雨粒の中の本音
今朝の花森は、企画部の三年目男性社員、横川さんと話している。
横川さんはスポーツマンらしいガタイの良さに甘いマスク、爽やかで明朗な性格が社内で人気だ。
「えー、横川さんってそういうとこありますよねぇ〜。ふふ」
花森が笑いながら、横川さんの腕を軽く叩いた。
ボディタッチが、激しい。というか露骨。
「今度、ご飯連れてってくださいよ〜」
甘ったるい顔で花森がそう言うと、横川さんは満更でもない顔で何か返している。耳が赤い。案外ちょろいな横川。
私はデスクで書類を整理しながら、その光景を横目で見ていた。
顔はしらけていた。完全に。
(またやってる)
(ていうか田村さん一筋かと思ったらそうでもないんだ)
営業部の男性社員たちも、ちらちらと花森の方を見ている。花森劇場の観客だ。私はさしずめ最前列で冷めた顔をしている客といったところか。
「花森さん、外回り、行くよ」
「はーい、いってきまーす。じゃあまた後で、横川さん」
花森は横川さんにひらひらと手を振って、私の後ろをついてくる。
フロアを出るまでは、ずっとそのトーンをキープ。
エレベーターに乗った瞬間。
花森の表情がスンと死んだ。深いため息とともに。
声のトーンも、さっきまでの軽さも、全部消えた。
まるでスイッチが切れた家電だ。
私は前を向いたまま、その変化を視界の端で捉えていた。
もはやこの切り替えのギャップに、苛立ちを通り越して笑いが込み上げるようになってきた。
密室。
二人きり。
エレベーターが静かに下降する音だけが響いている。
花森は腕を組んで、数字が減っていくパネルをじっと見ている。
――あの瞬間を、思い出してしまった。
あの夜、キスした時の、花森の顔。
唇の柔らかさ。
(ああ、もー、なんで今思い出すの…)
(忘れろ。忘れろ)
でも、消えない。
横にいる花森が、妙に近く感じる。桃のような甘ったるい香水の匂いがいつもより近い。気のせいだ。気のせいのはずだ。
エレベーターが一階に着いた。
ドアが開いて、外の空気が流れ込む。
花森は無言で先に降りた。私もついていく。
駐車場まで、二人とも何も言わなかった。
車に着いて、ドアを開ける。
花森は無言で助手席に座ると、即スマホを取り出した。
画面を見たまま、こちらを一切見ない。
親指が画面を激しくスワイプしている。イソスタでも見てるんだろう。
私は何も言わず、車を発進させた。
***
外回り中、空が嫌な色になった。
昼までカンカン照りだったのに、次の瞬間には前が見えないレベルの豪雨。狐の嫁入りとかいうやつか。
ワイパーが可哀想なぐらい、完全に負けている。
「うわー、雨きついなぁ」
「最悪ですね」
助手席で花森がぽつりとつぶやいた。
地声。完全に素。
「次の訪問まで時間あるから、車で待機しようか」
「はい。……てか雷やばくないですか」
「車の中なら大丈夫じゃない?」
「普通に雷の音、苦手なんですよね…」
「今は"雷こわ〜い♡"って言って甘える相手もいないしね」
「なに。馬鹿にしてるんですか」
私が裏声で花森の甲高い声の真似をして軽くからかうと、花森は淡々と吐き捨てるようにそう言いながら、フロントガラスの向こうをぼんやり見ている。
いつもの調子が抜けて、妙に素直な声。
雨音だけが車内を満たしている。
信号待ちの赤が濡れたガラスに滲んで揺れている。
さっきコンビニで買った缶コーヒーを開ける。私のはブラック。花森のはカフェオレ。この選択にも人間性が出る気がする。
「ってか浅海さんって」
突然、花森が振り向いた。
「誰にも本音言わなそうですよね」
「……え?」
私は戸惑った顔で花森を見た。
「あ、別に悪口じゃなくて。なんか、ちゃんとしてる人って、ずっと"表向きの顔"してる気がして」
「社会人だし……そういうものじゃない?」
反応に困り、曖昧に笑って見せる。
「ほら、それ」
「何が」
「そうやってふわっと流すとこ。心の壁、厚そうだなって」
外で雷が光る。
返す言葉を探したが、出てこなかった。
反論したいのに、花森の目が意外とまっすぐで、いつもの軽さがなくて、言葉が詰まる。
「……花森さんは、」
「わたしは、言いたいこと言って嫌われるタイプです」
「自覚あるんだ」
「普通にあります」
花森はカフェオレを一口飲んで、窓の外を見た。
「昔から、クラスで孤立してたんですよね」
「……え」
「わたし、可愛かったから」
(自分で言うな)
と思ったが、黙っていた。ツッコむ気力もなかった。
「ズバズバ言っちゃうタイプだったんで。クラスの女子たち、多分気に入らなかったんでしょうね」
「ふぅん」
「だから割と今も、男の人にはグイグイ行く方法とか分かってるんですけど」
花森は少し笑った。自嘲っぽく。
「女の人と距離を詰める方法っていうか、友達になり方があんまり分からないっていうか。そういうの、苦手で」
外では雨が少し落ち着いたものの、まだしとしとと降り続いている。
私は何も言えなかった。
花森もこんな話することあるんだなって思った。
というか、こんな顔するんだって思った。
窓に映った花森の横顔が、妙に静かで寂しげに見えた。
普段のあざとさが抜け落ちた、素の表情。
言葉よりも、その顔のほうがずっと印象に残った。
「……あ、止んできましたね。雨」
花森の声で我に返る。
外を見ると、雨が弱まっていた。
「本当だ。じゃ、行こっか」
「はい」
車を発進させながら、ふと思った。
――花森との距離が、さっきより近い気がする。
気のせい、だと思いたい。
でも心がなんだかざわついていた。




