エピローグ
「月の時間と、地球の時間では流れる速さが違う。こちらではほんの数カ月程度だったかもしれないが、あなたにとってはもう何十年という月日が経っているかも知れない。地球に戻っても元のような暮らしができるとも限らないし、こちらへ残ればまったく不自由のない生活を保障するつもりだが――それでも、帰るのだな」
「ええ、僕の故郷はここではありませんから。それに家族のこともありますし。どうにも、月の水は馴染めないようです」
「そうか……すまないことをしたな。同じ月の民として詫びなければなるまい」
「いいんですよ。あなたが悪いわけではありません。それどころか、僕はあなたに助けてもらったんです。感謝しなければいけないのは僕のほうですよ」
「謙虚なのだな――どこかのだれかとは大違いだ」
かぐやはちらりと石上に視線をやったが、当の本人はまったく気付いていないようだった。小型の飛行船に乗り込もうとする田村にはあいさつを終えてあったが、それにしても薄情だと思う。
少なくとも、同じ勇者であることにはちがいないだろうに。
「それから、この刀はあなたたちにお返ししておきます。僕には扱いきれない力です。このまま地球に持って帰ってもろくなことにはならない。強い力は、正義の心によって使われなければならない――そうでしょう」
「田村なら大丈夫だとは思うが、そういうことなら預からせてもらおう。月へ連れてきてしまった立場で聞くのは心苦しいが、これからどうするつもりだ」
「陛下のために身を砕く所存です。それが叶わないのなら、どこか田舎へ行って慎ましく暮らしますよ。親戚は多い方なんです」
「天皇、か……今思えば彼にも悪いことをしてしまったな。利用するだけしておいて、あとは知らんぷりだ。わたしに代わって謝っておいてくれ」かぐやはポケットに入れていた小箱を取り出すと、田村に手渡した。
黒く塗装された小箱の表面には、黄金で彩りが添えてある。
どうやらそれが夜空に浮かぶ月らしいことは、田村にもわかった。
「これは?」
「せん越ながら、わたしが作ったものだ。彼に会うようなことがあったらこれを渡して欲しい。たしかにロクでもない男ではあったが、出会ったのもなにかの縁というものだろう」
「三山村の老夫婦にはよろしいのですか。彼らにも世話になったと聞いておりますが」
「もう別れは済ませてある。が、もし竹取の夫婦と会うことがあれば、わたしは元気にやっていると伝えてくれ。時々、三山の彼方に浮かぶ月を見上げてほしいとな」
アリストス城の地下倉庫には砂漠から見つけ出してきた古代の機械が大量に保管されていた。ベルリンドの指示で行われたものだったのだろうが、かぐやはその廃棄を命じ、ふたたび砂の下に戻された。
強力すぎる兵器も、便利すぎる道具も、月の国には必要ない。そう感じたからだ。
すべての技術を捨てた地球は、たしかに月よりも劣っているかも知れない。それでも地球の民は幸福に暮らしている。過度の技術が戦争を招くならば、そんなものはいらなかった。
しかし、田村を地球に帰すための飛行船だけは、メンテナンスをさせていた。
強引に家族を人質にとり、月へ連れ去ってきてしまったのだから、地球に送り届けるのが義務だという思いがあった。
それについては誰も反対しなかった。田村は家族とともに安全に数ヶ月間を過ごしたあと、宇宙へと旅立つために、アリストス城にやってきていた。
見送るのはかぐやや大伴御行など、戦場をともにくぐりぬけた仲間たちだ。
レンリルは裁判にかけられ、いまは謹慎中の身分となっている。だが、その前にラングネを勝利へ導いた功労者であるため、自由の身になるのも時間の問題だった。
「――そろそろ時間ですね」
「ああ、達者でな」
簡単な別れの挨拶をすませると、かぐやは飛行船のそばから離れた。
田村は家族とともに、地球へ向かって旅立っていった。あと数時間もすれば到着するだろう。懐かしの故郷を目にして、彼はどんな感想を抱くのだろうか。
「なあ、あの船って亀に似てるよな」
石上が感想を漏らす。
「カメ、とはなんだ」
「そうか、月にはいねえのか。亀っていうのは緑色でな、甲羅をつけたヘンな生き物だ。それが水のなかを泳いでる」
「へえ……そういわれてみれば、たしかに似てるかも」
横からクレアが口をはさんだ。
ザリアが落城した同日に、サントが率いる部隊がクレアのいた収容所に突入し、捕虜となっていた人々を救いだしたのだ。見つかったときには栄養不足で青白い顔をしていたが、数週間も安静にしてると元気な様子を取り戻し、以前と変わらぬ笑顔で城のなかを忙しく動き回っていた。
もちろん、かぐやの話し相手という役割も務めているが、ゆっくり話している暇もないほどここ数カ月は忙しかったのだ。
「ま、関係ないでしょうけど。ね、ルア様」
「回復したのはいいが、また一層うるさくなったのではないか。すこしは大伴を見習ってくれ」
かぐやが苦言を呈したが、表情はまったく嫌そうではない。
侍女であるクレアは、かぐやと同様に端正な顔をほころばせると、かぐやに抱きついた。
「いやですよ。せっかく再会したんだから、あたしだってルア様のお嫁さんになります。こんなやつらに任せておけないもん」
「おい、好き勝手いいやがって。女同士じゃダメなんだよ」
「その通りです。それに、私を石上と同じ扱いにしないでいただきたいものですね」
こんなやつら、が反論する。
「知らない。ねえ、ルア様。いつ頃結婚するんですか? もちろん、相手はあたしだろうけど」
「まだ考えていない。素敵な相手が見つかれば、自然とそうなるだろうな」
かぐやがそっぽを向いてはぐらかす。
えー、とクレアが鼻を鳴らした。
「これからもっと忙しくなるぞ。恋愛なんてしている暇はないだろうな。もちろん大伴と石上にも働いてもらうぞ、優秀な男は格好いいものだ」
「ぜひともやらせていただきましょう」と大伴御行。
「さ、すぐに帰って仕事にするか」と石上。
かぐやは明るい表情で笑うと、肩のあたりまで伸びた黒髪をなでた。
ガイザーに切り落とされた髪も、またすこしずつ長くなってきている。多忙の中に身を任せていれば、気付かないうちにまた美しい長髪が戻って来ることだろう。その頃にはきっと、ラングネもアリストスも前を向いて歩きはじめている。
「――頑張らなくては、な」
月の姫は、思い切り背伸びをして、いきなり駆けだした。
うしろで石上たちの騒いでいる声が聞こえる。それがとても、心地よく感じられた。
長い作品となりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。あとがきらしいあとがきは、作者のページの方に掲載する予定です。