クレアとかぐや
かぐやは長い軍議を終えると、自室に戻るなりベッドへうつぶせに倒れ込んだ。白いレースで仕立て上げられたベッドの生地は、触っているととても心地よい。幸いなことにアリストス軍もこの部屋には興味がなかったのか、あまり荒らされずにすんでいた。
おそらくガイザーのあくどい趣味のためだろう、とかぐやは思った。
この部屋を残しておいて破壊する様を見せつけることに喜びを見出そうとしたのに違いない。悪趣味なやつだ。
「……クレア」
この部屋にクレアとの思い出を物語るようなものは何も残っていない。
侍女は呼べばいくらでもそばにいたし、クレアが辞める予定もなかったから、ついうっかりしていた。いまになってみるとどうしてクレアの証となるようなものをもらっておかなかったのだろうと悔やまれる。
大伴御行が聞いたところによるとクレアは国境付近の収容所へと運ばれていったらしい。
あそこへ連れていかれたならば殺されることはないだろう。アリストスとしても交渉の切り札になる人質を、むやみに減らしていくようなことは考えにくい。
しかし一抹の不安がちらついて消えないのだ。
ジアードやガイザーのように殺人を好む人間があの収容所の監督だったとしたら。そんな想像が毎夜のように夢のなかで浮かんできては、かぐやを悩ませていた。
朝の光で起床するよりも早く悪夢によって目覚めてしまう。
そのためかぐやの眼の下には大きなくまが出来ていたが、化粧でどうにか誤魔化していた。
怪我人なのだからといってサントやレンリルはかぐやを休養させようとする。だがそうはいっても一国の女王に反抗できることはできず、かぐやの無理が通っているのだった。
「どう転んでも運次第、ということか」
クレアとの出会いはそう特殊なものではなかった。
彼女が侍女としてラングネ城に勤めはじめたのはかぐやがまだ十才とすこしの頃だった。月の国ではまだ少女と呼べるような年齢のときから奉公にだされることは珍しくない。
とはいえ王城に勤務できるような侍女はエリートであり、クレアも侍女としての能力に関しては申し分がなかった。
どこかの貴族の家で数年ほど鍛錬を積んできたのだという。
年齢が近いということもあってクレアはすぐさまかぐやの世話役に抜擢された。もちろん先輩メイドの指導を受けながらだったが、クレアが明るい性格だったこともあって、かぐやによく絡んできた。
そのたびにこっぴどくおしかりを受けたらしいが、かぐやがその現場を見たことは一度もない。
どこか裏方の方で済ませていたのだろう。
そのあたりはさすがにプロである。だが、いじめがなかったかということだけ、クレアに聞いてみたことがあった。
クレアはいつもと変わらぬ屈託のない笑顔で、
「ありませんよ、そんなこと。みんなあたしのことを思って怒ってくれてるんですから」
と説明した。
「あたし」という一人称も本来ならば侍女としてふさわしくないのだが、クレアは一向になおそうという努力をしなかった。
加えてかぐやがべつに「あたし」でもいいという許可を出してしまったので、先輩メイドたちも口を出せなかったのである。
かぐやの世話役になったクレアとの仲が深まっていくのに長い時間はかからなかった。
年齢の近いふたりの少女であるから、大人たちの監視の目をかいくぐって城内のいろいろな場所を探検したり、厨房に忍び入ってつまみ食いをしたりした。
あの頃はとても楽しかった。
じい以外に友達と呼べるような人間がいなかったかぐやにとって、クレアは初めての友達だった。貴族の子女たちとは交流があったものの城のなかで遊べるわけでもなく、いつでも遊べる相手がいたという事実は心の支えになった。
国王もクレアをかぐやの遊び相手になってくれればという期待半面に送り出したらしく、ふたりで遊んでいても怒られるようなことはなかった。
本当ならば説教だけで済まないような侍女にあるまじき行為なのだが、城内のだれもがあたたかい視線を送っていた。ただイタズラだけは許してもらえず、ばれるたびにかぐやとクレアは別々の部屋でしかられたものだ。
かぐやを叱りつけるのは決まってじいの役割で、成長してからはあまり叱責されるようなこともなかったが、小さい頃はとにかくよく怒られた。
「ルア様には好きな人とかいないんですかー?」
ふたりでいつものように遊んでいたあるとき、クレアがこう質問をしてきた。
かぐやは少し考えこんだあと、
「いないな」と答えた。
「えー、つまんないですね」
クレアは敬語を使うことが多かったが、ときどきは対等な関係のような口調でしゃべることもあった。そういう場面は目撃されるとお説教をされるので、必ずふたりきりのときだけだった。
「つまらない男ばかりだからな。誰もかれも口先ばかりの意気地無しだ」
「ふーん、クレア様の周りにいるのってあたしだったら喜んで結婚しちゃうような人ばっかりなんだけどな」
「そういうクレアはどうなのだ、貴族とはいかなくとも、奉公人にもいくらでも男はいるだろう」
「あたしはダメですよ、ルア様のお嫁さんになるんだから。それまでは好きな人なんて作りません」
自分で話題を振っておいて、都合のいいはぐらかし方だと思う。
「好みのタイプくらいは教えてくれてもいいのではないか」
「――そうですね」クレアは天井を見上げながらいった。「優しい人がいいかな、って思います」
「ならば、はやくそういう人間を見つけることだな。わたしはクレアと結婚するつもりなど毛頭ないぞ」
「ひどいですよー」
クレアがべそをかいた。
かぐやは頬を膨らませている侍女を一瞥すると、大きく深呼吸をした。恋愛の話は嫌いじゃないけれど、自分のことになるとさっぱり興味がわかなかった。
どうせそのうち良家のお坊ちゃまと結婚させられることになるのだろう。それは父親が決めることになるが、かぐやに反対する権利があるものかも怪しい。
国家のためなら結婚くらいで騒いではいけないのだ。
思えば母親もとある有力貴族の令嬢だった。それが二十にも満たないころに結婚し、かぐやを生むと間もなく死んでしまった。
母親の顔はあまり覚えていない。
彼女ははたして幸せだったのだろうか。そんなことを考えてみても悲しいだけだ。自分の親が不幸だったなんて、どうやってもプラスにはならない。
「クレア」
「なんですか」
「……好きな男ができたらわたしに報告するのだぞ。おまえにふさわしい馬の骨か、見極めてやる」
「だからあたしには関係のないことですってば」
ヒラヒラと手を振ってやんわり否定する。
かぐやは軽くため息をつくと、クレアのそばを離れた。
「……わたしを好いてくれる人間はできた。だがわたしの好きだった人はみんなどこか遠くへ行ってしまう。クレア、おまえも」
天井に向かってつぶやいた言葉に返事はなかった。
古代人に手によってつくられたラングネ城は何度か改修が施されたが、どれも上辺の塗装を直したり、小さな傷を補修するばかりで、建物の根幹ははるか昔から変わらずに残っている。
白く塗られた部屋の壁は、かぐやが子どもの頃は黒だった。
子どもながらに陰気臭い色はいやだと主張して、白に変更させたのだ。その手伝いをしてくれたのもクレアだった。
「必ず助けに行く。だからそれまで生きていてくれよ――」
祈りはどこへ向かっていくこともなく、寂しい部屋のなかでこだまして消えた。




