第三章 闇の声は風に紛れて
橋本あゆみは、両の足を石畳にしっかりと据えたまま、境内の中央に立っていた。
黄梁の寺は、町のざわめきから切り離されたように静まり返っている。
山の端に沈んだ陽の名残がわずかに空を染めているものの、本堂の屋根の下には早くも濃い影が溜まりつつあった。
軒から吊り下がる風鈴は、風もないのに、ときおりかすかに音を立てる。
境内の空気は、冷たいというより重かった。
息を吸えば、胸の奥に薄い鉛を流し込まれるような圧がある。
その中心に、霊がいた。
黒い影が、人の形を真似ている。
輪郭はところどころ欠け、胸のあたりにはぽっかりと穴のような暗さが沈んでいる。
煙のように揺れながらも、その場を離れようとしない。
目に見えぬ鎖に縛られているような在り方だった。
あゆみは白符の束から一枚を抜き取り、指先に挟んだ。
紺の外套の袖口から覗く手は細く、血の気が薄い。
だが震えてはいなかった。
彼女は、まっすぐ霊を見据えている。
「橋本あゆみ。
陰陽寮所属の陰陽師よ。
ここに問うわ。
さまようもの。
なぜ、ここに留まるの」
静かな声が、境内の石に染み込んでいく。
祈りにも似ているが、祈りではない。
呪と言うほど荒々しくもない。
それは、陰陽師だけが使う特殊な「問いかけ」の言葉だった。
霊がわずかに揺れた。
風のない夜に、池の水面に石を落としたようなさざめきが、その表面を走る。
胸の穴の底で、暗い火がちらりと瞬いた気がした。
石段の下からその様子を見ていた早崎総悟は、息を詰めていた。
昼間の駅で見た霊とは、質が違う。
あれは暴発した火花のようなものだった。
今、ここにいる霊は、長い時間をかけて固まった煤の塊のようだった。
「……嫌な感じだな」
誰に聞かせるでもなく漏れた言葉が、自分の耳に重く返ってくる。
黄梁の冷たい空気は、声さえも鈍らせるらしい。
霊が、声にならない呻きを上げた。
耳で聞こえる音ではない。
皮膚の内側を這うような振動が、総悟の背筋をなぞる。
「……返事、してるのか?」
思わずそう呟き、すぐに自分で首を振る。
霊が何かを語ったのだとしても、それを理解する力は自分にはない。
あれは陰陽師たちの仕事であり、自分のようなよそ者の出る幕ではない。
分かっているはずだった。
あゆみは、霊へ向けた指先をわずかに下ろした。
「何も、言えないのね。
それとも、言葉にできないほどのものを抱えているのかしら」
独り言のように呟きながら、彼女は一歩踏み込む。
白い足袋が石の上を滑るように進む。
その動作は慎重でありながら、ためらいはなかった。
総悟には、それがひどく危なっかしく見えた。
「おい」
石段の上にいる彼女へ向かって、思わず声が出る。
「近づきすぎじゃねぇか」
あゆみは振り向かない。
背中越しに、短い言葉だけが返ってきた。
「近づかなければ、届かないのよ」
「何がだよ」
「声が」
霊は、何も言わない。
だが、何かを抱えている。
それをほどくには、ある程度は近づかなければならない。
遠くから符を投げつけて焼き尽くすだけなら、腕の立つ陰陽師なら造作もないだろう。
だが、あゆみのやろうとしていることは、それとは少し違うようだった。
彼女は、霊に問おうとしている。
なぜここに留まったのか。
どこから来たのか。
何を失ったのか。
陰陽師のすべてがそうするわけではない。
効率だけを考えれば、問答などせずに封じてしまえばいい。
それでも橋本家のやり方は、まず「問う」ことから始まると聞いたことがある。
総悟は、父の二郎が酒の席でそんな話をしていたのをふと思い出した。
「橋本の連中は、厄介ごとを好き好んで拾ってくる」と笑っていた。
「……つまり、面倒くさい家系ってことかよ」
自分の胸の内に浮かんだ評価に、総悟は小さく吐息を漏らした。
だが、その面倒くささが、目の前の少女の横顔をいくらか綺麗に見せていることも否定できなかった。
霊の胸の穴の底で、再び火が瞬いた。
今度は、先ほどよりも明るく。
「来る……」
あゆみの肩がわずかに緊張する。
白符を握る指先に、力がこもった。
次の瞬間、霊の影が弾けた。
裂け目から、黒い腕のようなものが飛び出す。
床を這う影ではない。
空気そのものを掴み取るような、冷たい触手。
「危ない!」
総悟は石段を駆け上がった。
頭で考えるより早く、身体が動いていた。
彼女が危ないと、ただそれだけだった。
「来るなって言ったでしょう!」
あゆみの叱責が飛ぶ。
しかし、彼女の声には、さっきまでの静かな余裕はない。
霊の腕が伸びてきたのは、あゆみの真正面だった。
あゆみは符を一枚、弾くように投げた。
白い紙片が光を帯び、黒い腕に突き刺さる。
火花が散り、霊の動きが一瞬だけ鈍った。
だが、それだけだった。
黒い腕は、まるで紙を燃やした灰をものともせず、形を保ったまま伸び続ける。
「っ……!」
あゆみが後退る。
足が石畳の段差にひっかかり、体勢を崩しかけた。
総悟は、その背中を支えた。
「危なっかしいんだよ、お前は」
「余計なお世話よ!」
言葉の端が震えている。
強がりと恐怖と、それでも前へ出なければという義務感が、彼女の声の中で絡まり合っていた。
霊の腕が、今度は総悟のほうへ向きを変えた。
「……あ?」
気づいた時にはもう遅かった。
冷たい何かが、胸元をざらりと撫でる。
心臓が、強くひとつ脈打った。
どくん。
世界の色が一瞬だけ薄くなる。
視界の端が黒く染まり、耳の奥で鈍い鼓動だけが響き始める。
総悟は、膝が笑いそうになるのを歯を食いしばって堪えた。
「あなた!」
あゆみの叫び声が、遠くから聞こえた気がした。
霊の腕は完全には総悟を掴めなかったらしい。
だが、影が触れた部分だけが、ひどく冷たい。
肌の上ではなく、骨の内側が冷やされたような感覚だった。
「……へえ」
総悟は、唇の端を引き上げた。
自分でも、どうしてそんな顔が出たのか分からない。
「たいしたことねぇじゃねぇか」
強がりだと自覚していた。
だが、言わずにはいられなかった。
霊が、こちらをはっきりと向いた。
さっきまであゆみだけを見ていたはずの闇が、今は総悟を捉えて離さない。
胸の穴の奥から、何かがじっとこちらを覗いている。
怒りか。
嫉妬か。
憎悪か。
それとも――羨望か。
分からない。
だが、総悟はその視線から目を逸らさなかった。
「おい」
あゆみが袖を掴んだ。
「本当に危ないのよ。
あなた、普通の人より霊に触れられやすい。
さっきの一撃で済んだのは運がよかっただけ」
「普通じゃねぇのは、お前もだろ」
「私は陰陽師よ」
「だから余計に、危ない場所に突っ込んでくんだろうが」
あゆみが息を呑む気配がした。
反論しかけて、言葉が喉の奥でつかえたようだった。
総悟は、彼女の手を自分の腕からそっと外した。
「いいから前見てろ。
そいつは、お前に用がある。
俺のことはついでだ」
「ついでに殺されては困るのよ」
「簡単に死ぬ気はねぇよ」
視界の端で、霊の影が再びうごめいた。
黒い腕が、二本、三本と枝分かれしていく。
それぞれが違う方向へ伸びようとし、境内の空気をかき回す。
あゆみは、白符を二枚、一度に抜き取った。
「――橋本式」
その声は先ほどよりも低く、硬かった。
覚悟を固めた人間の声音。
「封鎖の二重輪。
一つは彼岸、一つは此岸。
迷う魂よ、輪の中にて眠れ」
符が、彼女の指先から放たれた。
二枚の符は空中で円を描き、霊の影を囲むように回転し始める。
淡い光の輪がふたつ、重なり合い、霊を挟み込んだ。
黒い腕が、輪の中で暴れる。
だが輪からは出られない。
壁があるわけではないのに、見えない膜に阻まれているようだった。
「今ならまだ、聞こえるはず」
あゆみは、霊との距離を一歩詰めた。
光の輪のぎりぎり外側で、彼女は立ち止まる。
「名前を、覚えている?」
問いかけに、霊の輪郭が震えた。
黒い表面に、一瞬だけ何かの文字のようなものが浮かびかけては消える。
人の顔らしき影も、数瞬だけ浮かんでは崩れ、判別のつかない歪んだ塊に戻る。
「家族は?
帰りたい場所は?
それとも、戻れない場所があるの?」
あゆみの声は、静かで、やさしかった。
普段の彼女の勝ち気な物言いからは想像できないほど、柔らかく、言葉を選ぶ声音。
総悟は、その横顔に見入っていた。
彼女は、霊と戦っているのではない。
霊と、話そうとしている。
「話が通じる相手じゃねぇだろ、そんなの」
思わず口に出しそうになって、総悟は唇を噛んだ。
彼女のやろうとしていることに口を挟む資格は、自分にはない。
霊の胸の穴の底から、低い音が漏れた。
――……ぁ。
耳で聞けば、ただの風の音と聞き間違えそうなほどかすかな声だった。
だが確かにそこには、人の言葉の名残があった。
あゆみは、その一欠片を聞き逃さなかった。
「……妻。
子ども」
霊の表面に、二つの影が浮かんだ。
一つは、小さな手。
一つは、髪を結い上げた女の後ろ姿。
「失くしたのね」
あゆみの瞳に、一瞬だけ影が差した。
「戦で?
霊災で?」
問いかけに、霊の影が激しく揺れた。
否、と肯の両方を含んだような、複雑な震え方。
「置いてきてしまったの?」
今度の揺れは、はっきりと肯定だった。
総悟の胸に、何かが引っかかった。
置いてきた。
置き去りにした。
自分だけが生き延びた。
その言葉の響きは、他人事ではなかった。
あの焼ける夜。
自分は、母の手を離してはいないつもりだった。
だが、結果としてはどうだ。
自分だけがここにいる。
母は、あの夜の向こう側に置き去りにされたままだ。
霊の姿が、とても他人には見えなかった。
「……」
声にならない声が、境内に溶けた。
言葉にならない謝罪のような、後悔のような何か。
あゆみは胸元で手を組んだ。
白符を握っていないほうの手が、わずかに震えている。
「分かったわ」
彼女は静かに頷いた。
「あなたは、迎えに行けない場所に家族を置いてきてしまったのね。
だからここに縛られている。
行くことも、戻ることもできずに」
霊の影が、しおれたように少し縮んだ。
胸の穴の底から、弱々しい光がまた一度、瞬いた。
「……でも」
あゆみの声が、少しだけ強くなる。
「ここにいても、何も変わらないわ。
あなたの家族は、もう別のところへ進んでいる。
生きているのなら、生きている場所で。
死んでいるのなら、死者の行くべき場所で」
光の輪が、かすかに明滅する。
霊の影が、その輪の中で身じろぎをした。
「だから、ここで終わりにしましょう。
あなたの後悔も、執着も、全部まとめて――眠らせてあげる」
あゆみは最後の一枚の符を、胸の前に掲げた。
その指先には、迷いがなかった。
「橋本あゆみが、橋となる。
此岸と彼岸の狭間にて、あなたを送り出す。
どうか、もう縛られませんように」
符が、静かな光を放った。
派手さはない。
駅で見た陰陽師たちの術のように、眩しい閃光が走ることもない。
だが、その光は妙に暖かかった。
冬の朝、障子越しに差し込む陽の光のような、穏やかな熱。
霊の影が、その光に包まれた。
胸の穴の底で、最後の火がふっと揺れ、消える。
黒い輪郭が、霧のようにほどけていく。
やがてそこには、何も残らなくなった。
風鈴が、ひときわ澄んだ音を立てた。
境内の重さが、少しだけ軽くなったような気がした。
あゆみは、静かに息を吐いた。
肩の力が抜け、膝がわずかに折れかかる。
総悟は慌てて駆け寄り、その肩を支えた。
「おい、大丈夫か」
「ええ……ちょっと、疲れただけ」
あゆみは苦笑いを浮かべた。
額にかいた汗が、夕闇の中でかすかに光っている。
「さっきも同じこと言ってたな」
「本当に、そうなのよ」
「信じていいもんかね」
「信じなさいよ。
嘘つく余裕なんてないもの」
言い返しながらも、あゆみの声は弱々しかった。
総悟は、彼女の体温の軽さに戸惑っていた。
自分の腕の中にあるのは、陰陽師という肩書きから想像するよりもずっと普通の、やわらかい身体だ。
命の重さを背負っているはずなのに、骨は細く、肌は薄い。
無茶しすぎだ。
そう思わずにはいられない。
「さっきの霊」
総悟は、支えた肩越しに境内を見渡した。
「……あんなふうに全部、話を聞いてから送るのか。
毎回」
「毎回じゃないわ」
あゆみは首を振った。
「話をしようとしても、何も聞こえないこともある。
怒りと恨みだけで固まってしまったものは、問う前に暴れるから。
そういう相手には、封印するしかないの」
「じゃあ、さっきのは、まだ話の通じる相手だったってことか」
「ええ。
あれくらいなら、まだ優しいほうよ」
優しい、という言葉の選び方に、総悟は眉をひそめた。
「優しいって言うのか、ああいうのを」
「少なくとも、もっと酷いのを知っているもの。
家族を呪い続ける霊とか、自分を殺した相手の子どもにだけ憑き続けるものとか。
そういうのに比べたら、さっきの人は……自分を責めているだけだったわ」
「自分を責めるのが一番性質悪くねぇか?」
「そうかもしれないわね」
あゆみは、わずかに目を伏せた。
自分の胸の中にも、似たような棘が刺さっているのだと、言外に語っているようだった。
「……お前も、何か置いてきたのか」
総悟の口から、その問いが零れたのは、ほとんど無意識だった。
あゆみが、はっと顔を上げる。
黒い瞳が、一瞬大きく見開かれた。
湿った夜気の中で、ふたりの視線が絡み合った。
「……どうして、そう思うの」
「なんとなく、だよ」
総悟はそっけなく答えた。
「さっき話してるときの顔が、霊を見てるっていうより、自分を見てるやつの顔だったからな」
「……生意気ね」
あゆみは小さく笑った。
笑った、はずだ。
けれど、その笑みの端には少しだけ痛みがあった。
「たしかに私も、置いてきたものはあるわ。
戻れない場所も」
「教えてくれなんて言わねぇよ」
総悟は、わざとらしく肩をすくめた。
「こっちだって、自分の話をぺらぺら喋るつもりはねぇしな。
ただ……」
ただ、お前だけが重いものを抱えてるわけじゃねぇってことぐらいは、伝えておきたかった。
喉まで出かかった言葉を、総悟は飲み込んだ。
「何よ。
そこで黙るの、気持ち悪いわ」
「お前、本当に口が悪いな」
「事実を言っているだけよ」
きっぱりと言い切るところが、清々しいほどだった。
総悟は小さく吹き出した。
「……少し、安心した」
「安心?」
「陰陽師だからって、何でもかんでも平気な顔してるわけじゃねぇって分かったからさ」
あゆみは、返事をしなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を柔らかくした。
境内の上で、星がひとつふたつ瞬き始める。
寺の屋根の向こうに見える夜空は、町中で見るよりも深い色をしていた。
「そろそろ、戻りましょう」
あゆみがそう言って、総悟の腕からそっと離れた。
足取りはまだ完全ではないが、さっきよりずっとしっかりしている。
「あなたの宿も、この近くなの。
さっき言った黄梁館。
叔父さまの知り合いがやっている宿よ」
「さっきの、軍服みたいなの着てたおっさんか」
「ええ。
橋本雄二。
私の叔父にして、この町の陰陽寮の責任者。
……そして、すごく厳しい人」
最後の一言だけ、あゆみの声がほんのわずかに低くなった。
総悟は、駅のホームで見た髭面の男の顔を思い出した。
「ああ、なんか分かるな。
あの目は、絶対ちょっとやそっとじゃ笑わねぇタイプだ」
「そうね。
小さい頃から、笑っている顔をほとんど見たことがないわ」
「親父みたいに、どうでもいいところでヘラヘラ笑ってるよりはマシかもしれねぇけどな」
「あなたのお父さん、そんな人なの?」
「ああ、ハゲで、酒くさくて、やたら世話焼きで、肝心なときだけ格好つける。
……多分、いい親父なんだろうよ」
自分で言っておきながら、総悟はわずかに視線をそらした。
あゆみは意外そうに瞬き、それからふっと笑った。
「……いいじゃない。
私は、羨ましいと思うわ」
「羨ましい?」
「ええ。
少なくとも、胸を張ってそんなふうに話せる人がいるんでしょう」
その言葉に、総悟の胸がちくりと痛んだ。
「叔父さまのことを、そういうふうに言える自信はないもの」
「まあ、あの雰囲気じゃな」
「でも、嫌いってわけじゃないのよ」
あゆみは、境内を振り返った。
「厳しいけれど、私を育ててくれた人だから」
その背中に、総悟は少しだけ親父の影を見た。
似ているわけでもないのに、どこか重ねてしまう。
寺を後にし、石段を下りる。
夜の空気はさらに冷たくなっていたが、さっきまでまとわりついていた重さは幾分薄れていた。
町へ戻る小道には、ぽつぽつと街灯が灯っている。
その光の輪の中を、ふたりは並んで歩いた。
並んで、というには少し距離がある。
腕一本分ほどの、微妙な間。
手を伸ばせば届くかもしれないが、伸ばそうとはしない距離。
どちらも、その間合いを壊そうとはしなかった。




