夜のオフィスに、ふたり
その日の営業車の中で、隣の席の花森はやけに静かだった。
「花森さん、大丈夫?」
今日は花森にとって初めての単独アポ。私が同行するものの、基本的には花森がメインで話すことになっている。
「別に。普通です」
そっけない返事。でも、スマホを握る手に少し力が入っている。
「緊張してるなら、最初は私が話すよ。途中から花森さんに振るから」
「大丈夫です。一人でできます」
強がってるな、完全に。
まあ、何を言っても聞かないだろうし、放っておこう。
***
クライアント先の会議室。
相手は五十代くらいの仏頂面の男性と、鋭い眼光を放つ女性。入室した瞬間から、空気がピリピリと張り詰めていた。
「では、今回のご提案について、花森からご説明いたします」
私が促すと、花森が資料を開いた。だが、その手が微かに震えている。
「え、ええと……今回のプランなんですけど……こちらの資料の、あ、すみません、ページが違いました……」
いきなりの粗相。先方の男性が露骨に眉をひそめた。
「で? 具体的にどういうメリットがあるの?」
「それは……そのぉ……コストの面で……」
「コスト?どれくらい削減できるわけ?具体的に数字で言ってよ」
畳み掛けるような追及。想定外の質問に花森の顔が青ざめていく。
「そ、その……約、じゅう……」
「約十パーセント?それならあまり費用対効果が見込めないわね」
女性も冷たい声で加勢する。
「それに、この提案内容、前回の打ち合わせで却下された案と何が違うの?同じことの繰り返しじゃないかしら」
「いえ、あの……ち、違うんです……」
花森の声がどんどん小さくなる。喉が圧迫されているかのように、言葉が出てこない。
会議室に重苦しい沈黙が落ちた。
まずい。このままでは完全に潰されてしまう。仕方ない……。
「すみません、補足させてください」
私が割って入った。
「今回のプランは、コスト削減と品質向上の両立です。年間運用コストを30%削減しつつ、標準化と自動化で不具合を40%減らせます」
「30%……本当に?」
男性の目つきが変わる。
「A部門での試験運用で既に実績があります」
「……面白いわね」
女性が資料に目を落とした。空気が変わった。
「もう少し詳しく聞かせてもらえるかな」
男性が前のめりになる。私は隣の花森に目配せをした。彼女の青ざめていた頬に、わずかに血の気が戻っていく。
相手の表情が少し和らいだ。
「なるほど。それで、導入までのスケジュールは?」
「それについては、花森からご説明します」
私が花森に視線を向けると、少し落ち着いた様子で頷いた。
「スケジュールですが、初期導入まで約三ヶ月を予定しています。まず最初の一ヶ月で……」
今度は、さっきより落ち着いて話せている。
私は黙って聞きながら、必要なタイミングで資料をめくったり、補足の数字を提示したりした。
「……という流れになります」
「うん、分かった。じゃあ、一度社内で検討してみるよ」
相手が笑顔で立ち上がった。
よし、何とか形になった。
***
車に戻り助手席につくなり、花森は窓の外を向いたまま黙っていた。
「お疲れ様。」
「……」
返事がない。
「花森さん?」
「はぁ…」
深いため息。
私はエンジンをかけた。
「最初なんてそんなもんだよ。誰だって——」
「慰めなくていいです。なんか余計惨めなんで」
花森がぴしゃりと言った。
「自分でダメだったのは分かってます。浅海さんにフォローしてもらわないと何もできないなんて、情けないですよね」
「そんなこと言ってないじゃん」
「言ってなくても、思ってるでしょ」
……こりゃ、機嫌悪いな。
私は何も言わずに、車を走らせた。
***
その日の夜、会議室で明日の準備をし終え、デスクに戻ろうとすると、営業のフロアから明かりが漏れているのが見えた。
時計を見ると、もう九時を回っている。
誰だろうと思って覗くと、花森が一人でパソコンに向かっていた。
「花森さん、まだいたの?」
「まだいますけど。月曜の提案資料できてないんで」
冷たい声。まだ引きずってるのか。
「今日中に終わらせなくていいよ、それ」
「いえ、やっちゃいます」
「無理しないの」
「別に、無理してないです」
花森がパソコンの画面を見たまま答える。
……こいつ、意地になって面倒くさいな。
でも、放って帰るのも何か違う気がした。
私は給湯室近くの自販機からカフェオレを買って、花森の隣に置く。
「……何ですか、これ」
「カフェオレ」
「見れば分かります」
花森がちらりとカフェオレを見たが、手を伸ばさない。
「飲まないの?」
「別に。喉乾いてないですし」
私は自分のコーヒータブをプシュッと開けて、花森の横に座った。
「あの、隣、座らないでもらえます?」
「なんで」
「人が横にいたら集中できないんで」
花森がむっとした顔でこちらを見た。
「……お疲れ様だったね、今日」
花森がカフェオレを手に取って、一口飲んだ。
しばらく沈黙が続いた。
花森がため息をつく。
「……ダメダメですね、わたし」
ぽつりと呟いた。
「自分ではちゃんと準備したつもりだったんですけど、本番で全然ダメで」
「そんなもんだよ、最初なんて」
「浅海さんは最初からできたんじゃないですか?」
「全然ダメだったよ。初アポの時なんて、緊張でお茶こぼして、相手のスーツびしょ濡れにしたから」
「……最悪じゃないですか」
「最悪だった。平謝りしたわ」
花森が少し笑った。
「浅海さんでもそんなことあったんですね」
「あるよ。誰だって最初はそう」
「……浅海さん、やっぱり意外と優しいですよね」
「そう?」
「はい。いつもは冷たいくせに。こういう時だけ優しいです」
「こういう時だけって。いつも優しいじゃん私」
「いや、冷たいです、氷の女です」
「なにそれ」
私が思わず吹き出すと、花森がくすっと笑った。
「でも、今日のフォロー、なんかかっこよかったです」
「……かっこいいって…。やめて」
「ほんと。ああいうスマートな感じ、朝倉さん好きそうじゃないですか?」
「知らないよ、そんなの」
「………絶対、好きになりますよ」
花森が少し切なげな横顔でふっと笑う。
残業続きで疲れてるんだろうな、と私は思った。
「もう帰ろ。続きは月曜」
「はい」
花森が資料を片付け始める。
私も立ち上がって、コーヒーの空き缶を捨てた。
「浅海さん」
「ん?」
「……ありがとうございました」
花森が小さく言った。
「いいよ、別に」
「感謝してます。一応」
一応、って何だ。
また一言余計なんだから。
でも、花森の横顔は少し穏やかだった。
「……どういたしまして」
私はそう答えて、部屋の電気を消した。
廊下を並んで歩く。
隣を歩く花森の足音が、妙に心地よく響いた。
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