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(クソ……! 何だっていうんだ!)


 丸薬の効果が表れ始め、痛みが大分和らいできた。歩くくらいは問題なさそうだ。

 体内の傷も修復してくれているのか、倦怠感や貧血といった症状もない。

 スピネルから与えられた服を脱ぎ捨て、衝立にかけてある自分の服に手を伸ばした。


(汚れはない……ナイフも壊れてない)


 綺麗に洗濯され、大聖堂の屋上で血まみれになった痕跡は跡形もなく消えていた。


(あれだけ人心を蔑ろにしてくる奴が、こういう配慮はできるのか)


 シャツとスラックスを着て、胸元にナイフを下げた後ローブを纏い、面布をつける。

 いつもの恰好だというのに、微妙な心地悪さを感じるのは、ふんわりと鼻をくすぐる知らない石鹸の香りのせいだ。


(一旦、仕事の事を考えよう)


 今は何もかもが苛立ちに繋がってしまう。

 第一の復讐や宿敵といった巨大な悩みがあったとしても、大巡司の仕事は無くならない。

 高僧のアドラとして思考を切り替え、やるべき事に没頭して、一旦冷静になるべきだ。その方が悩みへの対策も考えやすくなる。

 自分に言い聞かせながら、さっと昇降機へ乗り込んだところで――。

 

「……しまった。今何時だ?」


 思わず声が出た。

 今日の予定は、朝から慈善隊派遣に関する会議だったはずだ。

 昇降機のボタン近くに取り付けられた壁時計を見やれば、既に正午を回っている。


(リラエン様が、出席されるはずの……)


 事の重要さを思い出していくにつれて、焦りの冷や汗が流れ出る。

 よりにもよって今日の会議は慈善隊の代表であり、総隊長の聖母リラエンが出席するもの。

 無断欠席という不敬をどう挽回するかという焦りと、聖母の様々な助言を聞ける貴重な機会を逃したという落胆が同時にやって来てへたり込みそうだった。


(奇跡的に予定が取れた日だというのに……とりあえず、議長とリラエン様へ謝罪だ。礼拝堂にいらっしゃるだろうか)


 聖母は多忙だ。秒単位で予定が組まれていると噂する者もいる。

 聖樹教教徒の中で一番の知名度と、各地を飛び回り長らく慈善活動に勤しんで培われた広く深い範囲の知見から、各方面の分野から講習会や式典への参加依頼が絶えない。

 大きめの空き時間があれば孤児院への慰問や、教徒たちへの説教をしたりもする。


(……高僧たちに囲まれてなければいいが)


 人から敬意を集める大聖堂の高僧たちも、様々な理由で聖母との会話の機会を狙っている者は多い。

 大聖堂一階へ降り立ち、駆け足で礼拝堂の方へ向かうが、曲がり角で分厚い胸板と正面衝突してしまった。

 

「アドラ⁉︎」


 尻もちを付きそうになったが、ロイが咄嗟に腕を掴んでくれたため、何とか堪える事ができた。

 結構な速度が出ていたと言うのに何という体幹をしているのかと思いつつ、アドラはロイへ詫びた。


「すまない……ちょっと急いでて」

「いやそれは別に大丈夫なんだが、具合はもう大丈夫なのか?」

「……ああ! 問題ない。心配かけてすまなかった。この通りもう大丈夫」

「なら良かった! 救国騎士様も心配されてたぜ?」


 唐突に救国騎士という単語が出てきて、思わず頬が引きつってしまった。

 今慌てている何もかもがそいつのせいだとは言えず、頬をかく仕草で濁した。


「後日謝りに行くよ。それよりもリラエン様へ……」

「その事なんだが、一応議長と聖母様には病欠って伝えておいたぜ」

「本当か! ありがとう……」

「別にいいって、偶然会ったからってだけだし」


 ロイは本当に気配り上手で頼りになる。

 この借りはいつかしっかり返そうと、アドラは心に決めた。


「まぁ、一応行けそうなら聖母様には会いに行った方がいいと思うぜ? 何か話したい事があったみたいだし」

「……何の話だろう」

「わかんねぇけど。聖母様ってお前の先生の師匠なんだろ? その辺りとか?」

「あぁー……」


 アドラの恩人であるブレイディは元々慈善隊で活躍しており、聖母から直々に手ほどきを受けていた腕利きの隊員だった。

 その縁がアドラの慈善隊参加へ繋がっており、アドラも聖母と面識がある。

 

「早く行かねぇと囲まれちまうぞ」

「何から何までありがとう」


 ロイへの礼を後々やるべき事に加えつつ、アドラは駆け足で大聖堂の礼拝堂へ向かった。

 高僧の憩いの場である庭園を突っ切るとすぐに行列が見えて来る。


(遅かったか……?)


 聖母がいると聞きつけた高僧たちの出待ちだ。

 礼拝堂の鍵が閉められているのか、勝手に長蛇の列を成しはじめている。

 これは、お会いするのは無理だろうかと悩んでいると――。


『裏の梯子から、二階へ上がってきてください』


 春風に乗って穏やかな女性の声が、アドラの耳の内に響いた。

 他の者には聞こえていない事を確認し、声に従ってこっそりと礼拝堂の裏へと回る。


(……確実に、僕向けだな)


 大聖堂で運動不足気味の高僧たちにはとても昇れそうにない紐梯子が、二階の窓から垂らされていた。

 アドラは素早く昇り、一応誰かに見つからないように巻き取った。

 礼拝堂の二階、この部屋は倉庫らしく様々な物でごった返しているが、不思議と埃臭くない。

 良く見回してみれば、ランプがついた小さな作業机や、簡易なベッドがこっそりと置かれている。


「お久しぶりですアドラ。ようこそわたくしの秘密基地へ」


 その主である聖母リラエンが大きな木箱の影から姿を現し、アドラを笑顔で出迎えた。

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