竹取の翁
竹取の翁、と呼ばれている老人がいた。
彼はうっそうと茂る竹林に足をのばしてはそれを刈り、様々な用途に使って暮らしていた。妻は翁がとって来た竹を加工しそれは見事な製品へと生まれ変わらせることができた。
そうして長いことふたりで慎ましいながらも平穏に暮らしていたのだが、この夫婦には子供がなかった。流産で子供をなくすことは珍しくないが竹取の夫妻にいたっては妊娠することさえなく、高齢となったいまではすっかり子供を抱くことなど諦めていた。
ある日翁がいつものように山の奥にある竹林に足を踏み入れると、うす暗い空間のなかにほんのりと光るものが見えた。訝しみながらそろりと近づいてみる。
まるで川の水を竹の葉で染めたような色をしている箱のなかで、奇妙な服を着た女子が眠っていた。粗末な麻の服でも、高貴な人々のまとうあでやかな着物でもないそれは、すすのようなもので薄汚れてはいたが高い値がつきそうだと思った。
「おーい、大丈夫かぁ」
声をかけてみる。
というのも娘は眠っているのかぴくりとも動かないからだ。さらに額には乾いた血の跡が見える。
正体不明の箱は天から降って来たかのように周囲を陥没させている。昨夜、妙な音を聞いたと思ったのだが原因はこの奇妙な物体なのかもしれない。
「おーい」
再び呼びかけてみる。
やはり返事はない。仕方なく近づいてみることにする。竹を刈るためのみがかれた鎌を構えながら、距離を縮めていく。箱の表面に反射した自分の顔がうつっているのが見えた。
「死んでんのかぁ?」
どうやら危険はなさそうだと判断しコツコツと鎌の先端で箱をたたきながら問いかける。
すると、とつぜん緑色の箱が光り輝きはじめた。炎よりもずっと明るく、白い光。まぶしくて目をおおっている間に、その箱は静かに開き、そして光は収束した。
「なんだぁ、今のは」
これまで髪が真っ白になるまで長いこと生きながらえてきたがこのように奇怪なものとは遭遇したことがない。昔聞いたことのある鵺の伝説を思い出した。夜分にその鳴き声を聞くとたちまち凶事が起こるという獣。
幸運なことに翁はその姿も声も知らずにすんでいたが、隣村のなかには鵺を殺したというものもいるらしい。この緑色の箱もそういう不吉な予兆のひとつなのではないだろうか。
ひょっとすると箱のなかにはいっている娘は人間などではなくタヌキやキツネが化けているのかもしれない。そのために服がうまく模倣されていないのだ。翁は鎌を強く握りしめた。もし人間を化かそうとする獣だったらこの場で殺してやろう。
「おいってば、起きろ。タヌキだったらいますぐ叩き切ってやるから、さっさと正体をあらわせ」
鎌の柄でちょんちょんと小突く。
その拍子に娘の顔をおおっていた長い黒髪がはらりと揺れて、この世のものとは思えぬ美しさをまとった完ぺきな素顔があらわになった。
思わず息をのむ。なんという美しい女子であろうか。
絹のようにつややかな肌。薄黒くはなっているが少し洗えば戻るであろう透きとおるような白い頬。そして腰にまでかかる色めいた長髪が殊更に際立っていた。
これは良家の姫君にちがいないと思いなおし、すぐさま駆けよって肩を揺さぶる。
「姫様、姫様、大丈夫でございますか」
小さなうめき声をもらしながら娘が薄眼を開く。しばらく心配そうな翁の表情を見つめたあと、とりつかれた様に大きく瞳を開けた。
「じい!」
娘は間髪いれずに翁の体に抱きついた。驚いた翁は勢いそのままに地面に背中から倒れた。娘の髪が頬にあたってこそばゆい。
「生きていたのか! そのようにうらぶれた姿になりおって――」
瞳を輝かせながらまくしたてる娘に向かって翁はあわてて制止の声をかける。
「お待ちください姫様、どなたかと勘違いをなさっているようで。あっしはただのしがない一農夫にすぎませぬ、姫様とはなんのお見知りもございません」
「じい……?」
娘は小首をかしげながら馬乗りになった状態で翁の全身をながめまわした。
「じい、ではないのか?」
真剣な表情で尋ねる。翁は恐縮しながらうなずいた。
「違います」
ぽたぽたと生温かいなにかが翁の頬を打った。
それが娘から流れ出た大粒の涙だと気づくのにそう時間はかからなかった。
「ひ、姫様、どこかお怪我でも――」
「じいでないのなら、何故わたしを姫様と呼ぶのだ!」
「どこか高貴な身分の方の姫君とお見受けしましたためにそうお呼びしていたのですが、なにかいけませんでしたでしょうか」
「赤の他人がわたしを姫様と軽々しく呼ぶな!」
「で、ではなんとお名前をお呼びすれば?」
娘はすこし考えたあと、いった。
「かぐやでいい。そう呼べ」
「わかりました――かぐや様。ところで、かぐや様はどちらのお家の方で?」
翁が尋ねる。
かぐやは今更ながらに翁にまたがるようにして乗りかかっていたことを認識すると、体をどかし、悪びれもなくこたえた。
「わたしはラングネ国の第一皇女だ」
「らん……なんと仰いましたか?」
「ラングネ国だ」
語調を強めて返事をする。翁は目をぱちぱちと瞬かせた。
「その、こうじょ、とは」
「そんなことも知らぬのか――」
と言いかけて、かぐやはふと気付いたように白昼の空を見上げた。
深緑の笹の葉の向こうから日差しがうっすらと差し込んでいる。竹林の隙間に吹き込んだ風がいくつもの葉をさらさらとふるわせた。
「月はどこだ、どこにある!」
「いまはまだ昼間でございますから、夜になれば出てくるかと」
「なればここは地球か」
「ちきゅう、ではございませぬ。ここは三山村ですゆえ」
「ミヤマムラ?」
言葉は通じるのだが、会話がところどころ噛みあわない。翁はそれがかぐやと名乗った娘がどこか遠くからやって来たからだろうと推測した。都の貴族と話が合うはずがないのだ。
「三方を山に囲まれておりますから三山村でございます」
「地球ではないのか?」
「そのような場所は存じ上げませぬ。どこか違う場所でございましょう」
かぐやは足元に落ちていた枯れかけた笹の葉をつまみあげると興味深げに手のなかでまわした。今度は土をひとつかみすくいあげる。
「ひとつだけ確認する。ここは月ではないのだな」
「はあ、そうでございますが」
翁が不審そうな表情をして首を縦に振る。
かぐやは大きく息を吸い、そして深々とため息をついた。その愁いを帯びた仕草さえ、魅入ってしまうほど美しい。
「本当にわたしはひとりになってしまったのだな――」
よろよろと力なく立ち上がると、かぐやは半透明の緑の物体をのぞきこみなにやら調べはじめた。見たことのない絵がたくさん描かれている。光っているところをみると、もしかしたら火なのかもしれない。
翁はかぐやの背中に向かって問いかけた。
「もしかして、かぐや様は月からいらしたのでございますか?」
自分でもけったいな質問だとは思ったが、意外にもあっけなくかぐやは頷いた。
「そうだ。わたしは月からやって来た」
「――して、月とはどのような場所でございますか」
「戦ばかりの愛しきわが故郷だ。そして、わたしは月に帰らねばならぬ。祖国を救うために」
「さようでございますか」
翁があっけにとられたような顔をして言う。
月にはうさぎがいて餅をついているのだとは聞くが、人が住んでいるという話は初耳だった。それにこのような秀麗な姫君までいるのだから、月とはさぞかし楽しいところなのだろう。
かぐやは頬に残っていた一筋の涙をぬぐうと、翁にたずねる。
「物は相談だが、わたしはこれから地球の勇者を探さなければならぬ。国を救うためにはここにいるという勇者の力が必要不可欠なのだ。お主、なにか知っておるか?」
「勇者とは、村一番の力持ちのことでございましょうか。それとも都のお偉い貴族様のことでございましょうか」
翁が首をひねりながらこたえる。
あまりぱっとしない返事に、かぐやは浮かない表情をする。風がさらさらと吹いて長い黒髪を撫でていった。
「他にはいないのか?」
「恐れ多くも帝なら、そうかもしれませぬが……」
「何者だそれは」
「都でいちばん偉いかたでございます」
「ほう」とかぐやは目を細めて「ならその者を連れてまいれ。わたしはすぐにでも月に帰らねばならぬ」
「そうはおっしゃいましても」
翁はこまったように白髪の頭をかいた。
前頭部は髪が抜け落ちているため、頭のうしろのほうにいくらか髪が残っているだけである。
「なにしろ高貴なお方でございますからわしら下々の者が簡単にお会いできるわけではないのです。都の貴族ですら、一生のうちにお目にかかれるかどうか……」
かぐやはふと思案に沈み、しばらく空を見上げていたが、やがて思い出したように半透明の箱の中身をのぞきこんだ。
唸るような声を出しながらそれを調べ終えると、かぐやは再び翁のほうへ向きなおった。
薄汚れてはいるが、その下からでも美しいとわかる絹のような肌。静かに開かれる唇は、ほどよく赤い。
「時間がないのだ」
かぐやはかみしめるようにつぶやいた。
「だが、調べてみたところこの船はもうエネルギー切れだ」
「えねるぎぃ、とはなんでございますか」
「つまりもう動かないのだ。わたしは月に帰ることができない。だが、それでは祖国を、みんなを救うことができない」
「では、どうするんで?」
「歯がゆいがあちらから迎えが来るのを待つしかあるまい。地球にいては月に帰るための船は手に入らないのであろう?」
「そのように突飛な船は聞いたことがありません」
「わたしがしなくてはならないのはその間に勇者を探し出し、月へ帰る準備を整えることだ。勇者を見つけられなければ帰っても意味がない――だから、力を貸せ」
かぐやはそこで、はじめて小さなほほ笑みを見せた。