99.客人は皆上からやってくる
「……じゃあ、このままハウルを通ってオーエンに向かおう。あそこなら帝国の守りも手薄だ」
地図と睨めっこをしながら、ダンテが言った。青年が乗った大きな馬車の前と後ろには、ぞろぞろと隊が列を成して移動している。アポカリプスの紋章を描いた旗が一直線に山道を埋め尽くす。
「それでは少し遠回りになるのでは……」
隣に座って地図を覗き見るルージュが言うと、ダンテは軽く笑って地図を畳んだ。
「遠回りくらいでちょうどいいよ。帝都戦はどうせ茶番なんだ。焦らずいくさ」
「帝都でアンナ寵妃を仕留めるというお考えは……」
「ないね。無理。あの女のことだから絶対いざという時のための手を打ってる」
「……」
「それが地獄門かもしれないから、僕が直々に行ってあげるだけのこと。アンナ寵妃は仕留められなくても……ヨルダなら、ね」
ルージュが見つめるダンテは、異様に落ち着いている。ダンテが目指しているのは、業輪奪還でもアンナ寵妃を葬ることでもない。ただ、地獄門を開かせまいとしている。そしてそれは、カイザやクリストフ、パリスに向かっていた自分達を信じているからだと、ルージュは察する。ダンテの思いに応えるためにも、フィオールを助けたい。ルージュは、小窓から後ろの馬車を見た。カーテンで光を遮る黒い馬車。そこに、オズマとフィオールは籠っている。ルージュが心配そうに後方を見ていると、
「…うわぁ!」
「!」
馬車の上に重さが圧し掛かり、大きく揺れた。
「何! 何なの!」
「まさか帝国が……」
「そんなはずないよ! 水晶にはなんの反応も……」
ダンテが窓を開こうとすると、目の前にぬっと黒い大きな顔が現れた。
「ぎゃぁ!」
ダンテはルージュにしがみつく。ルージュは仕込み杖を抜いた。
「いた! やっぱり妖精様だ!」
「…チェシャ?」
「助けてくれ! シドが!」
ルージュは慌てて馬車の外へ飛び出る。表では大きな黒猫に向かって兵士達が武器を向けていた。
「皆、剣を収めてください! 敵ではありません!」
ルージュの言葉に、兵士達は落ち着きを取り戻す。ルージュは馬車の上に飛び乗った。ダンテものそのそと表に出て、不安そうに上を見上げる。そして、黒猫と目を合わせる。
「なんで化け猫とシドが一緒なの」
「…俺が聞きてぇよ」
ルージュは黒猫の背に乗ったシドを抱き上げる。シドはぐったりとして動かない。その首からは、血が流れ出ていた。
「シド! シド!」
「……ルージュ?」
シドは薄らと目を開いた。ルージュは少し安堵した顔をして、シドを抱いたまま馬車の屋根から降りて中へ入った。チェシャもみるみる小さくなり、シドを追って馬車に飛び乗る。ダンテは溜息をついた。そして、ダンテも馬車に足を踏み入れる。扉を閉めると、ダンテの姿は10歳の姿に変わっていた。
「一体何があったの? フィオールに続いてシドまで駆け込んでくるなんて」
ルージュの膝の上で荒く息をするシドに歩み寄るダンテ。ルージュは手袋を口で外し、その手を首元に当てた。赤い炎が、シドの傷に灯る。
「ノースでホワイトジャックに襲われたんだ。傷はその時のもので……シドの兄貴が応急手当をしたんだ」
兄……ルージュはシドの血で染まった消えかけの白い糸を見て眉を顰める。
「でもその後……シドの目の前でカイザがさらわれて」
黒猫の言葉に、ダンテとルージュは顔を上げた。
「さらわれたって、誰に!」
ダンテはチェシャを抱き上げ、詰め寄る。チェシャは大人しく、俯いたまま言った。
「……わからない。騎士、のようだったが。カイザは一人を"レオン"って呼んでた」
「レオン……」
ダンテは手を緩めて、倒れ込むように座席に座った。床に着地して、チェシャは静かに、辛そうに言った。
「それを追ってる途中にカイザを誘拐した連中の一人と闘ったんだ。勝ったけど……傷が開いちまった」
「どうして止めなかったのです!」
「止めたさ! でも、こいつが言うこと聞かなくて!」
シドは、震える手で力無く怒鳴ろうとするルージュの服を掴んだ。
「チェシャを……怒らないで。僕が、悪い……から」
「……」
ルージュは罰の悪そうな顔をして、シドを見つめる。
「…すみません、チェシャ」
「……いや、今のは言い訳だ。俺は……シドを守れなかったんだからな」
黒猫は、悲しそうに俯く。
「チェシャ、ありがとうございます」
ルージュの呟くような声に、黒猫の尻尾がピクリと動く。
「守れなかっただなんて自分を卑下することはありません。あなたは、よく勤めてくれました」
ルージュは黒猫を見て、優しく微笑む。
「巻き込んでしまって、すみませんでした。あとはもう……」
チェシャは、尻尾をぴんと立ててルージュを睨んだ。そして、次の言葉を遮るように言った。
「今度はヘマしない!」
「……」
「ちゃんとシドを……あいつらを、パリスへ送り届ける!」
ルージュは驚いたような顔をして、チェシャを見た。そして、真剣な眼差しを向ける。
「確かに私は、あなたに皆についてゆくよう頼みました。しかしそれは私が戻るまでの一時のこと。パリスへ行くということが……鍵戦争に関わるということがどういうことか、わかっているのですか?」
「わかってる。なんとなく」
「なんとなくで、命を賭けられるのですか?」
「……でも、このままじゃ終われねぇ! シドをこんな目に合わせたのは俺だ! 俺が弱いから……」
「……」
「このままじゃ……何も、守れねぇよ……」
潤んだ黒猫の赤い目を見て、ルージュは溜息をつく。
「わかりました。無茶が過ぎるシドのことはあなたに任せましょう」
チェシャは真っ直ぐに、ルージュを見つめる。
「ありがとう、妖精様」
チェシャはルージュに軽く頭を下げた。シドは苦しげに笑っていた。すると、大人しく座っていたダンテがゆっくりと顔を上げた。二人が目を向けると、ダンテは座席から立ち上がってチェシャに歩み寄る。ダンテに見下ろされ、おろおろとルージュに助けを求めるような視線を向けるチェシャ。
「な、なんだよ! お前誰だ!」
「僕はダンテ。世間には革命軍の英雄とか北の魔女って呼ばれてる」
「北の……あ! あんた、あの伝説の……!」
「君、黒猫でただでさえ雑魚なのにこれから鍵戦争に首突っ込もうってんでしょ」
「雑魚……?! た、確かに白猫には劣るが……俺だってやればできるんだぞ!」
喚くチェシャに、ダンテは掌を向けた。
「だったらせめてその尻尾、僕が割ったげる」
ダンテの手が眩い光を発し、馬車の中を光で満たした。ふいに目を瞑るルージュ。チカチカする視界が、だんだんと辺りの様子を映し出す。驚いて馬車の隅っこで縮こまる黒猫の尻尾が、七本に割れていた。ダンテは一息ついて、再びルージュの隣に座った。
「あとは化け猫として力を解放するだけだ。それは僕にも無理だから、自分でやんなよ」
ダンテは地図を広げて投げ捨てるように言った。チェシャは恐る恐る自分の尻尾を見て奇声を上げ、飛び上がる。
「なんだこれ! こんなことできんのか!」
「普通は力の解放と共に割れてくもんだけどね。君の場合は急を要するから手助けしてあげただけだよ。生まれたての小鹿に立派な足をつけてあげたようなもんさ。あとは自分で走れるようになってよね」
チェシャは嬉しそうに自分の尻尾にじゃれつく。
「作戦、変更するよ」
「変更?」
唐突な呟き。ルージュが聞くと、ダンテは地図を畳み、言った。
「宮廷に突っ込む」
「……」
「僕一人で」
ルージュはシドを落としそうになった。慌てて抱き上げ、驚いた表情でダンテを見る。
「単身でですか?! それはいくらなんでも……」
「僕が馬鹿だった。戦争なんて駒遊びをする気なんか、あっちはもとよりなかったんだよ」
ダンテは窓から顔を出し、叫んだ。
「進路を真っ直ぐ帝都へ変更! 第一優先は一人の男の奪還とする! 前線には僕が立つ!」
ダンテはそう言うと、窓に手をかけたままどさりと座席に座り込む。その目は、静かな怒りに燃えている。ルージュはそれを無言で見つめる。
「……アンナ寵妃は黙って待ってる気はなかった。革命軍と帝国の戦争も、お膳立てされた帝都戦も、全部目暗まし。僕達が審判の日を悠長に待ちかまえているのをいいことに、あっちは確実にこちらを試すような手を打ってきたんだよ!」
ダンテはルージュを睨み、強く言った。
「カイザを襲うどころか誘拐して、僕達が動くかをにやにやしながら試してるんだ! あの女……どこまでも僕達をコケにしてくれるよ!」
「しかし、帝都に単身で乗り込むのは……」
少年はルージュをきつく睨んだ。ルージュはぐっと言葉を飲み込む。黒猫は唖然としてダンテを見ていた。
「…もう少し身を隠して相手の出方を伺うつもりだったけど、もうそんなことしてられない。帝都に入ったら煙の塔で宮廷に突っ込む。そのためには軍は邪魔だ」
「でしたら私も一緒に……!」
「駄目。慌てた態度見せたらフィオールが無茶しかねない。シドみたいにね」
シドはルージュの腕の中で悲しそうな顔をする。ダンテは、そんなシドを見て小さく笑う。その笑顔は、いかにも怒りを抑えたといった風の作り笑顔。ダンテはシドの顔を覗き込み、その手を握った。
「シド、クリストフはどうしたの?」
「……おいてきちゃった」
シドの言葉に、ルージュは溜息をついた。
「そんなことだろうと思いました」
「クリストフなら大丈夫でしょ。でも、きっとカイザを追ってるだろうね。ま、いっか。クリストフだし」
「……」
何がいいのだろう。ダンテはクリストフを信頼しているのだろうが……その口調は軽視しているようにしか聞こえない。ルージュは呆れたようにダンテを見る。その時、馬車の扉をノックする音がした。ルージュとダンテは窓の方を見て、表情を強張らせる。そこにあったのは、上から馬車を覗きこむ烏天狗の面。ルージュは片手で仕込み杖を抜き、シドを抱いたまま窓に突き刺した。窓が割れ、仮面が上へと引っ込む。ダンテが勢いよく馬車から飛び降りた。すると、馬車の屋根でおろおろする男が一人。
「ま、待って! あんた、ダンテ様でしょ?!」
「……」
ダンテが不思議そうに男を見ていると、ルージュが軽く馬車から顔を出した。
「蘭丸じゃ、ないようですね」
「東の使い?」
二人はこそこそと話し、ダンテは男に向かって言った。
「ちょっと、皆して馬車に乗っかるのやめてもらえるかな」
「だって、こんな軍敷いてるから脇からこっそり入り込むしかなかったんすよ!」
男は仮面を外した。そして、屋根の上に疲れた顔をして寝そべってダンテを見下ろす。
「俺は東の御扇家、館石和。クリストフ様より、伝言を預かって参りました」
「クリストフ? 何で東の使いと……」
「ノースで落ちあい、俺らの指揮はこれからクリストフ様がとることになりました。これから神に選ばれた……かもしれない男を奪還するとか」
ダンテは小さく溜息をついて面倒臭そうに言った。
「……とりあえず、中に入ってもらえるかな」
「あ、はい」
ダンテに促され、和は馬車に入った。そして、ルージュやシド、チェシャをじっと見つめる。
「妖精に化け猫に死にかけの子供。何、ここは。幼児科かなんか?」
「そうなりそうだよ」
ダンテはルージュの隣に座り、何やら不思議そうにしている和を見据える。
「和、だっけ。クリストフから話は聞いてるの?」
和はチェシャの尻尾を触っている。チェシャは訝しげな目で和を見ながら七本の尻尾でぺちぺちとその手を叩いている。
「話は大体聞いてますよ。なんでも、パリスで神話の謎解きをするとか」
「そうだよ」
「そのためにはカイザって男が必要なんでしょ?」
「…かも、しれない」
「未確定要素が多いですよねー。ま、いいけど」
和は黒猫から離れ、ダンテの正面の座席に腰掛ける。
「本題に入らせてもらいます。ノースでクリストフ様達は組織抗争に巻き込まれました」
「……ホワイトジャックでしょ」
「ホワイトジャックと、ブラックメリーです。町は半壊。そこで、ブラックメリーを今束ねてる男とカイザを巡って奪還競争をすることになったそうで。男の目的はカイザの殺害のようだけど」
和の言葉に、ダンテとルージュの表情に驚きの色が浮かぶ。
「エドガー様の鍵が、その男に取られました」
「……まさか、もう一本まで」
ダンテが顔を顰めて呟く。和は、首を傾げている。
「もう一本?」
「で、クリストフは東の人達とカイザを追ってるわけね」
「ああ、はい」
「……わかった」
ダンテは額を抑え、鼻で笑った。ルージュはふと、少年に視線を落とす。
「…そうだよね。戦争なんて綺麗な形じゃ、この乱世はどうともならない。僕の考えが甘かった。アンナ寵妃は、鍵戦争というものをよく理解してる」
「……ダンテ様、」
「理屈や論理でどうにかなる戦争じゃない。これは、感情的なものが渦巻く理性とはかけ離れたところで繰り広げられる戦いだ」
黙り込むダンテとルージュ。和は、恐る恐る、声をかけた。
「……カイザって、そんなに大事な男なんですか?」
ダンテは、薄く笑いながら言った。
「わからない」
「……」
「でも、彼を取り巻く何もかもが……彼を特別な存在だと思わせてしまうんだよ。僕達、寵愛を受けし美女はその未知なる可能性に縋りついてるわけだ」
美女達にこれほど思われる男とは、一体……和はこの時やっと、カイザという男に興味が湧いた。
「情けないよ。貴族の愛人風情にはコケにされるし。たかが20年しか生きてない男に希望を見出すようになって……これから全てを賭けてでもカイザを奪還しようと思っているのに、彼がもし、もし……」
少年の目には、涙が溜まってゆく。
「戦争に巻き込まれただけのただの"通行人"だったら。僕達はもう、自分すら信じていけなくなるかもしれない。この期に及んで、こんな……」
自信喪失。ルージュも、黒猫も、涙の意味がよくわかっていない和も……少年の潤んだ瞳に、息を飲む。カイザを失えば、もう……
「ダンテ、」
ダンテは、はっと顔を上げた。指輪だらけの小さな手を握っていたのは、それはまた、小さな手。
「僕が……助けるから。カイザは、絶対に」
「シド……」
「……絶対に、助ける。だから、泣かないで?」
ーー理屈や論理でどうにかなる戦争じゃない……--
そう言ったのは、自分。ダンテは、ぽろぽろと涙を流してシドの手を握り返した。
「……うん、泣かない」
「泣いてるじゃん……」
シドがへらっと笑って見せる。ルージュは、二人が固く繋いだ手を見て小さく微笑む。恋愛には程遠い、幼い掛け合い。友情や恋なんて言葉では表せない、何よりも純粋な愛情のように感じる。思いや陰謀が複雑に絡み合うこの乱世で、この馬車の中だけが温かい。いや、人が織りなす悲劇の中で自分はいつだってこの旅でその温もりを感じてきた。
ーー実際、俺達は時折平和な時間を過ごしたじゃないかーー
ゼノフの酒場。薄暗く寂れた景色に溶けてそう言うカイザは、淡い光に包まれて見えた。アンナ寵妃が鍵戦争をよく理解しているなら、カイザは"幸福"についてよく理解しているのかもしれない。それだけで、選ばれるに値するのではないか。自信を無くしてめそめそと泣く少年の思いは、確かに前へと……進んでいるのではないか。彼らを……この少年達を見ていると、どうしても期待せずにはいられない。審判の日の、向こう側に。