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人人生  作者: うにたこ
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第五章 夜明け前の影たち

 黄梁館の夜は、深く静かだった。

 外から聞こえるのは、家々の戸が風に鳴る音と、遠くを走る貨車の低い唸り声だけ。

 総悟は布団の中で浅い眠りを繰り返していた。


 夢はなかった。

 少なくとも、先ほどの霊が見せた闇のようなものは、何ひとつ姿を見せなかった。


 代わりに──

 ぼんやりと、白い袖が揺れる気配だけが残っていた。


(……あゆみ)


 名前を呼びそうになり、総悟は寝返りを打った。


 枕元には、あゆみが置いていった紙包み。

 微かに香る薬草の匂いは、霊が触れた冷気を追い払うように、胸の奥までしみこんでいく。


(あの女……意外と気が回るんだよな)


 そう思った瞬間、ふいに襖の向こうがわずかに揺れた。


 誰かの気配。


 山野の客室見回りか──いや、違う。


 もっと軽い。

 もっと細い。

 ためらいがちな足音。


「……あゆみか?」


 総悟が小さく呟くと、足音がぴたりと止まった。


 返事はない。

 だが、逃げる気配でもない。


「入っていいぞ」


 そう言うと、しばらくして襖が静かに開いた。


 行灯の薄明かりの下に立っていたのは──

 紺の外套を羽織ったままの、橋本あゆみだった。


「……起きてたのね」


「人んとこに夜中押しかけといて、その言いぐさかよ」


「押しかけてないわ。様子を見に来ただけよ」


「どっちも同じだろ」


 そう言いながらも、総悟の胸はどこかざわついていた。


 灯りのせいか、あゆみの横顔は昼間よりも柔らかい。

 強い陰陽師の顔ではなく、年相応の少女の顔。


 あゆみは部屋に入ると、襖をそっと閉めた。


「……眠れなかった?」


「寝たよ。今ちょうど起きたとこだ」


「悪夢は?」


「なかった」


 その答えを聞くと、あゆみは小さく息をついた。


「よかった……」


 なんでもないように呟いたが、その声音にははっきりと安堵が混じっていた。


「お前こそ、眠れねぇんじゃねぇのか」


「……少しだけ」


 あゆみは畳の上に腰を下ろし、行灯の光を受けながら膝を抱えた。


「さっきの霊のこと、まだ気にしてるのか」


「気にしてないわけじゃないけど……でも、それだけじゃないの」


「じゃあなんだよ」


 総悟が問うと、あゆみはほんの一瞬だけ口をつぐんだ。


 そして──ゆっくりと視線を上げる。


「……あなた、今日、影に触れたわ」


「まあな」


「影に触れられるっていうのは、ただの怪我ってだけじゃ済まないこともあるのよ。

 それを放っておくのは……やっぱり気になるの」


「だから見に来たのか」


「そうよ。文句ある?」


「ねぇよ」


 即答すると、あゆみは意外そうに瞬いた。


「もっと言い返してくると思ったのに」


「お前が泣きそうな顔してんのに気づかねぇほど鈍くねぇよ」


「なっ──!」


 あゆみの頬が、ぱっと赤くなった。


「泣いてなんかいないわよ!」


「じゃあ、その目の赤さはなんだよ」


「ただの……寝不足よ!」


 あゆみはそっぽを向いたが、耳まで赤いのが丸分かりだった。


(……かわいいな)


 言葉にはしなかったが、総悟の心はそう呟いていた。


 あの強がりの裏に、こんな表情を隠していたなんて思わなかった。


「帰ろうと思ったんだけど……」


「ああ?」


「…………少しだけ、ここにいてもいい?」


 その言葉はあまりにも小さく、あまりにも素直で──

 総悟は一瞬返事を忘れた。


「怖ぇのか? 霊のせいで」


「違うわよ!」


 即座に言い返すところは、彼女らしい。


「ただ……あなたが影に触れたときのこと、どうしても気になって。

 あれは結構危なかったのよ。だから、その……寝る前に確認しておきたかっただけ」


「医者じゃねぇんだから」


「医者より、私のほうがこういうのは得意なの」


「へぇ」


「なによ、その顔」


「いや、お前が誰かのこと気にして夜中に来るとか、意外だなって思ってよ」


「……意外、かもしれないけど。

 でも……気にすることだって、あるのよ」


 あゆみはそう言って、視線を総悟の胸元に落とした。

 まるで、そこに触れた霊の冷気を確かめるように。


 総悟は、わざと軽く言った。


「触ってみるか? 危ねぇとこあったら教えろよ」


「ばっ……な、なんでそういうこと言うのよ!」


「別に変な意味じゃねぇよ」


「分かってるけど、言い方ってものがあるでしょう!」


 頬を真っ赤にして怒る彼女は、いつもの強気な雰囲気とはどこか違っていた。


「ほら、早く言えよ。見て安心したら帰るんだろ」


「……そうね。少しだけ」


 あゆみは、おそるおそる手を伸ばした。

 総悟の胸元、影が触れたあたりに、そっと。


 細い指が、布越しに触れる。


 ひやりとして──そして。


「……大丈夫そうね。冷気は残ってない」


「最初にそう言えよ」


「触らないと分からないのよ!」


 言い返しながらも、あゆみの指はしばらくそこにあった。

 離れたくないように見えるのは、気のせいなのだろうか。


 総悟は、わざと小さく呟いた。


「そんなに心配してくれるとは思ってなかったな」


「べ、別に、心配なんか──」


「素直になれよ」


「心配なんかしてないわよ!」


 だが、その声には力がなかった。

 赤くなったまつげが震え、あゆみは視線を逸らした。


「……少しだけよ。本当に少しだけ、気になっただけ」


「そっか」


「なによ、その言い方」


「別に」


 沈黙が落ちた。

 だが、その沈黙は不快ではなかった。


 行灯の光が揺れ、二人の影がゆらりと重なる。

 その影は、すぐに離れてしまうような、まだ形の定まらない重なり方だった。


 あゆみが小さく息を吐いた。


「……もう帰るわ。長居すると、叔父さまがうるさいから」


「そうしとけ」


「ええ」


 あゆみは立ち上がり、襖の前で振り返った。


「……おやすみ、総悟」


「おう。おやすみ」


 襖が閉まる。


 その音は、なぜか胸に残った。


 去っていく足音が遠ざかっても、総悟はしばらく布団に入らなかった。


(……面倒どころじゃねぇな)


 そう思いながら、ようやく布団に体を沈めた。


 胸元には、まだあゆみの指先のぬくもりが、かすかに残っていた。


 黄梁館の屋根の向こう、山の端あたりがようやく白み始めた頃、橋本あゆみは、ひんやりとした石畳の上に立っていた。


 総悟の部屋を辞したあと、彼女は宿の裏手にある細い坂道を上り、黄梁の町外れに建つ陰陽寮の別宅へ戻ってきていた。ここは橋本家が仮の住まいとしている屋敷であり、今は彼女と叔父の雄二、数人の陰陽師見習いが寝起きしている。


 門をくぐると、庭先の砂利がかすかに鳴った。


「……遅いな」


 低い声が、闇と朝の境目に落ちた。


 縁側に立っていた橋本雄二が、片手に湯呑みを持ったまま娘のような姪を見下ろしている。髭に朝露がついたように白い光が乗り、軍服にも似た陰陽寮の制服はきちんと着崩れなく整えられていた。


「ただいま戻りました、叔父さま」


 あゆみは素直に頭を下げた。反論したところで、この男には通じない。そう悟っている。


「報告はあとで聞く。まずは一つだけ確認しておく」


「……はい」


「おまえ、ひとりで寺へ行ったのではあるまいな」


 あゆみの肩が、ぴくりと動いた。


「ひとりじゃなかったわ」


「誰と行った」


「……黄梁館に泊まっている子よ。早崎総悟。以前、父さまの代で縁があった家の……」


「避難民の子か」


 雄二の声に、ほんの僅かな色が混じった。哀れみとも違う、侮りでもない、慎重さだけを濃くしたような響き。


「彼のこと、知っているの?」


「名だけはな。早崎二郎の息子だろう。あの男は……まあ、頭は禿げているが腕は確かだ。術者ではないが、戦時中に陰陽寮の補助をしていた。耳にしたことがある」


「そうだったの……」


 知らなかった過去が、ふいに身近なところで繋がった気がして、あゆみは胸のあたりがざわつくのを感じた。


「叔父さま。総悟は……」


「寺で何があったかは、あとで詳しく聞く。今は一つだけ」


 雄二は湯呑みを縁側に置き、あゆみのほうへ二歩進み出た。


「おまえ、あの少年を“巻き込む”つもりはあるのか」


「巻き込みたくて連れていったわけじゃないわ」


「影に、触れたものがいる」


 短く、淡々と言い切る声。


「さっき、寮へ戻る前に寺を見に行った。気配は消えていたが、地面に残った霊の痕跡と……もう一つ、妙な揺らぎがあった。あれはおそらく、早崎の影だ」


「……やっぱり、気づいていたのね」


 あゆみは息を飲んだ。

 総悟が霊の影に触れられた瞬間の、いやな冷たさ。

 それが彼の胸元にわずかに残っていたこと。

 お守りと香でどうにか軽くしたとはいえ、完全に拭い去れた自信はない。


「霊に触れられやすい体質。それ自体は珍しくもない。だが、あの子は……少し、深く入りすぎる」


 雄二は、ゆっくりとあゆみを見つめた。


「おまえが一番、分かっているはずだ。彼と霊との距離は、おまえと霊との距離より、ほんの少しだけ近い」


「……そう、かもしれないわ」


 あゆみは視線を落とした。


 自分は陰陽師だ。訓練を積み、術を覚え、守るべきものを持っている。

 だが総悟はそうではない。ただの……旅人だ。ハーフの顔立ちをした、どこか影を引きずった少年。


「叔父さまは、どうしたいの?」


「本音を言えば、黄梁から早く遠ざけたい。ここは霊災の傷が濃い。ああいう体質の子どもが長居する場所ではない」


「……でも」


 その言葉が、あゆみの喉の奥で引っかかった。


 出会ってから、まだ一日も経っていない。

 それなのに、あの少年を「遠ざければいい」と簡単に言われることが、妙に腹立たしく思えた。


「彼は、何も知らないまま巻き込まれるほうが危ないわ。霊に触れられるならなおさら。少しは、こちらのことも知っていないと」


「教えるつもりか」


「必要なことだけよ」


 雄二は、じっとあゆみの顔を見た。

 自分の姪が嘘を言っていないかどうか、その目は容易に見抜く。


 しばらくの沈黙のあと、彼はようやく「勝手にしろ」と呟いた。


「ただし、線は引け。おまえは陰陽師で、あいつはそうではない。その線を曖昧にしたとき、人は簡単に沈む」


「分かっているわ」


「分かっていればいい」


 雄二は背を向けると、縁側をゆっくり歩き出した。

 朝の薄明かりに浮かび上がる背中は、やはり固く、重い。


 あゆみは、その背中を見送りながら小さく息をついた。


(線を引け、ね……)


 頭では分かっている。

 陰陽師と、そうでない者のあいだには、越えてはならない境界がある。

 それを曖昧にしたとき、守るべきものを守れなくなる。

 何度も教わってきた。


 分かっている。

 ……はずなのに。


 黄梁館の一室で、眠たげな目をして自分を見上げた少年の顔が、まぶたの裏にちらりと浮かんだ。


(……あんな顔、されたら)


 線を引くのは、思っていたより難しいのかもしれない。


 あゆみは、自分の頬がわずかに熱くなっているのを感じながら、静かに屋敷の中へと戻っていった。


     *


 木の割れるような音が、遠くで聞こえた。


 次の瞬間、総悟はぱちりと目を開けた。


 天井板の節の位置からして、ここが黄梁館の一室だということを思い出すまで、数秒かかった。夢と現の境界が、まだはっきり分かれていない。


「……今の、なんだ」


 耳を澄ますと、どこかで誰かが薪を割っているような音がかすかに続いている。宿の裏手か、それとも近所の民家か。いずれにせよ、どうということはない日常の音だ。


 身体を起こすと、薄い布団がさらりと滑り落ちた。

 胸元に手を当ててみる。あの冷たい感触は残っていなかった。


 代わりに――別の温度が、皮膚の奥にわずかに沈んでいる。


 昨夜、あゆみがそこへ触れたときの、指先の暖かさ。


「……あいつ」


 思わず顔をしかめる。

 思い出している自分が、少し気恥ずかしい。


 枕元の紙包みからは、まだ微かな香りが漂っていた。眠りを邪魔しない程度の、淡い薬草と木の香り。総悟はそれを指先でつまみ、軽く振って鼻先へ寄せた。


「たしかに、悪夢はなかったな」


 ぼそりと呟き、立ち上がる。


 窓の外は、すでに朝の色だった。

 山の上のほうは薄い霧に覆われ、町の屋根には白い息がまだ張りついている。遠くで子どもの笑い声がした。学校へ急ぐのだろうか、足音が石畳を走り抜ける。


 総悟は顔を洗いに共同の洗面所へ向かった。冷たい水を両手ですくい、頬にあてる。肌がきりりと引き締まる。鏡代わりの金属板には、眠そうなハーフの顔が映っていた。


「……目つき悪いな」


 つぶやいて、肩をすくめる。


 部屋へ戻ると、廊下で山野とすれ違った。


「おはようございます、早崎さま」


「おはようございます」


「よくお休みになれましたかな」


「はい。変な夢も見ずに」


「それは何より。顔色も悪くない。……さて、朝餉の支度ができております。よろしければ一階の広間へどうぞ」


「ありがとうございます」


 黄梁館の広間は、朝の光でいっぱいだった。

 大きな窓から差し込む陽が、畳の目をくっきりと浮かび上がらせる。壁際には古いラジオが置かれ、どこかの放送局の軽快な歌謡曲を低い音量で流していた。


 すでに数人の客が食事をしていた。商人らしき男、地方役人と思しき中年、旅の僧。みなそれぞれに茶碗を手に、黙々と飯をかき込んでいる。


 総悟も案内された席に腰を下ろした。

 焼き魚と味噌汁、卵焼きに漬物。素朴だが心の落ち着く献立だった。


「今日から、お仕事でしたな」


 山野が茶を注ぎながら尋ねた。


「ええ。工房で世話になることになってます」


「黄梁紡ぎの工房ですかな」


「そうです。織物やってるところだって聞きました」


「それはよい。あそこの主人は口は悪いが、腕は確かですよ。あなたのお父上が昔、軍への納品で世話になっていたはずです」


「……そうなんですか」


 また父の影が、思わぬところで顔を出した。


 どこへ行っても、あの禿げた背中がちらつく。

 うっとうしいような、心強いような、不思議な感覚だ。


「まあ、最初は戸惑うことも多いでしょうが……困ったことがあれば、黄梁館に戻ってきなさい。ここは旅人の宿でもあり、少しばかり、避難民の子らの行き場でもありましたからな」


「避難民……」


 その言葉に、総悟の箸が一瞬止まった。


 山野は、その動きを見逃さなかった。


「私も、戦の頃はあちこちの町を回りました。親をなくした子、故郷を焼かれた子、言葉の通じない異国の子……いろいろ見てきましたよ。あゆみさんも、その辺りの話はよく知っている」


「……あゆみが?」


「ええ。陰陽師というのは、霊ばかり見ているわけではないですからな。生きている人間の心のほうが、よほど厄介だ」


 山野はそう言って、湯呑みを口に運んだ。


 その言葉が妙に胸に残り、総悟は味噌汁の味が少し薄く感じられた。


     *


 朝餉を済ませると、総悟は黄梁館を出た。

 山野に教えられた道をたどり、町の中心部へ向かう。


 朝の通りは、昨夜のそれとはまた違う顔をしていた。

 店先を掃く女たちの姿。学校へ急ぐ学生服の子どもたち。荷馬車を引く男たち。屋台はまだ片づけられたままで、代わりに豆腐屋のラッパが軽快な音を響かせている。


「ええと……この角を曲がって……」


 紙切れに書かれた地図を見ながら歩いていると、不意に横から声が飛んできた。


「あっ、ごめんなさいっ!」


 次の瞬間、肩に柔らかい衝撃を受けた。

 総悟はとっさに身をひねり、衝突してきた相手を支える。


 白いブラウスに、紺の吊りスカート。

 リボンで結ばれた黒髪。

 大きな瞳。


 まさに「美少女」とでも形容したくなるような少女が、目の前で慌てて頭を下げた。


「す、すみません!前をちゃんと見てなくて!」


「ああ、いや……大丈夫だから」


 総悟は支えていた肩からそっと手を離した。


 少女は顔を上げ、総悟の顔を見て、ぽかんと口を開けた。


「あ……」


 その視線は、驚きと、少しばかりの感嘆を含んでいた。


「わあ、本当にハーフさんだ……」


「“本当に”ってなんだよ」


 思わずツッコミが出る。


「だ、だって、噂は聞いてたんですもの。黄梁館に、すごくかっこいい人が泊まってるって。あの、異国の血が入ってるって……」


「誰だよ、そんな噂流してんのは」


「えっと……多分、山野さん?」


「……あのじいさん、余計なことを」


 総悟が頭を抱えると、少女はころころと笑った。


「ごめんなさい、私、三鷹やよ子って言います。黄梁の商店街でお店をやってる家の娘です」


「三鷹……」


 どこかで聞いたような苗字だと思った瞬間、昨夜あゆみがぽつりと言っていた言葉が蘇った。


――友達もいるのよ、この町に。


 たしか、そんな話の中で一度だけ、「やよ子」という名前が出てきた。


「もしかして、お前……橋本あゆみの友達か?」


「えっ、あゆみちゃん知ってるんですか!」


 やよ子の目が、ぱっと輝いた。


「昨日、駅で会って、ちょっとな」


「“ちょっと”なんて言い方、怪しいですねぇ」


「別に怪しくねぇよ」


「ふふん……」


 やよ子は顎に指を当て、わざとらしく「ほう」と頷いた。


「なるほどなるほど。あゆみちゃん、いつの間にこんな素敵な人と知り合いに……」


「話が変な方向行ってんぞ」


「だって、あの子、男の人と普通に話すことあんまりないんですよ。陰陽師のお仕事ばかりで。……あ、叔父さんは別ですけど」


「だろうな」


 雄二の厳しい顔を思い出し、総悟は苦笑した。


「で、やよ子はどこ行くんだよ。そんな勢いでぶつかってくるってことは、急いでんだろ」


「あ、そうでした!あゆみちゃんのところに、お弁当届けに行く途中だったんです!」


「弁当?」


「はい。陰陽師って忙しいから、全然ご飯食べてないときあるんですよ。放っておくと、平気な顔して水とお茶漬けだけで一日過ごしちゃうから」


「……あいつ、ありえそうだな」


 総悟は思わず額に手を当てた。


 昨日、寺で無茶をしたあとも、彼女は自分の疲れを大して気にも留めていない風だった。

 きっと、食事も同じように後回しにしているのだろう。


「だから、私が時々こうして差し入れしてるんです。幼馴染みの責務ってやつですね!」


「責務って」


「えへへ」


 やよ子は悪びれもせず笑った。


 その笑顔は、あまりにもまっすぐで、あまりにも柔らかかった。

 陰陽師という陰の仕事をしているあゆみと、まるで正反対の光のような存在。


(……よくできた友達、ってやつか)


 そんな言葉が、自然と浮かんだ。


「で、あなたはどこに行くんですか?」


「工房。今日から働くことになってる」


「わあ、じゃあ、この町にしばらくいるんですね!」


 やよ子は嬉しそうに手を叩いた。


「よかったぁ。あゆみちゃん、絶対喜びますよ」


「なんでだよ」


「だって、あの子ったら……」


 やよ子が何かを言いかけたときだった。


「やよ子!」


 鋭い声が、通りの向こうから飛んできた。


 振り向くと、灰色のコートを羽織った長身の青年がこちらへ歩いてくるところだった。

 くっきりとした目鼻立ち、穏やかな表情。だがそのまぶたの奥には、年齢以上の落ち着きが宿っている。


 彼が近づいてくると、やよ子は「あ」と小さく声を上げた。


「颯真さん!」


「何度言ったら分かる。通りを走るな。危ないだろう」


 青年――武石颯真は、そよ子に真面目な顔で説教を始めた。


「ご、ごめんなさい。でも急いでて……」


「急ぎたければ、もっと早く起きろ」


「それは耳が痛いです……」


「全く」


 そう言いながらも、颯真の口調にはどこか甘さが混じっている。

 完全に叱りつけるのではなく、幼い妹を諭すような響き。


 総悟は、そのやり取りを少し離れた場所から眺めていた。


(……こいつが、武石颯真か)


 名前は、父の口から聞いたことがあった。

 「真面目すぎるくらい真面目な男だ」と、酒の席で笑いながら評していた。


 颯真の視線が、ふいにこちらへ向いた。


 黒目がちな瞳が、総悟の顔をじっと見つめる。


「君が……早崎総悟くんか」


「……そうだけど」


 名乗ってもいないのに名を呼ばれ、総悟は眉をひそめた。


 颯真は小さく会釈した。


「武石颯真。陰陽寮の……まあ、外側にいる人間だ。君の父上とは、昔少し縁があった」


「また親父かよ」


 思わず漏らした呟きに、颯真は苦笑した。


「二郎さんは、あちこちで顔を出していたからな。避難所でも、工房でも、陰陽寮の周りでも。……黄梁は、あの人にとっても帰りに近い場所だった」


「帰り、ね」


 その言葉の意味を、総悟はまだうまく掴めない。


 やよ子が、ふと思い出したように声を上げた。


「そうだ!颯真さん、あゆみちゃんのところに一緒に行きません?お弁当届けるんです!」


「……あゆみのところへ?」


 颯真の目が、かすかに揺れた。

 その変化を、総悟は見逃さなかった。


「僕は少しあとから行くよ。先に黄梁館へ寄らなければならない用事がある」


「ええー、じゃあ私だけで行きますけど……あ、そっか」


 そよ子が、ぽんと手を打つ。


「総悟さん、一緒に行きません?陰陽寮に。工房、こっちの道から行っても近いですよ!」


「は?」


 予想外の提案だった。


「だって、どうせいつかあゆみちゃんのところに顔を出すんでしょう?だったら最初から行っておいたほうがいいですって。叔父さんに挨拶もしといたほうが、あとあと楽ですよ」


「……楽じゃなさそうなんだが」


「大丈夫ですよ。ちょっと怖いですけど、根はいい人ですから!」


「“ちょっと”で済むのか」


「済みます、たぶん」


 やよ子の押しの強さに、総悟は頭をかいた。


 陰陽寮。

 橋本雄二。

 そして、あゆみ。


 どう考えても面倒事の匂いしかしない。

 だが同時に――そこへ足を向けたい自分もいる。


(……あの女のこと、何も知らねぇままでいるほうが、落ち着かねぇしな)


 総悟は小さく息を吐いた。


「分かったよ。道案内、頼む」


「はいっ!」


 そよ子の顔がぱっと明るくなる。


 颯真は二人のやり取りを静かに眺めていたが、やがてふっと目を細めた。


「……気をつけて行けよ。橋本の家は、簡単な場所じゃない」


「分かってますよ、颯真さん。あゆみちゃんの叔父さんなんですから」


「そういう意味だけではないさ」


 颯真の言葉は、少し意味深だった。

 だが、その続きを彼は語らない。


「では、僕は僕で用事を済ませてから向かう。……早崎くん」


「なんだよ」


「君に会えてよかった。また、ゆっくり話そう」


「話すことなんか、そう多くねぇと思うけどな」


「そうかな」


 颯真は控えめに笑い、軽く頭を下げると、別の通りへと歩いて行った。


 その背中を見送りながら、総悟は小さく舌を鳴らした。


「……親父の知り合いが多すぎんだろ、この町」


「いいことですよ、それは」


 やよ子が屈託なく笑う。


「さ、行きましょう。あゆみちゃん、きっと驚きますよ」


「驚くだけならいいけどな」


 総悟は、苦笑しながらやよ子の後を歩き出した。


 黄梁の朝の光は、まだ柔らかかった。

 だが、その光の下で交わる視線や声や縁は、少しずつ絡まり合い、やがてほどけにくい結び目へと変わっていく。

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