月がのぼるころ
翁の予想したとおり敵軍は日が暮れてから目に見えて慌ただしくなった。うすい赤色の松明の光がしきりに揺れ、伝令のための騎馬が山のあいだを行き来する蹄の音がよく聞こえてくる。
これで決着にするつもりなのだろう。もはや戦の予兆をかくそうとはしていなかった。
前線に槍を構えた兵士たちが規則正しく並び、逃げ場のないように頂上にある砦の周囲をぐるりと包囲する。何層にも隊列を組んだ陣形のどこにも隙は存在していない。
兵士たちのうしろには騎馬に乗った男たちが控えていて、背に弓をたずさえ、馬の背をなでている。
満月の夜は足元が見えるくらいには明るく、火がなくとも移動に不便することはない。
かぐやたちは見張り台の上で寄り添い、敵の様子をながめていた。
「――向こうも本気のようですね」
松やにの焼ける焦げたにおいを敏感に嗅ぎとりながら大伴御行がつぶやく。
血に濡れていた着物はすっかり乾いたが、痛々しいまでのまだら模様は消えることなく染みついていた。
「怖いか?」
かぐやがたずねる。
誰もこたえようとはしなかった。
言葉を発するのさえためらわれるような静寂が秋の夜を包みこみ、風が静かにかぐやの髪を撫でた。
銅鑼太鼓の激しい音が山のむこうから鳴り立ててきたのは、それから間もなくのことだった。鉄の足音が音楽のように間隔をそろえて近づいてくる。
「さてと、ちょっくらやってきますか」
いちばんに石上が飛び出していく。敵もひるむ様子はない。力と力とがぶつかり合い、はじけた。
「私も行きましょう」
大伴御行がけん制するように龍の形をした炎を召喚し、敵軍の頭上を旋回させる。ぱらぱらと火の粉の落ちる様はまるで光る雪のようだった。
「かぐや様、私どもは楼閣の上に居りましょう」
「逃げなくてもいいのか?」
「大将があまりこそこそしていては士気にかかわるというものです。月の国から迎えが来るまでのあいだまでなら、ここに座っていても大丈夫でございます」
「万が一のことがあった場合は、そこでお終いか」
「いいえ」翁が強く否定する。「たとえどのようなことがあったとしても、かぐや様は生きて、御自分のすべきことを成し遂げてくださいませ。そのためならこの老いぼれはどんなことでもいたします」
「そうか」振り向いたかぐやの眼は赤く充血していた。「ならば、翁、お前は生きろ。わたしにどのようなことがあったとしても、生きてくれ。もしお前まで死ぬようなことがあってはわたしは堪えられなくなってしまう。死なないでくれ、お願いだから。わたしをひとりにはしないでくれ……」
翁は、緊張が解けたように優しくほほえんでかぐやの頭をなでた。
そして、恋人がするのとは種類の違う抱擁をした。
「あのお二方がかぐや様には付いております。私の力などではなく、かぐや様自らが勝ち取った心でございます。かぐや様は、きっと、月の国の姫にふさわしいお人になることでございましょう。私は、それをこの村から見守っております。約束いたしましょう」
「……ああ」
かぐやはゆっくりと翁の細い胸からはなれ、目じりをごしごしとぬぐった。余計な服は邪魔になるので着ていない。身にまとっているのは最低限の着物だけだった。
石上の怒鳴り声が聞こえる。
見ると、数百人もの兵士を相手取って戦っていた。正面の敵に注意を払っていると、すぐさまそのほかの方角から槍が突き出される。いくら丈夫な皮膚をしているとはいえ、幾度となく繰り出される攻撃を受け、血が滲みはじめる。
「石上――」
徐々に傷ついていく。
それはまるでなぶり殺しにされていくかのように。
「かぐや様……」
「目を逸らしてはならないのは分かってる。だが、辛い、ものだな」
絞り出すように言葉を紡ぐ。
背後では大伴御行のあやつる火龍が縦横無尽に駆け回っているが、それだけですべての攻撃を避けきれるわけではない。数に任せて間隙をついた数名の兵士たちが接近し、槍を繰り出す。
大伴御行は攻撃の気配を鋭敏に感じ取り、強化された身体能力によって武器の切っ先をかわす。だが、大伴御行の注意がそれた瞬間に敵の兵がどっと流れ込み、次々と大伴御行を包囲した。
もはや炎を動かしている余裕はなく、回避に専念する。
しかしそれもすべてを見切れずに右肩を刺された。どっと血が噴き出す。かぐやが小さく悲鳴を上げた。大伴御行の足元にはぽたぽたと赤いしずくが伝い落ちている。
「このくらいの傷で倒れているようでは、月で戦えるはずもないですね」
口の中でちいさくつぶやく。
そして、肩を突き刺した兵士を槍ごと火柱で包みこんだ。吐き気をもよおす、人体の焼ける匂い。もう嗅ぎ慣れてしまった。
「かぐや様、これが戦争というものでございます。たくさんの人々が傷つき、殺し合い、命を賭して戦う」
翁がきびきびとした口調で告げる。
「ですが、戦いの先に待っているのは希望でございます。人は、希望のために戦うのです。希望のない戦争はただの虐殺にしかなりませぬが、かぐや様は希望のために戦うのです」
月に取り残されているラングネの民、勝利を収めることなく死んでいった兵士たち、王族、じい、父上、その無念を晴らすためにも。
かぐやはきっ、と夜空を見上げた。
そこにはまだ、待ち望む舟の姿はない。
「あっ」
石上の脇腹に、折れた槍の穂先が深々と貫通していた。
呼吸が荒くなる。敵兵だけでなく、痛みとも戦っているのだ。体が動くたびに、刺さったままの槍の柄もいっしょに動き、それが肉体を傷つけていく。多くはないが血がこぼれている。槍を抜けば、大量に出血するのは明らかだった。
その時だった。
石上の脇を一隊の兵士たちがすり抜け、かぐやたちのいる見張り台のほうへかけてくる。翁がさっと身がまえた。手元にあるのは、竹を尖らせて作っただけの簡単な竹やり。
これでどうにかなるはずもなかった。
事態に気づいた大伴御行があわてて戻ろうとするが、人の壁に遮られてかなわない。五、六人の男たちは楼閣につながるはしごをのぼってくる。
翁が頭をにゅっと出して、はしごに取りついた先頭の小柄な男に槍を突き出した。
男はとっさにかわそうとして体勢を崩し、地面へ叩きつけられたが、すぐさま次の兵がとりついてくる。三人目の男は翁の槍をつかみ取ると、そのまま思い切り引っ張った。
手を離すのが遅れた翁の軽いからだが、地面へ落下していく。そうして、先ほど落ちて気絶していた兵士の上に覆いかぶさるようにぶつかった。ピクリとも動かない。
兵士たちは翁などには目もくれず、かぐやにむかって殺到してくる。
懸命にのぼって来る男たちの顔面を蹴飛ばしたりして反抗するかぐやだったが、それもわずかな時間稼ぎにしかならなかった。
ひとりがかぐやの背後に回り込み、有無を言わさず羽交い絞めにする。
「離せ!」
むき出しになっている脛のあたりを思い切り蹴りつけるが、男は手を緩めない。続いてやってきた男たちに四肢をつかまれ、まったく身動きが取れなくなった。
男たちはひもで手足を縛りつけようとする。
あらん限りの大声を出して、かぐやは抵抗した。が、屈強な男たちにかなうはずもなく。
あっけないほど簡単に拘束され、担がれたまま梯子を下りていく。
「離せ! 離さぬか!」
かぐやの右足を押さえつけている兵が舌打ちをしてこぶしを振り上げたが、それを大男が静止した。
「やめろ。傷を付けでもしたら手柄どころか死ぬことになるぞ」
「……」
それを聞いて、殴りつけようとした兵士は口元を醜く歪めた。かぐやを帝に献上したときの褒美のことを想像してにやついているのは、誰の目にも明らかだった。
「それにしても、本当にいい女だな」
大男がかぐやの髪をなでる。
必死に頭をふって逃げようとするが、男の手は確実にかぐやの髪をすいていく。
「陛下でなくったってこんな女が手に入るならなんだってするぜ。そんだけ上等な女だ」
「伍長、ちょっと楽しみませんか?」
先ほどこぶしを振り上げた男が口をはさむ。大男は少しだけあごに手をあてて考えた。
「――傷をつけないまでも、すこしばかりあそんでやるのも悪くねえな。要はばれなければいいんだ。それに」いやらしい笑みを浮かべる。「こんな女は二度とお目にかかれるもんじゃねえしな」
「じゃあ、さっそく」
件の男がかぐやの服に手をのばしかけたとき、背後から大きな叫び声が聞こえ、男の胸から竹の先端が突きだした。
「――え?」
自分を殺したのがだれであるか確認することもできずに、男がひざから崩れ落ちていく。右足を持っていた男がいなくなったせいで、かぐやは大きく体勢を崩した。
「……はぁ、はぁ」
ゆっくりと翁が竹槍を引き抜く。
残っているのは大男を含めた三人のみだったが、そのうちのひとりが逆上したかのように打ちかかって来る。翁はそれを読んでいたような槍筋でいなすと、柄で顔面を殴りつけた。
「爺さん、おれの大切な部下をやってくれるじゃねえか」
残りのふたりがかぐやを放置していっせいに襲いかかって来る。翁にそれを回避するだけの俊敏さは残っておらず、大男の剣をふとももに浴びてしまった。
「わたしのことは構わず逃げろ!」
かぐやはじたばたしながら叫ぶが、手足を結んだ紐がほどけずその場を動くことはおろか、上体を起こすことさえできない。
翁も足を切られ、座りこんでしまった。
「翁!」
その瞬間、翁が最後の力を振り絞ってなげつけた竹の槍が男の首をつらぬいた。唯一生き残った大男はずかずかと翁へ歩み寄ると、武器を持たない老人の首をしめ上げた。
「やろう……!」
「やめろ! やめなければわたしは舌を噛み切って自決するぞ!」
「知るか! このクソ爺を殺さねえことには気がおさまんねえんだよ!」
翁の顔色が見る見るうちに青白くに変色していく。最初はもがいていた手足も、動かなくなる。
「やめろ!」
「うるせえ!」
「頼むから、やめてくれ!」
かぐやの哀願に大男が耳を貸すことはなく、手に込めた力を増していく。
喉が枯れるほど叫ぶ。
目の前が暗くなりはじめる。月明かりの下で行われる殺戮は、あまりにもむごたらしかった。
――そのときであった。
一筋の光線が、大男の背中に命中した。大男は翁の上に覆いかぶさるように崩れ込む。
「翁!」
芋虫のようにはいつくばりながら翁のもとへ行き、大男をどかす。翁は矮小な呼吸ではあったが、しっかりと息を吸い込むことができていた。
「よかった……」
そして、うしろをふりかえる。
戦場にいるだれもがその船体に目を向けていた。
家ほどもある大きさの青い物体はすべてが流線形で、ひとつだけ船主の下方に突起を備えていた。ほかは曲線の表面をしており、月光を受けて白く反射していた。
地面から人ひとりぶんほどの高さで浮遊している。船内をうかがうことはできなかったが、空気の漏れる音ともに、なめらかな表面に亀裂が入った。
亀裂は大きくなり、内部から光が漏れだす。
その光を遮るようにして、ひとりの女性が出てきた。彼女もまたかぐやと同じように美しい容姿をしていたが、翁が最初にかぐ屋を発見した時と同じ、見慣れない衣装をまとっていた。
女はかぐやを見つけると、すべるように船体を下り、かぐやの手足を拘束している縄をほどいた。そして、両目に涙をあふれんばかりにためて、かぐやの前にひれ伏す。
「――ようやく」かぐやは立ちあがって、夜空を見上げた。「ようやくだ」
満月は、天頂に位置していた。




