人衝動に覆われていた"殺したくない"という兄としての感情に見事食われていた。
「……」
彼は気付いていない。どうしてシドの言葉が、涙が……こんなにも心を抉るのか。憎いのにどうして……こんなにも。
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幼い頃のことはろくに覚えていない。妹ですら覚えているという兄様と呼べる人の顔も、忘れてしまった。いや、忘れた。
「もうすぐ、もうすぐだ」
「……」
「神の玉座に、運命の至る場所に……私が導いてみせる。ルイズ」
5年前。金の鍵を握る母に抱きしめられた。なんて哀れな人だろう。過去や名誉にとらわれ、息子に己が願望を押し付けようとして。しかし、何も言うまい。自分には母と妹しかいないのだ。家臣や父に愛された、兄と違って。
「選ばれるのはカイザ様ではなく、お前なのだ」
うわ言のように呟く母の肩は小さく震えていた。たった5歳で屋敷を出た少年に、何の恨みがあるのか。ルイズにはわからなかった。神の玉座にも興味はなかった。ただ、気に食わなかったのだ。
「やめて! お兄様!」
ホールに飾られた肖像画。少年はそれに向かって拳を振り上げていた。泣きわめく妹のすぐ隣で、罅割れたカンバスを殴り続け、そして、その拳は額縁に飲み込まれる。気に食わなかった。いなくなっても、家の者達にまるで神であるかののような扱いを受け、母を狂わせ、妹の心でも生き続ける。そんな、"神に選ばれし戦士"が。
「カイザ兄様の絵……どうして、こんなこと……」
妹は両手で顔を覆い、泣く。少年は手を抜き出した。穴が開いた少年の顔を見つめて立ち尽くす。その時から、もう思い出せなくなっている。兄はどんな顔をしていたか。自分はどうして、あんなことをしたのか。妹の啜り泣く声だけが耳を突く。
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「おかえりなさいませ、ルイズ様」
帝都に設けられたクロムウェル家の別邸。頭を下げる執事を通り過ぎ、ルイズは正面の螺旋階段を上る。執事は後に続き、その背中に話しかける。
「ローゼン伯爵が参られました」
「……要件は」
「旦那様のお見舞いに、と」
「疑っているのだろうな」
「はい」
「レオンは」
軽く振り返るルイズ。手には、リボンや造花で飾られた円柱型の箱があった。執事はそれを見つめたままに言った。
「何分、ノースまで発たれましたので……」
「……」
階段を登りきり廊下を少し歩くと、ルイズは大きな扉の前に止まった。そして、扉をノックする。
「…エルザ」
呼びかけても返事はない。ルイズは扉の前、足元を見た。以前ここに置いた花が無くなっている。
「…花はどうした」
「私共は存じ上げません。おそらく、エルザ様が……」
ルイズは足元をじっと見つめ、静かに箱を置いた。
「エルザ、土産だ。ここに置いておく」
そう言って、ルイズは扉から離れた。執事は華やかな箱を見てふと視線を上げた。そして、ルイズを追いかける。すると、振り返りもせずにルイズが言った。
「レオンに増援を送る」
「しかし、アンナ様は……」
「いい。私が許可する。急げ」
「……かしこまりました」
二手に分かれた廊下の突き当たり。左へと歩いてゆくルイズの背を見つめ、執事は反対方向へと歩き出した。執事と別れたルイズは早足に自室へ戻り、腰に携えた剣を下ろす。そして、うつ伏せにベッドへ倒れ込んだ。
「……会わせてなるものか。母様を……エルザを」
ルイズは無表情のままにそう呟き、そっと瞼を閉じた。
誰もいなくなった扉の前。そこに、一人の人物が現れた。扉の前の箱を手に取り怪しく笑う。黒い法衣、オレンジ色の髪。ヨルダは扉を見て鼻で笑い、箱を手に立ち去る。
世界を手にしようとする母。母と妹を兄に取られないよう必死になる弟。母にも兄にも心を閉ざして部屋に籠る妹。ヨルダはエルザが手をつけないとわかっているルイズの土産を、こっそり持ち出していた。ルイズにひと時の希望を与えるため、現状を維持するため。バラバラになっているからこそ繋がり合おうとする、この現状を。
「アンナ様とルイズ様には、今しばらく頑張っていただかないと……」
人気のない廊下で薄く笑みを浮かべながら箱を開けるヨルダ。中には綺麗なビロードの靴が入っていた。赤く深みのある光沢。ルイズの思いが込められているかのように、装飾された宝石はより一層の輝きを放つ。ヨルダはそれを見下ろして、
「……哀れな兄弟」
気のない言葉を、囁いた。