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人人生  作者: うにたこ
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第四章 黄梁館の灯りに揺れる影

 黄梁館は、黄梁駅から少し外れた、坂道を上がりきったところに建っていた。山の斜面に沿うように張りついた木造二階建てで、瓦屋根はところどころ色が褪せ、軒先の板には長年の雨風で染みが浮かんでいる。それでも、手入れだけは怠られていないのだろう。玄関前の石畳には落ち葉ひとつなく掃き清められていて、竹箒で描かれた柔らかな筋が夕闇の中に残っていた。


 丸い赤提灯が二つ、入口の左右に吊るされている。薄い和紙越しに灯りがにじみ、風もないのにわずかに揺れていた。提灯の中央には、達筆とも下手ともつかない字で「黄梁館」と書かれている。その文字のかすれ具合が、この宿の年月を物語っていた。


「ここよ。あなたの泊まるところ」


 先に立っていた橋本あゆみが、くるりと振り向いて言った。紺の外套の襟元に、あの寺で浴びた冷気の名残がまだ残っているように見える。顔色はさほど悪くはないが、目の下の隈はほんの少し濃くなっていた。


「もっとぼろっちいの想像してたわ」


「お前が言うのかよ」


 思わず突っ込むと、あゆみは肩をすくめた。


「冗談よ。ここは、黄梁でも真面目な宿のほう。陰陽寮も、外から人を呼ぶときはたいていここを使うの」


「陰陽師御用達の宿ってやつか」


「そんなたいそうなものじゃないわ。ただ、変な噂が少ないだけ」


 変な噂、と言いながら、彼女の視線が一瞬だけ町のほうへ流れた。昔、避難民を泊めた宿が霊に取り憑かれただの、陰陽師を怒らせて祟られただの、ろくでもない話はいくらでも聞いてきた。そういう類のものから、黄梁館はどうにか距離を保っているらしい。


 総悟は、ふうん、と鼻で笑った。


「まあ、寝られて飯があればどこでもいいけどな」


「そのわりに、さっきからあちこちじろじろ見てるじゃない」


「初めて来る町なんだから、見るだろ」


「……そうね」


 短く返したあと、あゆみは少しだけ表情を和らげた。険のとれた横顔は年相応に幼く見え、その一瞬の変化が総悟には妙に印象に残った。


「行きましょう。寒くなるわ」


 あゆみが先に上がり框を上がる。総悟も靴を脱ぎ、板の上に足を乗せた途端、鼻腔をふわりと懐かしい匂いがくすぐった。畳と、煮物と、古い木の匂い。戦前から続いている家特有の、時間そのものが染みこんだ匂いだ。


「いらっしゃいませ」


 帳場の奥から、柔らかい声がした。現れたのは、白髪まじりの老人だった。背はあまり高くないが、背筋はまっすぐ伸びている。薄い眉の下の細い目が、笑うとさらに細くなった。


「おやおや、あゆみ様。今日もお戻りで」


「ただいま戻りました、山野さん。それと、こちらの方が……」


「早崎総悟です」


 軽く会釈すると、老人は「ほう」と短く声を漏らした。


「なるほど、聞いていたとおりの……いえ、聞いていた以上の方ですな」


「以上ってなんだよ」


 警戒半分で言い返した総悟に、老人はくすりと笑った。


「いえいえ、悪い意味ではありませんよ。異国の血が混じったお顔立ちだが、目の奥はこの国の人間そのものだ。黄梁は古い町ですからな、珍しいものはだいたい良くも悪くも噂になる。そういう意味で、『以上』です」


「はあ……」


 褒められているのかどうか、よく分からない。だが、嫌な感じはしなかった。じろじろと好奇の目を向けてくる町の連中とは違う。長い年月、いろんなものを見てきた人間だけが持つ、落ち着いた視線だった。


「あゆみ様から話は聞いております。今夜からしばらく泊まられるとか」


「様はやめてくださいって、何度言えばいいのかしら」


「それもそうですな。では、あゆみ嬢で」


「それもやめてほしいわ」


「では、あゆみさんで」


「……まあ、それなら」


 山野と呼ばれた老人とのやり取りに、総悟は口元を緩めた。あゆみが「様」だの「嬢」だの呼ばれているのが妙にこそばゆい。さっきまで霊と正面から向き合っていた陰陽師と、ここで年寄りに軽口を叩いている少女が、同じ人間だということがうまく結びつかない。


「お部屋は二階の一番奥を用意しております。旅のお疲れもあるでしょう、まずは荷を置いてひと息入れてくださいな。夕餉は一刻ほど後にお持ちします」


「分かりました。ありがとうございます」


 山野が荷物を持ち上げようとするのを、総悟は慌てて止めた。


「あ、自分で持ちます。」


「そうですか。では、お言葉に甘えて」


 老人は素直に手を引っ込め、先に立って階段を上がっていく。木の階段は年季の入った軋みを立てたが、不思議と不快ではなかった。節の浮いた手すりを握ると、ひやりとした感触が掌に移る。


 二階の廊下は、細く長い。片側に部屋の障子が並び、反対側は格子戸になっていて外の闇がうっすらと見える。街灯の光が遠くに点々と並び、その向こうに山の黒い影が重なっていた。


「ここです」


 廊下の突き当たりの部屋の前で、山野が立ち止まった。


 障子を開けると、八畳ほどの和室が現れた。畳はところどころ日焼けしているが、きちんと表が張り替えられている。窓際には小さな机と座布団が置かれ、隅には古い行灯がひとつ灯っていた。


「おお……」


 総悟は思わず声を漏らした。


「なんだよ、悪くないじゃねぇか」


「最初からそう言えばいいのに」


 後ろからあゆみの呆れた声が飛ぶ。


「ここ、私もよく使うのよ。夜遅くまで陰陽寮に詰めてるときとか、叔父さまが『女の子が一人で帰るのは危ない』ってうるさくて」


「心配されてんじゃねぇか。いいことだろ」


「そうかしら」


 あゆみは窓の外に視線を向けた。格子越しに見える町の灯りが、遠くの星空と混ざって瞬いている。


「心配されるの、あまり好きじゃないのよね。縛られているみたいで」


「贅沢な悩みだな」


 そんな言葉が口をついて出たのは、自分でも意外だった。

 避難民として流れ流れた幼い頃、誰も心配してくれない夜を何度も経験した。目を閉じれば、今でも時折、冷たい床と腹の空き具合を思い出す。


 心配されるうちが花だ。

 あの頃の自分にそう言ってやりたい気持ちと、束縛を嫌うあゆみの気持ちを否定しきれない感覚とが、胸の中で小さくぶつかり合った。


「贅沢って何よ」


「こっちには、そんなふうに心配してくれるやつ、そんな多くねぇからな」


「お父さんがいるじゃない」


「親父は、心配というより、でかい子どもを見てるみたいなとこあるからな。やたら世話焼きだけど」


 あゆみがくすりと小さく笑った。


「でも、あなたが話をしてるときの顔、どこか嬉しそうよ」


「してねぇよ」


「してるわ。自分じゃ気づかないのね」


 図星を突かれたようで、総悟は視線を逸らした。


 その様子を見て、あゆみはなぜか少しだけ表情を和らげた。


「……いいわね」


「何が」


「そうやって照れくさそうに話せる相手がいるってこと」


 あゆみの目の奥を、かすかな影が横切った。

 叔父の雄二に育てられたと彼女は言った。家族と言えば、今の彼女にはその叔父と、陰陽寮の仲間たちくらいのものだろう。


 親について語る彼女の声を、総悟はまだ聞いたことがない。


「別に、大した親父じゃねぇぞ」


「大したかどうかなんて、関係ないわ。そばにいてくれるかどうかだけが大事なのよ」


 あゆみが、さらりと言った。

 その一言は、彼女自身の願いの裏返しにも聞こえた。


「……まあ、たしかにな」


 総悟は、曖昧に相槌を打った。


 山野が、控えめに咳払いをした。


「お若い方々のお話のところ失礼。寝具はこちらで用意しますので、夕餉のあとはいつでも横になれるようにしておきます」


「すみません、山野さん」


「ありがとうございます」


「いえいえ。今夜は冷えますからな。風邪などひかれませんよう」


 山野は静かに部屋を出て行った。障子が閉まる音が、やけに柔らかく耳に届く。


 部屋に二人きりになると、途端に空気が変わった。


 広くはない部屋だ。行灯の灯りが壁に二人分の影を落としている。その影が、微妙な距離を保ちながら揺れていた。


「……とりあえず、座れよ」


「あなたの部屋よ。勝手に座ればいいじゃない」


「客を先に座らせるのが礼儀だろ」


「ここでは私が客じゃないわ。あなたが客。私は半分、案内役よ」


「めんどくせぇな、お前の理屈」


「あなたのほうがめんどくさいわ」


 言い合いながらも、二人とも座布団の上に腰を下ろした。畳の匂いと、行灯の灯が醸し出す温もりが、先ほどまで張り詰めていた神経を少しずつほぐしていく。


 寺で霊と対峙していたときの感覚が、まだ皮膚の内側に残っている。

 胸元を撫でたあの冷たさ。

 霊の胸の穴に覗いた光景。

 あゆみの声。


「なあ」


 総悟は、行灯の灯を見つめたまま口を開いた。


「さっきの霊……ああやって話を聞くの、やっぱり橋本んとこだけなのか」


「そうね。少なくとも、私はそう教わってきたわ」


 あゆみは膝を抱えるように座り、顎を軽く乗せた。


「陰陽師の仕事は、霊を祓うこと。そこに余計な感情を挟まないほうが楽なのよ。敵か味方か、危険か安全か。それだけで割り切れたら、本当はそのほうがよかったのかもしれない」


「でも、お前はそうしてねぇ」


「ええ。……叔父さまは、最初は反対だったわ」


 あゆみの視線が、薄い天井板の向こうを見つめるように遠くへ向いた。


「でも、あるときから何も言わなくなった。『いつか、おまえも分かる』って。それが何を指しているのか、私はまだ完全には分かってないけど」


「いつか分かるものを、今は分かんなくていいんだろ」


「随分いい加減な言い方ね」


「いい加減じゃねぇよ。そういうもんだろ。……親父も似たようなこと言ってた」


 あゆみが目を丸くした。


「あなたのお父さんも?」


「ああ。子どもの頃、なんでこんな顔に生まれちまったのかって聞いたことがある。ハーフだってだけで面倒が増えるなら、普通の顔に生まれたかったって」


「それで、お父さんはなんて?」


「『そのうち、この顔で助かる日も来る』だとよ。適当な慰めだと思ってたけどな」


 総悟は、鼻を鳴らした。


「今は?」


「……さあな。まだ、その日が来たかどうか分かんねぇよ」


 言いながら、自分の顔にあゆみの視線が向けられているのを感じた。

 彼女は値踏みするようにじっと見つめてくるわけではなく、ただそこにあるものを確かめるような目つきをしていた。


「少なくとも」


 あゆみがぽつりと言った。


「さっき、寺であなたが前に出たとき……私は、助かったと思ったわ」


「どこがだよ。邪魔しただけだろ」


「邪魔じゃなかった」


 即答だった。


「霊は、私にだけ向かってきた。私一人でどうにかできると思われていたのよ。でも、あなたが間に入った瞬間、あいつは迷った。狙いを定められなくなった。……その隙がなかったら、私はもう少し怪我をしていたかもしれない」


「それは、お前がちょっとドジなだけじゃねぇのか」


「今の話のどこにドジ要素があるのよ」


「なんとなく、雰囲気で」


「あなた、本当に失礼ね」


 呆れたように言いながらも、あゆみの声には僅かな笑いが混じっていた。


「でも、ありがとう。……さっきは言いそびれたから」


「さっきも言ってただろ」


「もう一回くらい言っても罰は当たらないでしょう」


 総悟は、視線を窓のほうへ向けた。

 夜の帳がすっかり降り、町の灯りが小さな星のように点々と瞬いている。

 黄梁という町が、外から見ればただの点の集まりにしか見えないのと同じように、ここにいる自分たちもまた誰かから見ればただの点でしかないのだろう。


 それでも、今この部屋の中では、やけにすべてが濃く感じられた。


「……別に。礼を言われるほどのことじゃねぇよ」


 そう言いながらも、胸の奥が少し温かくなるのを総悟は誤魔化しきれなかった。


 そのとき、廊下から足音が近づいてきた。

 控えめに、障子が二度、軽く叩かれる。


「夕餉をお持ちしましたよ」


 山野の声だ。


「あ、どうぞ」


 あゆみが立ち上がり、障子を開けた。

 山野が膳を二つ持って入ってくる。

 木の香りのする盆の上には、湯気を立てる味噌汁と、煮物、小さな焼き魚、漬物の小鉢が整然と並べられていた。


「おお……」


 総悟の腹が、正直な音を立てた。


「ほう、良い鳴り具合ですな」


 山野が愉快そうに目を細める。


「若い方がしっかり食べてくださるのは、何よりです」


「こんなちゃんとした飯、久しぶりだな」


「お父上に聞かれたら悲しみますぞ」


「親父の飯は……別枠だ」


 思わず本音が漏れ、あゆみが「ふふ」と笑った。


「では、ごゆっくり。食器は廊下に出しておいてくだされば片づけます」


 山野が部屋を出て行き、再び二人きりになる。


「いただきます」


 あゆみは膝を正し、手を合わせた。

 総悟も、少し遅れて真似をする。


 味噌汁を一口すすった途端、舌と鼻と喉の奥に、懐かしい味が広がった。

 昆布と煮干しの出汁に、ほんの少し焦げた味噌の香り。

塩加減は、父の味噌汁よりわずかに控えめだが、それがかえって身体に染みた。


「どう?」


 あゆみが尋ねる。


「……悪くねぇ。っていうか、うまい」


「素直じゃないわね」


「褒めてんだろ、今のは」


「そうかしら」


 小さな煮物の皿には、大根と人参とがんもどきが入っていた。

 出汁がしみていて、箸で簡単に崩れる。


「こういうの、久しぶりだ」


「昔は、あまりこういうものは食べられなかった?」


 何気なく投げられた問いかけに、総悟の指先がわずかに止まった。


「……まあな」


 それ以上詳しくは語らない。

 語るには、まだこの場は落ち着きすぎていた。


 あゆみもそれ以上追及しようとはしなかった。

 代わりに、自分の味噌汁を一口すすり、「うん」と小さく頷いた。


「ここの味、好きなのよね」


「家の飯と違うからか」


「ちょっと違うの。家の味噌汁は、もっと厳しい味がするわ」


「厳しい味?」


「塩と出汁の量が、きっちり量られている感じ。一滴たりとも間違えないっていう顔で叔父さまが作るのよ。美味しいけど、緊張するの」


「例えがよく分かんねぇけど、とりあえず怖ぇ親父だってのは分かった」


「あの人、料理だけは本当に几帳面なの」


 会話はいつの間にか柔らかく転がっていた。

 重い話題に触れかけては逸らし、ささやかな笑いで埋める。

 それが、今の二人の距離にはちょうどよかった。


 膳が半分ほど減ったころ、あゆみがふと箸を止めた。


「ねえ、総悟」


「ん?」


「あなたさっき、『旅は一人のほうが気楽だ』って顔をしていたわ」


「顔で分かんのかよ」


「分かるわよ。霊の気配を感じるくせに、人の表情は読めないの?」


「うるせぇな」


 口ではそう言いながらも、図星だった。


「たしかに、一人は楽だよ。好きなときに起きて、好きなときに寝て、好きなときにどこかへ行ける」


「じゃあ、どうして今こうして私とここにいるの?」


 不意を突かれたような質問だった。

 彼女の黒い瞳が、真正面からこちらを見つめている。


「さあな」


 総悟は、わざとらしく肩をすくめた。


「たまたま、お前が突っ走るのが目について、放っとけなかっただけだよ」


「それだけ?」


「それだけだ」


 言い切ったつもりだったが、あゆみはどこか納得していない顔をしている。


「……まあ、いいわ。今は、それで」


 彼女はそう言って再び箸を動かした。


 今は、という言葉が妙に耳に残る。

 今はそれでいい。

 でも、いつかは違う答えを求められるのかもしれない。


 そんな予感が、味噌汁の湯気の向こうでぼんやりと揺れた。


 食事を終え、膳を廊下に出し終えると、部屋の中にはまた静けさが戻ってきた。

 行灯の灯が少し弱くなり、芯を調整すると、再び柔らかい光が広がった。


「じゃあ、私はそろそろ帰るわ」


 座布団から立ち上がりながら、あゆみが言った。


「夜更かしすると、明日の朝叔父さまに怒られるの」


「門限厳しいんだな」


「陰陽師は体調管理も仕事のうちよ」


「大変だな、エラい人は」


「あなたも、明日からは少しは真面目に働きなさい」


「明日から?」


「黄梁に来たってことは、何かしら仕事をするんでしょう」


 図星だった。

 二郎の知人の紹介で、黄梁の工房で働く話がついている。

 だが、陰陽寮の者からそれを言われると、妙に背筋が伸びた。


「まあ……できる範囲でな」


「さぼったら、霊より怖いものを見せてあげるわ」


「なんだよそれ。脅しか?」


「半分は冗談よ。半分は本気」


「どっちにしてもタチ悪りぃな」


 そんなやり取りをしてから、あゆみはふと真顔になった。


「……今日は、本当にお疲れさま」


「お前もな」


「少し、夢見が悪いかもしれないけど……」


 そこで言葉を切り、ポケットから小さな紙包みを取り出した。


「これ、さっき渡したお守りとは別のもの。香を少しだけしみ込ませてあるの。枕元に置いておけば、ひどい夢にはならないはずよ」


「便利なもんだな、陰陽師ってのは」


「全部が全部、術じゃないわ。気休め半分、私のわがまま半分」


「わがまま?」


「ええ。……今日、あなたに霊の影が触れたでしょう。あれ、放っておくと良くないのよ。本当はちゃんとした浄めの儀をしたほうがいいんだけど、今日は私も疲れているから」


 そこまで言って、あゆみは自嘲気味に笑った。


「だから、せめてこれくらい」


「十分だろ。それで」


「そうだといいけれど」


 あゆみは紙包みを畳の上に置き、軽く手のひらをかざした。微かな香の匂いがふわりと広がる。甘すぎず、どこか懐かしい、乾いた草と薬草とを混ぜたような香りだった。


「じゃあ、おやすみなさい」


「おう」


 障子が開き、廊下の冷たい空気が一瞬だけ流れ込んだ。

 あゆみの背中がその向こうに見える。

 振り返るかと思ったが、彼女はそのまま足早に去っていった。


 足音が完全に聞こえなくなってから、総悟は大きく息を吐いた。


「……ふう」


 天井を見上げる。


 黄梁の夜は静かだ。

 寺で聞いた風鈴の音は、ここまでは届かない。

 代わりに、遠くの犬の鳴き声と、誰かが戸を閉める音が、時折かすかに聞こえてくるだけだった。


 布団はすでに敷かれていた。

 畳の上に広げられた布団に身体を沈めると、旅の疲れが一気に押し寄せてくる。肩と腰がじんわりと重く、まぶたは自然と落ちていった。


 枕元には、あゆみが置いていった紙包み。

 微かな香が、鼻腔の奥を撫でる。


(……面倒な旅になるって、最初に思ったけど)


 まぶたの裏に、白い着物の袖が揺れる光景が浮かぶ。

 霊と向き合うあゆみの後ろ姿。

 霊を送り出したあと、わずかに震えていた指先。

 それでも立っていようとする足。


(……悪くねぇかもしれねぇな)


 そんなことを思いながら、総悟はゆっくりと意識を手放していった。


 この夜、彼が見た夢の中に、あの霊の姿は現れなかった。

 代わりに、霊の胸の穴の底でちらりと瞬いた、誰かの笑い声の残像と、白い袖の端だけが、遠くで揺れていた。

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