0.この物語において出会いは終結に他ならない
この物語は一人の盗賊から始まる。
少年は大貴族、クロムウェル家の嫡男であり、その容姿たるや神も嫉妬する程であると謳われていた。しかし、ある日突然に少年は誘拐され、盗賊としての道を歩むことになる。そんな少年と"彼女"が出会ったのは、夏も終わりかけた肌寒い夜の墓地だった。
「駄目よ、死者の眠りを妨げては」
「…用があるのは一緒に埋まっている金や銀だけだ」
背後に彼女が立っているのにも関わらず、少年は土を掘り返し続ける。淡い紅色の鰯雲が月明かりで薄ぼんやりと青黒い空を流れる、そんな、夜。
「その金も、その銀も、愛する人の死を悼む人々がその人のためだけに埋めたものよ」
「金や銀にしてみたら、腐った死体と土の中より俺みたいな恵まれない子供に貰われたほうがよっぽどマシだろうよ」
一見、彼女の言葉など気にしていないように見える少年だが、頭の中では考えていた。もし、女が邪魔するようであれば殺す他あるまい、と。そして、彼女は言った。
「…やめなさい」
少年はゆっくりと立ち上がった。その手には土で塗れたナイフがあった。殺してしまおう、そう、少年は考えた。
「私が死んだら、その墓を暴けばいい」
振り返ろうとする足が止まり、ナイフを握る手にも変に力が入る。
「…お前が死ねば、好きにしていいんだな」
「ええ。金銀を盗るなり、死体を刻むなり、好きになさい。ただ……」
感覚的に、女との距離は2、3歩。間髪入れずに首を掻っ切る……少年の心臓は大きく鼓動していた。
「私はこの墓地の墓守よ。死者の眠りを見守る義務がある。だから、私の目が黒いうちは……」
この血の巡りをじっくりと感じてから、少年は勢いよく振り返った。
「…墓荒らしなんて、やめなさい」
振り返り、そして……少年はナイフを強く握りしめたまま、その場に立ち尽くしてしまった。
「あなたの綺麗なブロンドの髪や白い手から土と血の匂いがするのは……悲しいわ」
吸い込まれていた。目の黒いうちは、と豪語する彼女の瞳の黒いこと、黒いこと。その瞳には小さな光が闇夜に浮かぶ月のように輝いていた。黒髪が風に靡く度、暗がりでぼんやりと発光しているかのように、月明かりに照らされた白い肌が見え隠れする。その様はまるで、消えかけた蝋燭の火。
「……」
ゆらゆら揺らぐ、小さな光。今にも消えてしまいそうな不安感。少年の目は、彼女に釘付けになってしまった。
「…いい子ね」
彼女は優しく微笑んだ。その笑顔に少年は身体を強張らせる。恐れ、ではない。驚きを含むそれは、明らかな安堵であった。そして彼女は、少年を抱きしめた。
じんわりと伝わってくる温もり。少年の手元からスルリとナイフが滑り落ちる。彼女の肩越しに墓地を漠然と眺める目からは涙が零れ落ちた。
彼女の温もりの中で、少年は思い出していた。家族に囲まれた温かく華やかな幼い日々。それが突如失われた、絶望。ほんの数年前とはいえ、少年にとっては遠い遠い過去の記憶。それまで胸の内にしまってきた、思い出したくなかった記憶だ。思い出せば悲しみや苦しみがどっと湧き上がってくることを、少年は幼いながらにわかっていたのだ。それが、堰を切ったように涙となって溢れ出す。
「…悲しいことも、辛いことも、もう我慢する必要はないわ。死者には温もりを感じる身体も、涙を流す術もないけれど、あなたは違う。生きているのだから。私が……いるのだから」
少年は感じていた。彼女の憂が匂わす黒い影を。この温もりは決して光ではない、四方八方何も見えないばかりか、遠近感さえ鈍らせる暗がりである。そう感じていながらも、少年は彼女の背中に震える手を回した。闇に溶けてしまっても構わないから、この温もりを手放したくない。そう言わんばかりに彼女の胸に顔をうずめ、泣き叫んだ。そして、それまで直視しようとしなかった誘拐されたという事実と向かい合い、ようやく愛情に満ちた過去と思い出に涙ながらの別れを告げる。
幼いからこそ母性愛には貪欲で、少年だからこそ痛みに敏感。少年は彼女に甘えると共に、彼女を受け入れていたのかもしれない。
少年の泣き声と森のざわめきだけが響く夜の墓地。ローズウッド家の墓の前で抱きしめ合う二人は、こうして傷を舐め合うようにして出会ったのだ。それを見ていたのは墓から半分程顔を出す白骨化しかけたローズウッド夫人と、空に浮かぶ満月だけ。
二人の出会いは極めて暗く、死の匂いに包まれたものであった。
しかし、この出会いはなんの始まりでもない。冒頭で説明した通り、この物語は一人の盗賊から始まる。一人の盗賊と、一人の死者から。そして、満月のようにただ終わりへと向かってゆく。
「…まさか、そんな」
そして、二人が再会したのも満月が浮かぶ夜の墓地であった。
「なんで、ミハエルが……」
青年になった少年は驚きを隠せずにいる。それもそのはず。
「どうしてクロムウェル家の墓に、ミハエルが埋まってるんだよ……」
少年……いや、カイザが掘り起こした墓には、幼き日に墓地で出会った彼女が眠っていたのだ。
カイザは思わず彼女の頬を撫でた。何故なら、その死体はあまりに綺麗で眠っているようにしか見えなかったからだ。撫でた頬は冷たいが、柔らかい。
「どうして。5年も前に埋められたはずなのに腐ってもいないなんて」
カイザが墓石に目をやると、そこには見知らぬ人物の名が刻まれていた。
「…エドガー……って、誰だよ」
そう、ここから全ては始まるのだ。カイザがかつて嫡男であったクロムウェル家の墓を暴き、眠っているかのように死んでいるミハエルを掘り起こしたまさにこの時、月は満ちた。
…何故、プロローグに関係のない二人の出会いを語ったか。それは、物語の始まりではないが、物語の……
「…死んだのか、ミハエル」
カイザはまだ実感が湧かないようだ。涙も出ない、言葉も出ない。カイザはミハエルを見つめて、立ち尽くしていた。
そして二人は果てしない思い出の輪へ還ろうとするのだ。物語の……結末へ。