表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『19:10、改札で君は二人になる」

作者: 百花繚乱
掲載日:2026/01/14

ーーーー

目次


祝福みたいな追い風


鍵の音がする


透明な噂


夕立とレモンソーダ


消えない指紋


海沿いの迂回路


桜木町 19:10(録音)


返せないもの


走るしかない夜


朝焼けの合図


余韻としてのベル


===


1. 祝福みたいな追い風


四月の港町は、潮の匂いより先に、新しい制服の硬さを連れてくる。襟が首に当たってむず痒い。胸ポケットの名札がまだ馴染まず、歩くたび小さく揺れた。


駅前の坂を下ると海が見える。校舎へ向かう道が、朝だけ少し青くなる。その色が好きだった。世界が「いけるよ」と言ってくれているみたいで。


その日、私は祝福を信じた。

信じたまま、転んだ。


靴紐がほどけたことに気づかず、横断歩道の白い線に足を取られた。視界が斜めになる。慌てて手を出した瞬間――ベルの音と、ブレーキの低い唸り。


「危ない!」


誰かの腕が私を引き止め、私は前へ倒れる代わりに、誰かの胸にぶつかった。布越しに心臓の振動が伝わり、耳の奥で自分の血の音が膨らむ。


「大丈夫?」


顔を上げると、黒い髪が風にほどけていた。目はまっすぐで、笑っていないのに怖くない。制服の袖口が擦れていて、右手の人差し指に白い絆創膏が貼られている。


「……すみません」

「謝らなくていい。靴、ほどけてる」


私が屈もうとすると、彼が先にしゃがんだ。靴紐を結ぶ指は慣れていて、結び目が一瞬で形になる。足元を救われたのに、胸の奥のほうが熱を持った。


「入学式? 一年?」

「はい……」

「俺も。朝倉 恒一」


同じ校舎へ向かう。偶然が続くだけで運命と思える年頃の春。階段を上る途中で、朝倉はポケットから小さな金属を取り出して見せた。


「これ、落ちてた。君のだろ」


小さな鍵。家の鍵。


私は慌ててカバンの横ポケットを探る。ない。喉がきゅっと縮む。母が玄関で言った「今日は“はじまり”だから忘れ物しないでね」が、針みたいに刺さる。


「ありがとう……! それ、私のです」

「良かった。――名前、聞いていい?」

「三上、栞です」

「栞」


呼ばれた音が、少しだけ胸に残った。


朝倉は鍵を渡しながら、何か言いかけて黙った。首元に指を当てるようにして、ほんの少し眉を寄せる。


「……鍵ってさ、音するだろ。たまに、勝手に」


冗談に見えない言い方だった。私は笑い損ねた。鍵の冷たさが掌に貼りついて、そのまま胸の奥に落ちていく気がした。


この日から、私は鍵の“音”に敏感になった。


2. 鍵の音がする


入学式の後、教室の窓から見えた海は、なぜか遠かった。新品のノート、制服の洗剤、緊張した汗。全部混ざって春の匂いになる。


朝倉は私の斜め後ろ。先生の話を聞いているふりをしながらペンを回す癖がある。コツ、コツ、という音が一定で、妙に落ち着く。


休み時間、私は振り返って小声で聞いた。


「さっきの鍵の話、どういう意味?」

朝倉は一瞬だけ目を伏せた。

「変なこと言った。気にしないで」

「気にするよ。だって私の鍵でしょ」

「……君の鍵じゃない。“君が落とした鍵”だ」


言葉の端が冷たい。私は反射的に言い返しそうになって飲み込んだ。嫌われたくない。入学二日目の私は、それだけで生きている。


代わりに、鞄のポケットの中で鍵を握った。

その瞬間――カチ、と音がした。


誰も触れていないのに、金属が触れ合ったみたいな乾いた音。


「今……」

「聞こえた?」


朝倉の目は逃げない。私は頷いてしまった。嘘でもいいから笑って流せばいいのに、「聞こえた」と答えたかった。


朝倉は机の下でポケットを探り、もう一つの鍵を出した。形は違うが古さが似ている。擦り傷、角の丸み。


「俺も持ってる。……家のじゃない」

「どうして?」

「気づいたら。……捨てようとすると、鳴る」

「怖くない?」

「怖い。けど、捨てられない」


彼は鍵をしまった。大事にしたくないものを、それでも抱えている仕草だった。


「朝倉……鍵、鳴るときって、どんな感じ?」

「耳じゃない。胸の奥が叩かれる。……君もそうだろ」


私は口を閉じた。正確すぎて否定できない。


その夜。玄関の鍵を開けたとき、私は確かに聞いた。

ガチャ、ではなく。

カチ。鍵穴ではなく、ポケットの中で。


鍵は、ただの金属じゃない。

そう思ってしまうような静けさがあった。


3. 透明な噂


噂は海風みたいに広がった。目には見えないのに、砂みたいに耳に入り込む。


昼休み、女子の輪の中で聞こえた。


「三上ってさ、朝倉と付き合ってんの?」


牛乳パックを握ったまま固まった。

「違うよ」

そう言う声が自分の声に聞こえない。薄い紙みたいに頼りない。


「入学式の日、抱きついてたじゃん」

「転びそうだったのを助けてもらっただけ!」


誰かが「ふーん」と笑う。悪意がないほうが余計に刺さる。


そのとき、ポケットで鍵が鳴った。カチ。

まるで「嘘をつくな」と胸の奥を叩くみたいに。


私は立ち上がって教室を出た。廊下の窓から潮風が頬を冷やす。階段を下り、校舎裏の自転車置き場へ。


朝倉がいた。フェンスにもたれて空を見ている。近づくと、彼は私を見て、すぐ視線を外した。


「噂、聞いた?」

「聞いた」

「……迷惑だよね」

「迷惑じゃない。――ただ」


彼は言い淀み、指がポケットの中で何かを探っている。


「君が鍵を持ってるって、知られたくない」


胸が沈んだ。私が噂で傷ついたのに、彼が気にしているのは鍵。


「鍵って、そんなに大事?」

「大事っていうか……危ない」

「何が?」


朝倉は海を見た。波が白く崩れて引いていく。

その引き際みたいに声が小さくなった。


「この町には、使われてない施設がある。海沿いの旧病院」

「旧病院……?」

「そこで……誰かが何かを隠した。音がする鍵は、呼ぶ。――“持ち主”を」


呼ぶ、という言葉が胸の柔らかいところを掴んだ。


「私、持ち主じゃないよ。落としただけ」

「落としたってことが……もう関わってる」


朝倉の目が逃げない。

カチ、カチ。鍵が二回鳴った。急げ、と言うみたいに。


そのとき初めて思った。

落とし物じゃない。受け渡しだ。

鍵が、私を選んだのかもしれない。


4. 夕立とレモンソーダ


放課後、空が急に暗くなって夕立が降った。雨粒が窓を叩き、教室が水の中みたいに遠くなる。


私は傘を忘れていた。朝倉も忘れていた。


コンビニでビニール傘を買い、二人で一本に入る。肩が触れる距離。雨の匂いと、彼の石鹸の匂い。


「レモンソーダ、好き?」

「え?」

「雨の日に飲むと、夏みたいになる」


不器用な優しさが胸にじんわり染みる。


「好き」

「じゃ、買う」


缶を開けると炭酸が弾け、私の中の緊張も少し弾けた。


私は言った。

「噂……嫌なら、距離置く」


朝倉はすぐ答えなかった。傘の角度を少しだけ変えて、私が濡れないほうに寄せる。それから言った。


「距離置くの、苦手だ」

「なんで」

「君、黙って耐える。……さっきもそうだった」


言い当てられて、息が詰まった。


「泣くの、下手だろ」

朝倉は責めない声で言った。

「だから、泣きたいときは“泣きたい”って言え。俺、聞くから」


胸の奥が熱くなる。

私が欲しかったのは“正しさ”じゃない。こういう、逃げ道だった。


「……旧病院、行く?」

朝倉は缶を持ったまま言った。


「今から?」

「雨の日のほうが、見つからない」

「誰に?」

「鍵を探してる奴に」


鍵が鳴った。カチ。

幸福から転落していく。なのに、朝倉の隣は甘い。炭酸みたいに。


「……行く」

私は言ってしまった。


朝倉は少しだけ笑った。その笑いが雨粒の中で光った。


5. 消えない指紋


旧病院は防波堤の先にあった。道が違うだけで世界が変わる。人の気配が薄く、潮の音が大きくなる。


扉は意外と簡単に開いた。鍵穴に朝倉の鍵が合った。金属が回る感触が骨に響く。


中は消毒液の匂いが残っていた。湿った埃と混ざり、鼻の奥が痺れる。


朝倉はスマホを出し、録音を再生した。

ノイズのあと、若い女の泣き声。


『……鍵、返して。お願い……それだけは……』


次に男の声。低く笑っている。


『返せない。これは“証拠”だろ? お前が――』


そこで途切れる。衝撃音。静寂。


「これ、俺のスマホに勝手に入ってた。入学式の前の日」

勝手に。鍵と同じだ。


地下へ降り、記録室の扉。

鍵が鳴る。カチ、カチ、カチ。


私の鍵を差し込む。回す。扉が軋んで開く。


棚。古い箱。テープレコーダー。

そして白い封筒。赤いインクで――「三上栞」。


自分の名前が怖いと思ったのは初めてだった。


封筒の中は写真。病院前の集合写真の端に、制服姿の女子高生。

私と同じ顔。


写真の裏。


――“鍵は、あなたが未来に渡した。だから、返しに来て。”


ポケットで鍵が鳴った。カチ。

肯定するみたいに。


6. 海沿いの迂回路


帰り道、海沿いを遠回りした。逃げるためじゃない。考える時間が欲しかった。


朝倉が言った。


「鍵が鳴るのは、“時間が重なる合図”だと思う」

「時間が重なる?」

「うん。――ルールはたぶん三つ」


彼は指を折る。


「一つ。19時台、特に19:10前後」

「二つ。駅みたいに人が“別れる場所”」

「三つ。鍵を持つ人の心が揺れてるとき」


私は言葉を失った。

全部、今の私たちだ。


「だから鳴る。胸の奥で」

朝倉は言った。

「音は合図。合図が来たら、扉が“見える”」


扉――非常扉、旧病院の扉、記録室の扉。

全部が一本の線で繋がり始める感覚があった。


そのとき、使われない公衆電話ボックスでSDカードを拾う。

表面に「19:10」。


偶然じゃない。


7. 桜木町 19:10(録音)


翌日、パソコン室で音声ファイルを再生する。

ノイズ。人混み。電車のアナウンス。


『……栞。聞こえる?』


女の声。私の名前。

『私は三上栞。今は二十歳』


『桜木町の改札、19:10。私はそこで間違えた』


『朝倉は二人いる。優しいほうに見えて、優しくないほうに鍵を渡した』


『鍵は扉を開けるものじゃない。証拠を閉じるもの。閉じ込める鍵』


『鍵が鳴る瞬間だけ、時間が重なる』


『絆創膏。右手の人差し指。そこを見て』


録音が途切れる。

ぷつり、と世界が切れたみたいに。


朝倉の絆創膏の貼られた指が震えていた。


「……二人いるって、どういうことだよ」


私は喉の奥が熱くなる。怖い。けど、怖いだけじゃない。

震えている朝倉を見て、胸が締めつけられた。


「朝倉……あなたは、優しいほう?」

朝倉は目を逸らさず言った。

「俺は俺だ。でも、君の選択を奪うことだけはしない」


その言葉が、絆創膏より強い“しるし”に思えた。


鍵が鳴った。カチ。

急げじゃない。

“選べ”と叩く音だった。


8. 返せないもの


私は朝倉の指を見る癖がついた。

でも、見ているのは絆創膏だけじゃない。


返事を急がせないか。

触れる前に同意を取るか。

私の“黙る癖”を見逃さないか。


朝倉(絆創膏)は、いつも一拍待つ。

「嫌ならやめる」

「無理なら帰る」

その言葉を、ちゃんと行動で守る。


旧病院の資料を探すと、廃院理由は曖昧で、ただ「記録の紛失」とだけある。

紛失じゃない。消された。


朝倉は言った。

「俺、昔は横浜にいた。桜木町の匂いだけ覚えてる」


録音が、嘘じゃないと証明されていく。


「鍵は返したらダメなんだろ」

朝倉が呟く。

「でも、返さないって難しいな」


私は言った。

「私が持つ。選ぶの、私だから」


朝倉は頷いた。

その頷きが、私の背中を押した。


9. 走るしかない夜


翌日、旧病院へ。

記録室には封筒も写真もない。代わりに紙が一枚。


――“19:10。扉が閉まる。鍵を返すな。返したら、君が消える。”


廊下の奥で足音。

現れたのは、朝倉の顔をした男。絆創膏がない。目が笑っていない。


「やっと来た」


鍵が警報みたいに鳴る。カチ、カチ。


朝倉(絆創膏)が私の手を掴む。

「走れ」


追ってくる声。

「鍵、返して。返さないと困るんだ」


“困る”のは、証拠を消したい側。


自転車に飛び乗り、ベルが鳴る。

入学式の日と同じ音が、今は合図になる。


坂を下る途中、私は背中の熱に縋った。

信じたくなる温度。

でも“信じる”は、いつも怖い。


10. 朝焼けの合図


その夜、知らない番号からメッセージ。


『19:10。改札で。鍵を持って来い』


相手は絆創膏のない朝倉。


朝倉(絆創膏)は返信する。

『俺が守る』


放課後、駅の改札。人混み。

19:10。空気が薄くなる。音が遠のく。


絆創膏のない朝倉が手を伸ばす。

「鍵、返して。君のものじゃない」


「返さない」

朝倉(絆創膏)が前に出る。

「それは閉じる鍵だ。お前が欲しいのは“消す”鍵だろ」


絆創膏のない朝倉は笑う。

「正しく戻すだけ。矛盾を閉じ直す。――閉じるのは君自身だ」


ぞっとした。

閉じるのは私。消えるのは私。


朝倉(絆創膏)が私の手を握る。

「栞、ルールを思い出せ。19:10、分かれ道、心が揺れてる。――扉が見える」


私は非常扉の鍵穴を見つける。

今まで見えなかったのに、今は見える。


鍵を差し込む。回す。

扉が開く。


潮の匂い。消毒液と埃。

旧病院の地下へ繋がる廊下。


絆創膏のない朝倉が笑う。

「そう。そこだ。鍵を渡せ」


私は振り返る。

同じ顔。違う温度。

そして決める。未来の栞が間違えた“見分け”を、今度は自分で。


私は言う。

「朝倉、一緒に来て」

絆創膏のあるほうへ。


絆創膏のない朝倉は眉をひそめる。

「感情で選ぶな」

「感情でいい」

私は答える。

「私の人生だから」


扉が閉まる。ガチャン。


旧病院の地下。

背後から、絆創膏のない朝倉が現れる。先回りしたのか、重なりが彼を通したのか。


「鍵を渡せ。未来の栞が消えれば、君は助かる」


朝倉(絆創膏)が言い切る。

「違う。消えるのは今の栞だ。お前は“助ける”って言葉で奪う」


記録室へ走る。

壁の奥の金属扉。鍵穴。

開くと、狭い空間に鏡。


鏡の前のメモ。


――“ここに閉じ込めるのは、嘘をつくほう”


嘘。

甘い言葉で選択を奪うほう。


絆創膏のない朝倉が叫ぶ。

「鍵を渡せ!」


私は震える声で言う。

「渡さない。守るって言葉、もう信用しない」


鍵を回す。鏡が水面みたいに揺れる。


絆創膏のない朝倉が、最後に笑う。

「後悔するよ」


彼は一歩踏み込み、鏡に飲まれる。

次の瞬間、鏡は静かになった。


鍵が一度だけ鳴った。カチ。

拍手みたいに。


11. 余韻としてのベル


外へ出ると、空が白みはじめていた。旧病院の上に、朝焼けが薄く広がっている。


「未来の私、どうなったのかな」

私が呟くと、朝倉は少し黙ってから言った。

「消えたんじゃない。繋いだんだと思う。君に」


涙が出そうになる。

途切れた声は、負けじゃなくて、橋だった。


「ありがとうって言いたい」

「じゃあ、生きて言え」


潮の匂い。風。鳥の声。

昨日までの恐怖が嘘みたいで、嘘じゃない。


朝倉の指の絆創膏は少し汚れていた。守った跡。


「……好きって」

朝倉は言いかけて止める。息を吸う。

「言うの、今でも怖い」


「私も怖い」

「じゃあ」

彼は笑った。

「怖いまま、言おう」


「栞が好きだ」

声が震えていた。嘘じゃない震え。


「私も。……朝倉が好き」


言った瞬間、胸の奥がほどけた。

鍵の音じゃない。

自分が自分に戻る音。


遠くで自転車のベルが鳴った。

チリン。誰かの朝の始まり。


それが私たちの余韻になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ